アメリカン・モーニンング(前編)

『さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ』(『長いお別れ』/レイモンド・チャンドラー)
* * * * * * *
父は故郷を失った。
ここでいう故郷とは非常に限定された便宜的な意味合いを持つのかもしれない。
父の故郷は今も存在するし、これからも存在するだろう。そして、それは父がこの世から消えてしまったとしても永久的に存在するだろう。仮に父の故郷(非常に山奥の農村なのだが)が都市計画で高層ビルが立ち並んだとしても、山が無くなって高速道路が出来ても、当然父の実家が取り壊されても、川が埋め立てられても、市町村合併で故郷の地名が無くなっても存在し続けるだろう。それは緯度と経度によって表わされる実存的な意味における故郷である。
しかし、父は故郷を失ったのである。便宜的な意味においての故郷。そしてそれを僕も感応する事になる。
* * * * * * *
それは 今から半年前だった。
叔父(父の一番上の兄)は癌で数ヶ月前から入院していた。
この一週間が山だろうという事で、亡くなる数日前に医者の勧めで、兄弟や孫や親戚を全員呼んでいた。生きている間に顔を見させてあげたいというのである。遠いところから来る者もいて、当然父もその一人だが、それがいわゆる最後の別れになる事を意味していた。父も仕事が忙しかったので、一泊して兄(つまり僕の叔父)と最後の別れをして帰ってきた。父が次に故郷に帰るときは、それが伯父の葬式である事は明白であった。
それは父が実家から戻ってたった四日後の事だった。だからその電話は当然予期されていたものだったし、僕ら家族は、悲しみを除いてはそれ程の驚きを感じなかった。
あと数週間で年が終るいう十二月の晴れたある日。父と僕と兄は喪服を手にぶさらげ、新幹線で父の実家に向かった。まだ結婚していない二九歳の僕と三四歳の兄と還暦を過ぎた父。(僕の母は昔に死んでいる)目には見えない、しかしエンジンのどこか大事な部品を失ってしまった中古車の様な家族だ。
「オマエ達もこの前来るべきだったんだよ」
車中で変わり行く景色を見ながら父はそう言った。叔父の最期に会わせてやりたかった、いや会うべきだった言う。そうだった。僕と兄は頷くだけだった。事実、同じ従兄弟は皆来ていたそうだ。叔父は、僕達兄弟が来なかった事を悲しみ、残念がっていたらしい。
僕と兄は約二十年ぶりに父の実家に向かう事になる。二十年ぶりの叔父との再会がこの様な現実である事を悲しみ、寂しかった。僕は生きている叔父ともう一度会うべきだったのだ。多分、兄もそうだ。
そして途中、私鉄に乗り換えて数時間。駅からタクシーで三十分程の所にその村はあった。
二十年ぶりのその村は、それでも何一つ変わっていなかった。山と森と林と田んぼと畑が典型的に存在する。東西に流れる大きい川が一つだけあり、そこに架かる橋はバス通りとなっている。鳥の声と、風の音と、土の匂いしかなく、冬の冷たさを持つ白濁色のアンダートーンに緑色と茶色の絵の具だけを無造作に散りばめた水彩画の様な風景だ。小鳥達の問いかけにも、風の囁きにも、森と山と大地は死者の魂を迎えるべく厳粛な沈黙を守り続けていた。
そして二十年ぶりに僕と兄は多くの人と再会した。
父の兄弟、兄と姉は酷く歳をとっていたし、彼らの息子や娘達(僕らの従兄弟)は結婚しているのもいた。その結婚相手とは当然初対面だった。更に彼らには子供が出来ていたし、幼稚園生から高校生までの多くの命がこの二十年の間に誕生していた。僕が二十年前(小学生の頃)何度か遊んであげた子供達は既に社会人になっていた。皆がそれぞれの再会を喜び、今までのそれぞれの歩みを語った。
座敷には数十人の人間がひきしめ合っていた。多分、僕が東京の街中ですれ違っていても誰も気付かないだろう。村の不変に反して、時の流れの持つ意味を誰もが噛み締めていた。
父は十六歳迄その村で育ち、父(つまり僕の祖父)と大喧嘩をして、家出同然に村を飛び出し東京出てきた。父の実家は村の名家で、広大な畑と田んぼ、そして幾つもの山を所有していた。村でテレビを一番初めに買ったと言うのを昔父から聞いた記憶がある。
父は東京に出ると貴金属加工の職人として丁稚奉公をし、どの同期よりも一番早く独立をした。時を同じくして母と出会い結婚し、二十代半ばにして(僕の生まれた町に)家を建てた。結婚を期に両親(特に父)とも和解し、もともと兄弟同士仲が良かったので実家や兄弟と良好な関係を続けていた。
(僕の)母が死んだ時も、実家や兄弟は父に対し、非常に暖かい手を差し伸べてくれた。それから(父の)父と母が、そして数年前には一つ上の兄も亡くなった。そして今回、長男も亡くなってしまった。そうして実家は、長男(叔父)の息子の代に受け継がれ、その子供達も成人する歳になっていた。
実家の居間の片隅で一人ぽつんと遠くから兄の祭壇をぼんやり見つめる父の姿は、小さな窓の隙間から迷い込んだ蜜蜂が花瓶の花に止まって、消えたテレビのブラウン管に映る自分の姿を見つめている様だった。
突然、父はその居間の片隅から叔父の祭壇に向かい、叔父の名前を呼びながら崩れ落ちた。父のそんな姿を見るのは初めてだった。
僕ら兄弟は自然と席を外し玄関へ出ると、中庭では喪服に身を包んだ大勢の親戚達がドラム缶で焚き火をして暖をとっていた。炎は空気を燃やし、吐く息を吸い込んでいった。薪はカタッという音を立てながら炎に飲み込まれ、炎は勢いを増し、そして弱まると新しい薪を取り込んでいった。僕らはその繰り返しを眺めながら煙草を吸っていた。炎を取り囲む様に遊びまわる子供達、再会に話が弾む者達、叔父の思い出話にふける者達。傍らで死に行った人間がいて、そして燃え盛る炎を中心にしてそこには生のエネルギーが満ちていた。叔父が残した命、叔父が創り上げた何もかもが脈々と生き続けていた。
葬式は村人全員が参列する程の規模だった。僕はその間、二十年前の叔父の面影を追っていた。夏休みに朝早く起きて一緒にカブト虫を捕まえに行ってくれた叔父。ビールでは無くよくコーヒーを飲んでいた叔父。一緒に紅白歌合戦を見ながら隣で年越そばをすする叔父の横顔。しかし、何故か涙は出なかった。薄れていく限られたそれらの記憶しか存在しない事自体にやるせなかった。二十年という歳月は長過ぎたのだ。あまりに、そして十分に時は流れ過ぎていってしまった。
葬式が終わって、僕ら家族三人は夕刻前のほんのわずかな時間に散歩をした。それは父の少年時代の遊び場でもあり、僕ら兄弟が夏休みに遊び回った場所だった。
実家を出ると左右に道が分れ、右へ行くとバスと通へ出る。僕らは左へ曲がった。アスファルトの道は賞味期限の切れたクッキーの様にひび割れをしていた。数十メートル程行くと急に暗い竹やぶが広がった。乾ききった冬の風は笹の葉を揺らし、それ以外の音がこの世界から消されてしまった様だった。そして前触れも無くアスファルトは土の道になり、ゆるやかな傾斜を登った。登りきると同時に竹やぶは突如姿を消し、一面に広大な畑と田んぼが姿を現した。
真っ白な空はその領土を目一杯に拡大させ、わずかな鳶と鷲とカラスが、その広大な空に飛行する場所を弄んでいた。各々が好き勝手に鳴き声を響かせていた。田んぼと畑は地平線まで続き、真ん中には農道が一直線に果てしなく続いていた。その向うには、古代中国の都市の城壁の様に、誰の侵入も許さぬかごとく、その不揃いの山々が全面に広がっていた。
僕らは農道をしばらく歩き、途中で右に折れ、田んぼと田んぼの間の道をひたすら歩いていた。何も遮るものがないせいか、風は北から南、東から西、左から右、上から下へと、僕らの存在を無視する様に吹き荒れていた。僕らは一言もしゃべらず、遠くの木々が揺れる硬い音と、風が風を押しやる鈍い音だけに耳をすましていた。次第に農道は小さな林へ入っていった。あたりは急に暗くなり、様々な木の実の匂いに支配されていた。林を少し行くと池があった。
昔、僕ら兄弟が、当然父の小さい頃もだが、よく遊んだ池だ。小さな林の中心を丸く刳りぬいた様に直径三十メートルくらいの池だった。水は澄み渡り、水面は恐ろしい位に波一つ立ててなかった。ちょっとした魔法があれば一瞬にして固まってしまうかの様だ。
父は少し離れた所でその池の水面をじっと眺めていた。時折、落ち葉を踏みつける音だけが聞こえた。父は小さな石を拾い上げると、思い切り池の中心に向かって投げた。その音はそのまま林の隙間に顔を覗かせた空にまっすぐと吸い込まれていった。父は僕らに何か言おうとしたが止めて、ポケットに手を入れたまま、投げた石で出来たかすかな水面の波紋を目で追っていた。林も池も、そして僕らも、深い静寂に中に取り残されていた。
そして父はその日、決定的に故郷を失った。便宜的な故郷の喪失だった。
(父の)父が死に、母が死に、すぐ上の兄が死んだ。そして長男が死んだ。父はこれまであまりに多くの身内の死に直面してきた。それは父の歳であればそれ程珍しくないのかもしれない。しかしその度にゆっくりと故郷の一部を一つづつ失ってきた。それは回転扉のガラス扉が一枚ずつ無くなっていく様に。そしてその回転扉はピタリと回転を止め、ただの一枚の大きなガラス板として入り口を塞ぐのである。ガラスの向うにはそれでも故郷は存在し続ける。向う側から誰かが言うのである。
「あなたの故郷はここに在りますよ。ずっと。例えどんなに変わろうともここはあなたの故郷ですよ。いつでも戻ってきていいんですよ」
しかし、その声はぶ厚いガラス板に遮断されて、父の耳には届かないのである。父は便宜的な故郷を失って、ガラス板の前に静かに佇んでいた。
* * * * * * *
僕にも一応故郷はある。厳密に言えばそれが故郷という代物であるかは分らない。そもそも故郷という定義すら分らない。時間に限定されたものなのか、距離に限定されたものなのか。
僕は二四歳までその町で育ち、家族(父と兄)で今の町に引っ越した。しばらくして僕は実家の近くで一人暮らしを始めた。その町は、今の町から電車で三十分程の距離にある。今の町のどこか一番高い鉄塔に登ればあの町の雲を発見出来るかもしれない。あの町の空を飛ぶ鳩は一時間後、僕の頭上を飛び回るかもしれない。それ位の距離だ。
その町は、駅前にロータリーがあり、バスターミナルがあり、東西南北かなり遠くまでの経路を数え切れない程抱えている。いつもテレビの取材が来てそうな商店街であり、大型量販店でも出来そうものなら一斉発起して反対運動をしていしまうのである。少し行くとバス通りがあり、それと交わる様に大きな幹線道路がある。その町は街工場の町として栄え、今でもその幹線道路沿いには小さな工場が幾つも立ち並ぶ。車の騒音と、工場のプレスの機械が金属を型で打ち抜く音が混ざりあって、タイヤと油の匂いと共に町中に漂っていた。当然、大きなスーパーもあるし、コンビにも幾つかあるし、小学校と中学校もある。下町の専売特許の様な街だ。
僕が二四歳までどの様にその街で育ったかはあえて書かない。ごくありふれた普通の少年時代だった。ちょっとした悪さもしたし、学生時代には好きだった女の子とその街を歩いた甘酸っぱい思い出もある。そして僕は、僕という人間の九〇%をその町の中で形成された気がする。ホットケーキの最後にのせるバターを除いた部分までだ。
その町の友人達は、僕が小学生と中学生時代の友人である。僕が二四歳で今の町に引越してから現在に至るまで、僕はその町の友人達と非常に良い関係を保ち続けている。高校以降に出来た友人達と同じく、その古い友人達とも公平に付き合ってきた。いつも五〜六人のグループだった。それぞれが高校生になっても、就職をしても、僕達は会っていた。時にはAとBと僕。CとDとEと僕。ある時には僕を除く皆。僕が引っ越してからも、その度に僕はその町まで行って飲んだ。彼らの殆どがその町に住んでいるという単純な理由であった訳だが、僕はその町に行く度に落ち着いた安らぎを感じた。単なるノスタルジーではない。僕の中の大部分がまだそこの町に存在する様な、そこに同化する度に僕の中に在る小さく美しい何かが顔を出すのである。それは他人にとって美しいものではない。造形者は僕であり、鑑賞者は僕だけである。それだけだ。
その友人達と飲む時どんな話をしただろうか。昔オマエはこうだったとか、こんな悪さを一緒にしたとか、駄菓子屋のオヤジが面白かったとか、中学校の先生がよく言っていた口癖の事とか。そして、会う事がなくなった同級生の誰が今こんな仕事をしてるとか、結婚したとか、厄介な問題に巻き込まれて消息不明とか。また、現在の恋人の話とか、仕事とか、未来や将来の事とか。笑いがあり、沈黙があり、少し興奮して話したり。僕らはテーブルを囲んで語り合っていた。
僕がその町を離れてから、それでも少しづつ僕らも町も変化し続けていた。空き地にビルが建ったり、それまであった店が姿を消し、新しい店ができ、公園の砂場が埋められてなくなったりした。道が広げられ、新しい住宅地が出来たり、ファーストフード店やファミレスも幾つか出来た。それでもその町は全体的に見ればそれ程の変化はなかった。どこかの国で紛争があっても、どこかの軍隊が遠い国に攻め込んでも、どこかの国王が死んでも、地震や火山の爆発があっても、地球がそれでも丸く、太陽の周りで恒久運動を続ける様にだ。
しかし僕らは変わった。それは僕が今の町へ引越てから数年してからだった。友人の一人が仕事の都合でその町を離れ、別の友人が結婚して出て行った。一人暮らしを別な町で始めた友人もいた。そして今から一年前に、僕が二八歳の時に最後の友人がその町を出て行った。
僕がその町に行くことはもう無くなっっていた。それは小さな欠落感だった。
* * * * * * *
それからしばらくして、つまり今から半年前の事だった。叔父が亡くなってすぐの頃だった。
僕はその町でその人と再会した。何故、そしてどんなきっかけで僕がその町を訪れたかは思い出せない。友人が誰もいなくなったその町にその時何故僕がそこに居たか、分らない。多分、仕事の関係とか、何か些細な事だった様に思える。その時、僕は駅前の本屋で本を読んでいた。一月のやけに風の強い底冷えした夕方だった。
「ねえ、花田君でしょう?」
その時、僕の前に立っていた女性は紺のスカートを履き、グレーのタートルネックを着て、ベージュのコートを羽織っていた。ブラウンのマフラーを無造作に巻いていた。それでも全体的には小奇麗にまとまっていた。身長は僕より十センチ程低く、軽く脱色した髪は肩まで伸びていた。心地いい笑顔と清潔感が本屋の紙の匂いをかき消していた。僕の名前を言ったその女性が誰であるか、それが判明するのにひどく時間が掛かった。薄暗い記憶の鉱山の第三ゲートから入り、トロッコに乗ってまっすぐ進み、T字を右に曲がり、しばらくして突き当りに一枚のドアを見つけた。そのドアの上にはその町の名前が書いてあり、薄っすら埃が被り文字の一部が消えていた。僕は持っていた幾つかの鍵を鍵穴に差し込んだがドアは開かなかった。すると突然ドアが向こう側から開いて、その女性が立っていた。
「覚えてる?私よ。シノハラユキコ」
扉の向うの暗い部屋の灯かりがつき、その彼女が誰であるか初めてわかった。
「シノハラユキコ・・・・うん?篠原由紀子・・・・ああ、覚えてるよ」
僕と彼女は、小学一、二年生の時、中学でも三年生の時だけ同じクラスだった。彼女は、よかった思い出して、という様なホッとした表情を見せて笑った。
「凄く久しぶりね。何年ぶり?」
「十五年位かな?だって中学を卒業してから会ってないよ。多分」僕は持っていた本を元に戻した。
「そうね」と彼女は言って、もう一度僕の顔を覗き込んだ。
「花田君、全然変わってないね」
「そう?」
僕は、彼女のその言葉に少しだけ気持ちが暗くなった。三十歳を目前にした男が中学からあまり変わっていないという事実を聞かせれる事はあまりいい気持ちがしない。それが彼女にとってのささやかな親切心を内包した嘘であると望んでも、十五年ぶりに会う人間に対して唐突に出た「変わってないね」という言葉にはそれなりに重みがある。そしてそれは客観的に揺るぎない事実として、俺は変わってないのだな、という死刑宣告に似た鋭さを持ち合わせていた。僕は咄嗟に本屋の入り口のガラスドアに映る自分の姿をぼんやり見つめていた。
「篠原は変わったな。最初全然分らなかったよ。ホント」雑誌の表紙に写った名前も知らない女性のタレントに向かって話し掛けている気がした。彼女は実際変わったし、彼女が自分の名前を言うまでは気付かなかったであろう。しかし、それでも久しぶりに会う女性に対する礼儀としての言葉だった。
「花田君は今日どうしたの?遊びに来たの?」
僕はかぶりを振った。
「花田君の家は確かだいぶ前に無くなってるよね。引っ越して今どこに住んでるのかしら?
僕は今いる町の名前を出して、そして家を買って家族で引越し、今は実家の近くで一人暮らしをしている事を言った。
「へえー。」
自然と僕らは本屋を出た。
「篠原はまだこの町に住んでるの?」
「ええ、そうよ。まだ実家に住んでるわ」
「ここも変わったね。だいぶ」僕は駅から家路に向かう人の群れを見ながら言った。
「ホント変わったわ。新しいお店が沢山出来たし」
僕らが駅の正面に着いた頃、彼女は言った。「花田君、帰るの?」
僕はその日、別に用事がある訳じゃなかったので「いや。」と言うと「少し話さない?」と彼女は言った。僕が頷くと、彼女は目の前の喫茶店を見つけた。
「あそこにする?」彼女がそう言った後、僕はしばらく考えていた。
「どうせなら飲もうか?もうお互いに十分に酒の飲める歳だし。篠原は時間大丈夫?」
「そうね。なんかつのる話もあるし」と彼女は心地いい返事をした。
そして、僕らは近くの居酒屋に入った。
最近出来たであろうその店の奥のテーブルに座り、生ビールを二つ注文して乾杯した。お互いにお腹が空いていたので幾つかのつまみを注文した。彼女は近くで見ると本当に中学生の頃の面影をなくしていた。それは良い歳の取り方をしていたし、事実、美しい大人の女性になっていた。彼女は昔大人しく、それ程クラスでは目立つ存在ではなかった。休み時間にはいつも一人で読書をしている様な存在だったし(本当に読書をしていたかは思い出せない)、特にピンク色の服をよく着ている事だけは鮮明に覚えていた。何度か席が隣になった時にはノートを見せてもらった記憶がある。勉強はそこそこ出来たし、聡明な感じがあった。誰から嫌われるといった類の人間ではなかった。その部分においては目の前の彼女はあまり変わらない様な気がする。
まず小さな沈黙があった。それは僕らがこの十五年の間に何があったか、何からしゃべり、何を話し、何を話すべきじゃないか。それを何十年前の大掛かりな計算機の様にゆっくりとその答えを弾き出していた。そうしながら僕は煙草に火をつけ、彼女はその細い手で何度も髪をかきあげた。とりあえず僕がゆっくり話し始めた。二四歳で今の町に引っ越した事。高校に入ってからも仲の良かった連中と遊んでいた事。それが今も続いている事。つい一年前までは遊びによくこの町に来ていた事。しかし仲の良い連中が今では皆出て行ってしまって、今日はたまたま一年ぶりにここに来て君と偶然会った事。彼女は、僕の言葉一つ一つに頷き、会話の中の友人の名前(当然彼女も知っている訳だが)に何度も「なつかしいわ」と言いながらジョッキに口をつけていた。
「皆、元気なのね。でも、花田君は最近までこの辺で飲み歩いていた訳でしょう?それでも一度も会わなかったなんて不思議ね」
「そうだね」僕は頷きながらビールをおかわりした。
「ねえ、花田君は今でもみんなと遊んでいる事は分ったけど、花田君自身はどんな十五年だった?」
僕はしばらく考えてから笑って言った。
「人並みの高校に入って、人並みの恋愛をして、人並みの会社に入って、人並みの給料を貰って、人並みに酒を飲んで、人並みに煙草を吸う。かな」
彼女はつまみの唐揚げの衣が全部吹き飛んでしまいそうな位の大声で笑った。
「ねえ、面白いわ。ホント。そいういう所は全然変わってないね。」
「そうそう、でも人並みじゃないのは記憶力かもね。私の事、最初気付かなかったし・・」彼女は付け足して言った。
「だね。」
彼女は二杯目のビールを注文した。
「今、何の仕事してるの?」
「小さな広告代理店で働いてるよ。」
「へえ。凄いじゃない」
「全然」僕はかぶりを振った。
「小さな飲食店のPRや、町のフリーペーパーの求人とかね。あとはスーパーのチラシや折込なんかね」
実際にたいした仕事じゃなかった。ちょっとした戦争や天災があれば、一番最初に社会から剥ぎ取られていくような仕事だ。クライアントにも印刷所にも何かあればしょっちゅう頭を下げる。僕に頭をさげる人間はスーパーのレジ係り位なものだ。
「本当に人並みの仕事さ。会社の机の数はこの居酒屋よりも少ないぜ」僕は周りを見渡して言った。彼女は、無理やりに表面にニスを塗ったみたいな乾いて腐りそうな刺身を箸で突付きながら、それを食べようか迷っている様子だった。
「ねえ、覚えてる?花田君の卒業アルバムの一言コメント」
「ヒトコトコメント?」
「そうよ。一言コメント」僕はその言葉を空中で描いてみた。
「花田君はねえ、『人並みに精一杯生きます』って書いたのよ。覚えてない?」僕は全然思い出せなかった。
「それにしても凄いコメントだな。究極的にポジティブで、究極的にネガティブな言葉だ」
「だから花田君のさっきから言っている「人並み」って言葉。やっぱりあれから変わってないんだなあって思うの」
彼女はセーターについた毛だまりを二つ程つまんで、灰皿に捨てた。その間も平均的な笑みを浮かべていた。
「でもね。この歳になって分ったけど、人並みに生きる事も、精一杯生きる事も結構難しいって思うわ」
「確かに・・・・・篠原はどうなの?」
「だから花田君は卒業アルバムに書いたとおり、人並みに、精一杯生きてるんでしょう?それって凄い事よ」彼女は僕の質問を無視して言った。
「でも。精一杯かどうかは分らないな。まあ、そのつもりだけど」その答えに彼女は小さく頷いた。
「そうそう。私ね・・・・」彼女は思い出した様に言った。何か衛星中継で話しているみたいだ。彼女は少し考えた後、グレープフルーツサワーを注文して、改めて座りなおすと話はじめた。
「私は短大を卒業して、多分、花田君のとこよりも小さい洋服のデザイン会社に勤めたわ。でも、その会社も二年前に倒産して・・・その後は、派遣の仕事をしているの。主に端末の打ち込みなんかね。まあ、食べては行けるけど」
彼女は、サラダのトマトの部分だけを意識してどけながら、それを口に運んだ。そういえば彼女は中学の時、いつも給食でトマトを残していたのを思い出した。そのトマトは洗濯を終った後に洗濯層に残った十円玉の様だった。本来、戻るべき所を待ちわびているかの様な憂鬱な表情をしていた。そして彼女も今そんな表情をしながら、僕の肩口をぼんやり見つめていた。
「ねえ、花田君は結婚しているの?」
「いや。・・・・・篠原は?」
「私もよ・・・ その点ではお互い人並み以下ね」笑いながら彼女は言った。
「確かに」
僕らはその後、しばらくとりとめのない話を続けていた。
「そろそろ帰らなくちゃ」
二杯目のグレープフルーツサワーを飲み干した時だった。
「ああ、そうだね」時間は夜の十一時を過ぎていた。
「とても楽しかったわ。また会って飲みたいわね。花田君がOKなら。」
「構わないよ」僕は携帯の電話番号を紙に書いて渡した。彼女の番号は聞かなかった。
* * * * * * *
僕は家に着くと、その日あった事、すなわち篠原由紀子と十五年ぶりに再会をし、何を話したか思い起こした。
缶ビールを一口飲み、部屋のどこからか探し出してきた中学の卒業アルバムを広げた。そこに写る彼女と僕はあまりに典型的な中学生の女の子と男の子だった。集合写真では僕の右下に篠原由紀子が写っていた。彼女はバトミントン部、僕は天文学部だった。しかし、一度も天体望遠鏡で空をきちんと見た記憶がない。それ以前に彼女と僕の所属クラブさえ忘れていた。今の僕は空に浮かぶ土星と金星の区別すら出来ないし、ましてや空の東西南北すら分らないだろう。夏見えるのはオリオン座?冬は北斗七星?こんな具合である。それらを改めて勉強するより、自分が天文学部に入った理由を思い起こす事が先決である。
篠原由紀子と僕は比較的多く同じ写真に収まっていた。多分、中学三年の時の春の遠足と理科の実験の風景だろう。彼女はいずれもピンクをベースにした服を着ていた。ピンクの服を着た二九歳の篠原由紀子も見てみたい、とも思った。理科の実験の写真では、僕が何かを手にして何かをグループの皆に説明している姿を横から写している。その僕の顔を何か真剣に見つめる篠原由紀子の姿があった。
FMラジオをつけると、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れていた。
『やあ暗闇、僕の旧友。
また君と話しに来たよ。
だって、一つの夢が、僕の寝ている間に、
そっと忍び寄ってきて、
僕に夢の種を植えていったから、
それが僕の脳味噌の中で芽を出し、
沈黙の音の中で育っているから。』(『sound of silence』/Simon&Garfunkel・1966)
僕はギターを手にとりそれを弾いてみた。昔スコアブックを買って練習した事がある。結局上手く弾けなかったので諦めて、煙草を一本吸った。缶ビールは部屋の冷たさに一層その温度を下げた様だった。そして僕は胸の中に小さな嵐が吹き荒れるのを感じた。僕が中学三年生の時に篠原由紀子を少しだけ気になっていた記憶だ。当時それが恋愛感情だったかどうかは思い出せない。むしろ好意というものだろう。その思いは決して長く続かなかったのだけは思い出せる。それは道端に落ちていた木の実を、どこからか飛んで来た小鳥が口ばしに挟んで、そのまま飛び去ってしまう位の一瞬の出来事だった。彼女と共に写った写真の中の僕は一体彼女に対しどんな風に思っていたのか。僕は考えるのをやめて、残りのビールを一気に飲み干した。
* * * * * * *
篠原からの電話はその二週間後だった。僕は人並みの会社に行き、その日人並みの仕事を終えて会社を出た時だった。
「こんばんは。この前はありがとう」
電話口の篠原の声は暗くて遠く、昔観たアメリカのスパイ映画に出てくる秘密結社のボスが新しい指令を出す時みたいな声だった。
「こちらこそ。」
「ねえ、また飲みたいわ。近いうちに」
「いいよ。いつごろ?」
「うーん。今週末はどうかしら」
「構わないよ。どこで飲む?」僕は、通りの植え込みで誰かと携帯で話している若い女の子を見ながら言った。
「出来たら、こちらに来てもらいたいわ。」
「分った。そっちに行くよ。今週の土曜日の夜七時に駅の改札は?」
「うん。大丈夫よ。」
僕が電話を切った時には植え込みの女の子はいなくなっていた。会社から駅へ向かう途中にある馴染みの喫茶店の前で、不意に僕は半年前に別れた彼女の事を思い出した。
* * * * * *
ある時期、僕は昼休みにいつもこの喫茶店によく行っていた。
店は「eau de cafe」という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。カウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。
ブレンドとアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロ、モカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしていた。僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。
あれはちょうど一年位前だった。
僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の九時少し前に店に行った。店の前では若い二十代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなの」彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。
「よく昼間にいらっしゃる方よね」
彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりも長いその髪を後ろで束ねていた。
「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもコーヒーを飲みたくてね」
「ごめんなさいね。ここのコーヒーは好き?」
僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってる?」
「あそこ美味しいわよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私たまに仕事終わるとそこでコーヒー飲むの」
彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを一つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って煙草に火をつけた。三十分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。
「ここいいかしら」
僕が頷く暇も無く彼女は僕の前に座った。
「ねえ、それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」
束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。
「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを一つってね」
「そうだった?」
「ええ、そうよ。よく覚えてるわ」
火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。
「同じのね」
「お邪魔だったかしら?」
「もう座っている」僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上で指先で何かを書いていた。
「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」僕は「eau de cafe」の裏手にある会社の名前を出した。
「ふーん。」彼女は、そんな会社聞いた事がないという風に、全く興味がないそぶりで言った。
僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると「これ?これは地底人の話よ」
「チテイジン?」本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。
「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」
「目薬?」
「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女二人が地上に上がるの。そしてなんとかして目薬をやっと一万人分手に入れるの」
「それはどれ位の量なの?」
「分らないわ。多分、ドラム缶十本分くらいよ。でも地底人は全部で二万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」
「凄い話だな。」
「そうね。目薬戦争よ」
「メグスリセンソウ?・・・最後は?」
「結局、その目薬を地下水で二倍に薄める事で決着がつくの・・・」
「ふーん。それホント?」
「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ十ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね」
僕は大きく溜息をついた。
「ねえ、コーヒーは好き?お酒はあまり飲まないの?」彼女は訊いた。
「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目のを一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね。一日三杯は飲む」
彼女は頷きながら髪を耳にかけながら訊いていた。
「君は?」
「ええ、好きよ。昔は駄目だったけど、今はね。あそこで働く様になってから好きになったわ」
彼女はコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。
「泥んこだみたいだね」僕がそう言うと
「何?ドロンコ?」
「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色だよ。」
「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。
「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」
「毎回じゃない」
「ふーん」彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭三つ分上くらい上を目掛けて煙を吐いた。僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。
「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってたかしら?」
「いや。」
「はあ」彼女は大きく溜息をついた。それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。
「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」
「そうか?」
「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの。」
「美味しいよ。ホント」
「そう?嬉しいわ」
彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。
「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ」
「感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」
「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」
「どういたしまして」<
しばらくして彼女は言った。
「ねえ、あなたの落とすコーヒーも一度飲んでみたいものね」
その後、僕達は近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。
「あなたの落とすコーヒー飲みたいんだけど」
朝目覚めると僕らはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕はキッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで二杯入れ、330CCの水を入れる。その間、カップを暖める為に二つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで三分間チンする。しばらくすると二杯分300CCのコーヒーが出来上がるのである。
「美味しいわ」彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。二人のコーヒーをすする音が真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。
「私ね、ホントは婚約者がいたの。」彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。
「へえ。でも、いたのって・・・・どういう事?」
彼女は今日二本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。
「フラれたのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの。」
「それで?」
「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」
「でも、フラれたって?」
「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。・・・それでね。待ってたんだけど、二ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」
「酷い話だな」
「そうよ。酷い話。結局、フラれたの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?でも、この不景気で再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」
彼女は両膝を曲げて座り、膝の上にコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。
「ねえ、おかわり貰ってもいいかしら」
僕はさっきと同じ要領でコーヒーを二杯分落とした。キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。二杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った。
「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね、私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね、努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの。結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」
「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。
「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね。でも努力して、つまり水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間て弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」
「ちょっと待って」僕は彼女の話を遮って言った。
「豆を増やせばいいんじゃない?」
「少し違うの。要は、水と豆の関係なの。豆を増したって、水を増したって、その比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ。」彼女は三本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。
「別れたその彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」
僕らはしばらくの間、考えていた。彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。絶妙なバランス。確かにそうだ。
「私はね、私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」
僕は煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いている様に見えた。
それから半年間の間、彼女の働いている「eau de cafe」で四十六杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを三十二杯彼女は飲んだ。
『あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう』
彼女はある朝、そう書いたメモを残して去っていった。
・・・・一割増しの努力・・・・・
あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの湯気と一緒に薄暗い朝の部屋を漂っていた。その中で僕は一人コーヒーを飲んでいた。
そして、彼女は「eau de cafe」からも姿を消した。それから僕は自然とその店にも行かなくなり、コーヒーすら飲むこともなくなっていた。
アメリカン・モーニンング(後編)
土曜日は少しばかり雨が降っていた。凄く弱い雨だ。
次の日に誰がが「昨日はいい天気でしたね」と言っても信じてしまいそうな雨降りだった。七時少し前だったので僕は駅から吐き出される人の流れを観察していた。折りたたんだ傘を持ってる者、傘をさしている者、傘を持っていない者。それぞれ三割ずつ位だった。僕は傘を持っていなかった。僕がこうしてこの町の駅の改札に立っている事が不思議だった。そして、僕は最後にこの町を出て行った友人の事を考えていた。彼は勤めていた工務店を辞めて、新しい工務店に入り、この町を出てその会社の寮に入った。付き合っている女性がいるが、やはり実家だと色々不都合があるのだろう。彼が終日前に電話してきた時に、僕は偶然、篠原由紀子と会って、そして飲んだ事を言った。彼は、篠原由紀子の事を僕と違ってすぐに思い出し、そういえば篠原由紀子の体の具合が良くないという事を、自分の母親から聞いた、と言った。具体的には何も分らないと言っていたが、僕は少しそれが気になっていた。
七時を十分程過ぎた頃、篠原が僕の肩を叩いた。彼女も傘を持っていなかった。彼女は改札から出てきたので仕事帰りなのだろう。スリムの黒のジーパンに、グレーのセーターを着て白いハーフコートを羽織っていた。先日会った時よりも少し痩せた感じがした。
「遅れてごめんなさい。仕事だったの。あれ?雨降ってるわね。でも大丈夫そうね」
彼女は手の平を上にかざしながら言った。古いミュージカルの様なあまりにも象徴的なしぐさだった。
「どこに行こうかしら?」
僕は駅から少し離れた所にあるバーの名前を言った。名前だけで一度も行った事がなかった。
「ええ、知っているわ。たまに前を通るけど、一度行ってみたかったの」
その店は商店街を抜けてバス通りを少しばかり行った所にあった。多くの買い物客と、一部の傘をさした年配の女性達の間を縫う様に僕らは歩いた。商店街のあちらこちらには新年を祝うモニュメントが撤去されるのを忘れられた上に、微かな雨に打たれていた。きっと年明けまでこのままなのだろう。それは映画『南極物語』のタローとジローみたいだった。そういえば昔、この商店街を抜けた所に小さなおんぼろの映画館があった。そこで小学生の頃『南極物語』を観た記憶がある。どんな映画かは殆ど覚えていない。今は取り壊されて近代的なスーパーになっていた。
そのバーはカウンターが十席程しかない小さな店だった。客は誰もいなかった。ゴールドラッシュの頃と一九五〇年代のアメリカを、刃がかけてしまったミキサーでかき回した様な店だった。とりあえず狙いは「古き良きアメリカ」なのだろう。壁一面にはR&Bとウエストコーストの名盤が所狭しと飾られていた。まあまあ悪くない店だった。むしろこんな下町ではなくて、246沿い辺りでやればいいのにと思った。マスターらしき若い主人は僕らに軽く挨拶をすると、ひたすらレモンのカルチェを切っていた。多分一年分くらいだ。僕は黒ビール、彼女はコロナを注文した。マスターの切ったレモンはようやく一つ消費された訳である。
「私、この曲好きよ」彼女はイントロのリフに合わせて、右手の人差し指と中指でリズムをとっていた。ドゥービー・ブラザーズの『ホワット・ア・フール・ビリーブズ』だった。悪くない。一九七九年、確か僕らが小学生に入った年、僕が初めて篠原と出会った年の曲だ。
彼女は、今の仕事の愚痴や当り障りのない世間話を始めた。仕事場の上司がエロオヤジとか、派遣で来た連中を人間扱いしていないとか、それでも派遣社員達は我慢して耐えているとか。一人の派遣社員はそれでもエロオヤジに媚びを売って、彼女がその上司と不倫しているのではないか、とか。彼女は十八回溜息をつき、その間に二本目のコロナを空にしていた。僕はその間、二本煙草を吸い、つまみのカマンベールを四切れとミックスナッツを十五粒食べていた。マスターは次にライムのカルチェを切り始めていた。これもおそらく一年分なのだろう。
「花田君は仕事大変?」
「いや。大変だけど、大変な様に追い込まない様にしているよ。自分で。要領よくね」
「花田君らしいわ・・羨ましいなあ」
僕はジンライムを注文した。その時、常連客らしい三十代前半のカップルが入ってきた。男性の方が何やらマスターと話し込んだ後、ランディ・ヴァンウォーマーのアルバムをリクエストしていた。二曲目の『アメリカン・モーニング』がかかり始めると、篠原は言った。
「これって、恋人達の幸せな朝のひとときを歌った歌じゃないのよね。朝に彼女のほうが去っていってしまうという悲しい曲だって、最近知ったわ」
「ねえ、花田君は彼女いるの?」彼女はミックスナッツの殻を手の平で弄んでいた。
「いいや。」しばらくして言った。「篠原は?」
「うん、私も。別れたわ。三ヶ月にね。でも、結婚も考えていたんだけど、私自身の問題で色々あってね。それで・・・・それで向うのご両親がそれを知ってね。彼に別れるように言ったらしいの・・・でも・・私は二人だけの問題だから大丈夫って思ったわ。でも、最終的に彼は彼の両親に従う形でね・・・それで・・それで終ってしまったの」
「ねえ。聞いちゃいけないかもしれないけど、その君自身の問題って何?」僕は訊いた。
「うん。それはね・・・」彼女はしばらく指のマニキュアを眺めていた。
「花田君に言ってもしょうがないわ。実際に私自身にもどうする事も出来ないし・・・ごめんなさいね。変な話で」
「いや。構わないよ」
「花田君はどうして別れたの?」
「分らないな。ある朝、彼女は既にいなくなっていたんだ。そして二度と戻らなかった。それだけ。ホントさ。『アメリカン・モーニング』みたいにね」
「そうなんだ」彼女はそう言った後黙り込んだ。彼女の三本目のコロナのレモンがゆっくりと底に落ちていった。
「そうそう、そう言えば、花田君は中学三年の時、広河さんと付き合ってなかった?」その唐突さは静かな日曜の午後の間違い電話みたいだった。
「えっ?」僕はその時、歯が異常に黄ばんだ取引先の営業マンの広川を思い起こしていた。広川・・・・広河さん。
「・・・・うん。懐しいなあ」広河さんという女の子は中学三年生の時に春の終わりから秋まで付き合った子だった。高校受験にお互い追われて自然消滅してしまったのだ。
「篠原と仲良かったよな?」
「ええ、高校に入ってからも度々会ってたわ。今はもう実家ごと越して、数年前に結婚したって聞いたけど」
「ふーん。今でも誰か会ってるの?」
「うーん。もう誰とも会ってないわ。仲の良かった人達はね。実家ごと越したり、結婚してどっかに行ってしまったから」
「そりゃ十五年だもな。」
「うん。ホント・・・誰も残ってないわ。私だけがこの町に取り残されているみたいで。でも好きよ。この町は」
小さな溜息が表の車の音でかき消されていた。そして僕らはそれぞれの中学時代の思い出を話していた。次第にそれは彼女のエピソードが僕のエピソードと繋がり、僕のエピソードが彼女のエピソードと繋がっていった。驚きと発見と誤解。僕らは十五年前の断片的な過去の出来事を少しづつバーの片隅でけなげに組み合わせていた。バーのマスターはアイスピックで氷を砕いていた。僕らも同じように、ゆっくり凍りついた何かを砕き、それは暖かな川の流れになっていた。
* * * * * * *
僕はその夜、天井を睨みながら、篠原由紀子と繋ぎ合わせた記憶の川の流れに揺られていた。
あれは中学三年になったすぐの頃だった。クラスのある一人の女の子が、校庭の隅のチューリップの花壇に半ば住みついている小さな子犬の野良犬を捕まえてきた。
一週間位前から居たのだという。どこからか紛れ込んでいつの間にかそこに住んでいたらしい。一部の女の子達が先生に内緒で給食の残りを持っていったりしていたのだという。その子犬の存在は生徒達にも知れ渡り、一部の男の子達がその子犬をいじめるので、その女の子がその子犬を保護をして、担任に「学校で飼うか、誰か飼い主を探したい」という申し出をしたのだった。その女の子が篠原由紀子だった。担任は一応に困った表情をしていたが、篠原と数人の女の子の熱意に押され、担任は校長や教頭を説得して、結局その子犬を学校で飼うことになった。校庭の片隅には小さなウサギ小屋があり、その前の年にウサギが全部死んでしまって空になっていた。そしてそこで子犬を飼うことになった。飼育の全責任は僕達のクラスで請負う事になった。平行して校内の学校新聞でその子犬の里親探しを保護者などに呼びかけていた。それから、担任からきちんと子犬の世話係りを作った方が良いと提案があって、その世話係りを篠原とは別に男女一人づつを学級会でくじ引きで選んだ。それが僕と広河さんだった。僕は当然やりたくはなかったが、クラスの男子から人気のあった広河さんとだったら良いと思った。案の定、男子の一部からはやっかみと冷やかしがあったのを覚えている。
広河さんは美人だった。中学三年とは思えない程の成熟ぶりを見せていた。手足はすらっと長く、色白で、リンスを一日五時間位しているのではないかと思うほどその腰までまっすぐに伸びた細く長い髪は恐ろしいほど美しく綺麗だった。その色は新入社員の革靴の色の様だった。ちょっとつまらない冗談を言う癖があったが、広河さんの美しさの前では誰もが許せてしまっていた。僕と広河さんと篠原は登校するとすぐに給食室へ行き、前の日の給食の残飯を貰って子犬にあげた。そして昼休みにはその日の給食の残りと誰かが残した牛乳をあげた。放課後には、広河さんや篠原、時には別の女の子が一時間位散歩をさせていた。僕はやらなかった。
その子犬係りを通して僕と広河さんは仲良くなった。犬小屋の前で僕らはとても優しい気持ちになってなんでも話せる様になっていた。子犬の頭をなでながら、微笑んで小さく開いた口の隙間から見える広河さんの可愛らしい八重歯を見るのが好きだった。その頃から篠原は僕らに気をつかう様になり、僕と広河さんは二人で犬に餌をあげる事が多くなった。それでも僕が気まぐれで犬の世話を怠るときは、広河さんと篠原は一緒によく面倒をみていた。
しかし一ヶ月位してから、突然その小屋から子犬はいなくなっていた。逃げたのか、誰かが首輪を外したのか。結局は分らなかった。気付くと僕と広河さんはそれから自然と付き合う様になったが、しかしそれも秋頃に終っていた。
子犬がふらっとやって来て、そしてある日いなくなった様に。
* * * * * * *
僕はその時、素麺を茹でていた。お中元か何かで貰ったものだ。真冬に素麺というのも不思議だったが、冷蔵庫には何もなかったからしょうがない。僕はその細く白い素麺が鍋の中で何か生命が宿った様にゆらゆらと泳いでいる様子を見て、広河さんの白い肌と細く長い髪を思い出していた。しかしその電話は当然広河さんではなかった。
「ねえ、花田君、今何やってるの?」それは篠原由紀子だった。
「素麺茹でてる」僕はまだ広河さんの事を考えていた。
「えっ?何?・・・そうめん?」
「あーそうだよ。そ・う・め・ん」僕はクイズ番組の解答者みたいに言った。
「嘘でしょ?いま冬よ。ふ・ゆ」彼女もクイズ番組の解答者みたいに言った。
「腹減ってね。これしかなかったんだ。」
彼女の深い溜息が僕の右の耳から左の耳へ通り抜けた。
「まあ、いいや。ねえ、今週の土曜日何やってる?」
「少なからず素麺は茹でてない」
「そうでしょうね。で、どうなの?」
結局、その週の土曜日の夜、僕らは「古き良きアメリカ」のバーにいた。
* * * * * * *
僕は待ち合わせの十五分位前にその店に着いていた。レモンとライムを切るのが大好きなマスターと世間話をしていた。僕はこの店に飾ってあるレコードが大好きだという事を言うと自然と話が弾んだ。
「お客さん、なんか聴きます?好きなの言ってくださいよ」
僕はケニーランキンのアルバム『ザ・ケニーランキン・アルバム』をリクエストした。
「このアルバムの『オン・アンド・オン』と『グルーヴィン』が大好きなんだ」僕がそう言うと、マスターは無言で拳を縦に握り親指を立てた。そして微笑んだ後、レモンを切り始めた。
彼女はしばらくしてやって来た。彼女は休みだったのか、ブルーのジーパンに赤いセーターを着ていた。首元からはピンクのシャツの襟が出ていた。彼女と僕は生ビールを注文した。
「ごめんなさい。遅れて。」僅かに息切れした胸に手をあてながら言った。
「いや。全然構わないよ」
「なあ、篠原。この前卒業アルバムを見てたんだけど、篠原ってピンクの服好きだったよな」
彼女は、僕の視線の先にある自分のシャツを見てしばらくして笑いながら言った。
「ええ、そうね。今も好きよ。ほら」彼女は両方の手の指先でシャツの両方の襟を掴んでいた。
「花田君はさすがに服のセンスは変わったのかしら?でも毎回スーツ着てるわね。土曜日は毎週仕事?」
「ああ、そうだよ。休みは日曜と祝日だけ。」
「でも、いいじゃない。忙しいんだから。私達みたいな派遣は仕事無くって皆ピーピー言ってるわよ」
「まあね。」
「ねえ、そういえば、中学三年の頃の子犬の事覚えてる?」僕は思い出した様に言った。彼女は、僕の顔を顔をじっと眺めていた。その瞳は、僕でなく僕の後ろにある何かを見つめている様だった。
「ええ、覚えてるわ」
「名前なんだっけ?あの子犬の名前は」
「トラよ。」
「なんでトラなの?」
「よく覚えてないけど、確か男子の一人が阪神ファンで・・・その前の前の年に優勝したじゃない?・・・で、なんかあの子犬の模様が虎みたいで。多分ね」
「ふーん」
「確か、あの子犬連れてきたのは篠原だったよな。ウチらで餌やって・・でもなんでいなくなっちゃたんだろうね」
彼女はぼんやりと目の前に並べられたカクテル用のリキュールのラベルを一つ一つ読み取っているみたいだった。
「・・・そうねえ。でも、どこかできっとうまくやったはずよ。あれが良かったんじゃない?」
「うん。そうかもね。餌は確実に確保できたけど、でも自由じゃなかったね。トラは」
「ねえ、花田君。あのね、広河さんと付き合ったのって、トラ、うーん、そうあの世話係りがきっかけだったの?」
彼女は、僕の顔を見ながら的確な答えを求めている様だった。
「そうかも。でも、俺と広河が付き合ったのはトラがいなくなってからだよ。確か」
「ふーん。私に感謝している?」
「えっ?篠原に?」
「そう。だって、私がトラを連れてこなかったら、花田君と広河さんは、仲良くならなかったんじゃない?」
「分らないな」
その時「グルーヴィン」が流れていた。僕はその曲に耳を奪われ、篠原の言葉の深い意味までは理解できなかった。彼女はカシューナッツを一つ口に入れて言った。
「花田君はあの時に戻りたいと思う?」
「中学生って事?」
「そう」
「どうだろうな」僕は本当に分らなかった。
「私ね、最近思うの。あの頃に戻れて、そしてやり直されたら、全てがうまくいってるんじゃないかってね」
「どんな風に?つまり、逆に何かうまくいってないのかな?今は」
「分らないわ。でも、うまくいってないわ。何もかも・・違うわ、うまくいく様に努力してきたつもりだけど、私の中にあるのは本当の私なのかってね」僕は黙っていた。
「最近、そういう事をよく思うの。星を見ながらね」
「星?」
「そうよ。星。今私達の見ている星って凄い遠いところにあるじゃない?でも、今見ている星って、今この瞬間には存在していないかもしれないのよ。つまり今見ている星、それが今の私としてね。でもそれは星そのものじゃなくて星の光なのよね。その光を発している星そのもの、それが本当の私で。その星はもうとっくの昔に無くなってしまってるんじゃないかって、凄く不安になるの」
「つまり、君本来の何かが、遠い昔に失われているって事?」
「うん」
「でもね。篠原、その星そのものが今この瞬間に存在しているかっていう事は、我々は知るすべは全くないんだ。しかし、今僕らの見ているその光は、僕らはそれがその星そのものだと認識している。そして、その光がその星そのものから発せられた事もね。つまり、今の我々は、結局は僕らそのものなんだ。失われてはいない。」
「そうかしら」
「そう。今、その星が存在している、していないではなくて、今、僕達ははっきりとその星の見ている。つまり星は星そのものとして存在している。・・・そうだな。篠原の全ては今、ここにあるという事だよ」
彼女は、唇を噛んだまま耳を傾けていた。僕は続けた。
「星そのものが原因で、今見ている星つまり光という仮の姿が今の自分だと仮定しても、結局は、あの頃に戻っても何もかわらないんじゃないかな?」
「じゃあ、今私の抱えている問題や、今の自分という姿は、私の本来の姿、つまり私そのもの全てという事?」
「そういう事になる」
「悲しいわ。」
「でも、それに納得出来なくても、もしくは、本来の自分の生き方や本来の姿がどこか別の所にあるとしたいと望んでも、今の君そのものが本来の自分が作り出したものであるという事は違わないんじゃないかな?」
「要はこれが宿命みたいな?」彼女は訊いた。
「分らない。宿命とか運命とかが本当にあるかは分らないけど、でもそれに似た観念は存在するかもしれないね」
「ねえ、花田君自身はどうなの?」
しばらく考えてから言葉を選んで言った。
「人間は確かに後悔したり、自分を変えようと努力したりするものだよ。でもね、さっきの星の例えじゃないけど、僕は僕でどこまでもその星なんだよ。取り替える事は出来ない。そして、その星そのものが光を発して、長い間宇宙空間を彷徨い続けるんだ。だから僕は、僕として輝き続ける努力しか出来ない」
「それは、『人並みに精一杯い生きます』って事?」彼女は微笑んで言った。
「そう。そういう事。光を発した星そのものの存在なんか実はどうでも良いんだ。輝き続けるって事。僕らしくね」
「僕らしくねえ。じゃあ、私らしくするには?だって、今の私が私そのものなんでしょ?」彼女は訊いた。
「それは篠原にしか分らない。ただ、君のさっき言った事は、自分で自分の光そのものを消そうとしているんじゃないかな?」
「消そうとしてる?」
彼女はその後、どこでもない空中をぼんやり眺めながら、時折、彼女そのものが霞んでいく様な深い悲しみに包まれていた。僕は自分の言った事を反芻しながら、煙草に火をつけ、煙の行方を見守っていた。そして、彼女は喉の奥にある黒い物体を押し出す様な声で言った。
「ねえ、花田君。・・・・トラを逃がしたのは私なの」
「えっ?」
「そうなの。私が逃がしたの。何でか分らないわ。トラを見つけて来た時は良かったの。でもね、みんなで飼いだしてしばらくしてから小屋に繋がれたトラを見て思ったの。トラは本来ここにいるべきじゃないんだって。確かに餌はあるわ。野良犬になって必死になって餌を探したり、どこかの犬に襲われる危険もないもの。でもね、トラがどういう理由で野良犬になったかは分らないけど、トラ自身がそれを選んだのなら、また元に戻すべきだって思ったの。実際、トラはあの小屋の中でとても悲しそうだった。私が最初花壇で見つけてきたよりもね」
僕は何も言わなかった。
彼女は、その後、多分実家であろう所から電話が入り帰っていった。僕はマスターにビールをおごり、もう一度、ケニーランキンの『ザ・ケニーランキン・アルバム』をリクエストした。店を出ると二月にしてはやけに生暖かい不気味な風が吹き荒れていた。
* * * * * *
その後、一ヶ月程、篠原からの連絡はなかった。そして僕も連絡はしなかった。
その間僕は、篠原の言葉の一つ一つを思い出していた。そうしている内に、それまで小さかった僕の中の嵐は次第に力を増し、そして僕を強烈な渦の中心に引き込んでいった。中学三年生の時、多分、あれは広河さんと別れた後に生れた僕の中の微かな篠原に対する好意が一体何であったのかを、その正体に今やっと気付いたのだった。あの時、篠原は僕を求めていた。そうだ、トラを逃がしたのは、本当は僕と広河さんの仲に対する嫉妬だったのかもしれない。同時に僕も、広河さんではなく篠原を求めていたのだ。そして、篠原は今も僕を求めている。彼女は深く暗い闇の底から叫んでいるのである。今の彼女がどういう問題を抱えているのか分らない。少なからず、彼女は今この瞬間も僕を求めている。そして僕も。
十五年前に空中を彷徨い出したひ弱なたんぽぽの綿毛は長い間あてもなく漂い、そして今、あの町の強烈な吸引力によってしっかりと大地に着地するのだ。
* * * * * *
「ねえ、花田君はこの町好き?」
その日、僕らはいつもの様に土曜日の夜に「古き良きアメリカ」のバーにいた。
「ああ、好きだよ」
「今住んでいる所とどっちが好き?」
「この町だと思う」
「どうして?」
「僕の全てがここにあるからだよ」
「ここに?」彼女は少し驚いて言った。
「そう。今の町は、寝る場所のある町でしかない。でもここは違う。ここで生れ、ここで人生初めての友達を作って、勉強して、遊んで、駆けずり回って・・・そして、ここで初めて恋をして、そして人間として成長する為の一番大事な基本的な部分をこの町の全てから学んだんだ」
彼女は頬杖をしながらしっかりと僕を瞳を捉えていた。僕は続けて言った。
「僕の根本的な何かがこの町のあちらこちらに染み込んでいる。だから、僕はこの町に来ると凄く落ち着くんだ。僕らしくなれる。とても自然な自分に。・・ふるさとだよ」
彼女は清々しい日曜の朝の様な笑顔を見せて言った。
「ふるさと?」
「うん。僕は実家ごと引越してしまってるからね。でも、例えそんなに遠くなくても同じ東京でも、故郷だよ。ここは」
「ねえ、私はずーっとここに住んでいるからよく分らないけど、もし私が遠くへ行ったら花田君みたいに思うのかな?」
「うん。きっとね」
「でも、遠くへ行かなくても、今、故郷って思わない?ここが」僕は訊いた。
「そうねえ。でもね、故郷たらしめるものって、思い出とかだけじゃなくてなんか別な所にある様な気がする。」彼女は言った。
「例えば?」僕は静かに訊いた。彼女は一瞬躊躇って、そしてゆっくり息を吐いて言った。
「今、この瞬間とか・・・・」
店内にはシャイ・ライツの「オー・ガール」が流れていた。彼女はコロナの二本目を注文した。
「『アメリカンモーニング』が聴きたいわ」彼女はレモンを絞りながら言った。僕はジントニックのおかわりと一緒にそれをマスターに伝えた。
「花田君。変な事訊いていい?・・・この前言ってた、朝に突然居なくなってた別れた彼女の事だけど、今はどう思ってるの?」
「もうそれは終ったんだ。そりゃ、少し寂しい気持ちはあるけど・・・・」
「まだ、好きなの?」
「分らない。でも、彼女は本来戻るべき所に、いや、本来行くべき所へ行っただけだと思う。トラみたいにね」
彼女は言葉を捜していた。
「花田君、トラはあれで幸せかだったのかなあ?」
「うん。きっとそうだよ」
「もう、帰らなくちゃ」
曲が終ると僕らは店を出た。店の前で僕らは黙ってしばらく春を予感させる夜風にあたっていた。通りには家路を急ぐサラリーマンが列をなしていた。中学生位の若いカップルがガードレールに座って笑いながら何かを喋っていた。通りの向うには僕が小さい頃によく買いに行ったお菓子屋が店じまいを始めていた。ここの町の風の匂いも、車の騒音も、人々の足音も、変わらずに生き続けていた。
彼女は突然、僕の胸に顔を押し当て、そして小さく泣いた。次第に体は大きく震え、声を押し殺す様にして僕の背中を強く抱きしめた。そして僕も彼女肩にそっと手を添えた。彼女の髪は弱々しくなびき、細い首筋の根本には春先に少しだけ地中から芽を出した植物の様に、彼女のピンク色のシャツの襟が慎ましく顔をのぞかせていた。
「ごめんなさい。」
彼女の瞳は涙で濡れ、唇を噛んでいた。その瞳の奥はどこまでも暗く、深く、そして透明だった。その時、僕は感じた。二人の間には見えない薄い布の様なものがあるのを。それは月明かりの様にどこまでも弱く、どこまでもおぼろげだった。彼女の口元が大きく緩み、僕の瞳の奥底に何かを語りかけていた。それは卒業アルバムの時の彼女の瞳と同じだった。
「またね。今日はありがとう」
「うん。」
「ねえ。訊いていい?」
「うん。何?」
「花田君、あのね、私の星の光は、今・・・・ここに・・・・しっかりと・・・・見える?」
僕は一瞬空を見上げ、そして彼女を見た。彼女の鼻は涙のせいでピンク色に染まっていた。
「うん。ちゃんと見えるよ。」
「ホント?」車のヘッドライトが彼女の姿全体を明るく捉えていた。
「ホントさ」
「嬉しいわ。・・・ありがとう」
「どういたしまして」
「また電話するね。・・・・・じゃね」
自然と彼女はゆっくりと家の方向へ歩き出した。そして、僕はその場で彼女の後姿を追っていた。彼女は一度立ち止り振り返ると、僕に両手上げて手を振った。そしてそのまま人波の中に消えていった。
* * * * * * *
「一緒に帰ろうぜ」
ある日、会社で最後の仕事を片付けていると同期のデザイナーの児玉が言った。
彼は僕と同じ歳だった。もう六年の付き合いになる。僕は仕事に対してはかなりステレオタイプな人間だが、僕がとって来た仕事に対して彼は、予想もしないラディカルなやり方でデザインを形にする人間だった。ごくたまにクライアントから「これは・・ちょっと」という風に言われるが、概ね「こんな仕上がりは予想もしなかったんですが、凄くいいですよ」という感じで好評だった。
クライアントの注文の範囲内でギリギリに「遊び」をやる。僕と彼は結構いいコンビで、特に僕の仕事に関してはパーフェクト、もしくはそれ以上に熱意を持ってとり組んでいたくれた。それはというのは、数年前に僕の紹介した大学時代の友達の女の子と付き合い、数ヶ月後に結婚を控えていたからだ。彼とその彼女の間に何かしらのトラブルが生じると、何度か僕はその間に入って問題の解決に努めた事もあった。彼はデザイナーでありながら、本質としてはモニターの中の二元的な世界には全く興味のない人間だった。彼は朝早く起きて5KM程ランニングをし、週に数回ジムに通う。彼女とのデート以外の休みの日は毎回釣りに行っていたし、家で釣りのしかけを作っている時が一番落ち着くのだという。彼の口癖は「コンピューターは人間を駄目にする」である。肉体改造をした三島由紀夫やテニスやランニングに興じる村上龍・春樹を「分る気がする」と言っていた。「といっても俺は本なんかあんまり読まないけど」と付け足して言った。彼に最近買った本は何かと訊ねると決まって「DANCYU」と冗談まじりに答えた。彼は実際的な人間だったし、少なからずその点では僕と気が合った。月に数回は二人で飲み、年に数回は彼の彼女と三人で釣りにも行った。僕の紹介した彼の彼女はよく言った。
「あなたたちは根本的に一緒なのよ」
「飲みにでも行くか?」僕がそう訊ねた。彼は一瞬迷って言った。「金がないんだ。結婚式で色々大変でさあ」そして僕らは会社から少し離れた公園で、コンビニで買った缶ビールを飲む事にした。太陽はたった今沈んだばかりという感じで、昼間のその匂いがまだ木製のベンチに染み込んでいた。会社へ戻る人間、帰宅する人間、近道で公園を通り抜けるサラリーマン達が奇妙な顔をして、僕らの前を足早に通り過ぎて行った。
「なあ、花田。もうすぐ俺達三十歳だな。」
缶ビールを開けながら彼は言った。僕は、ヘリコプターの点滅したライトが薄ぼけた空にゆっくりと移動していくのを眺めていた。
「花田はこの仕事を続けるのか?」
煙草の灰をベンチに備え付けの灰皿にゆっくりと落として僕は言った。
「ああ、もうこの歳で新しい何かをすると言ってもなあ。まあ、あまり嫌いな仕事じゃないし、当分は続けるだろう。児玉は?」
小さな沈黙の後、彼は言った。
「そうだな。俺も結婚するしな。ヘタな事は出来ないな。このまま俺もあの会社でモニターに向かってチャカチャカやるんだろうな。」
塾帰りなのだろう。数人の子供達が騒ぎながら公園の向うの芝生で走り回っていた。
「花田。俺最近考えるんだよ。歳をとる事の怖さは自分が死に近づく事だとよく言うよな。でもな、俺は少し違うと思うんだ」彼は急にそう言い出した。
「どうしたんだ?いきなり」
僕はビールを二口程飲んだ後、反射的に彼の顔を見て言った。彼は小さく溜息をつくと、続きを話し始めた。
「歳をとるって事はさあ、それだけ身近な人間の死に接する機会が増える事の怖さだと思うんだよな」
僕は頷いた。
「親も兄もダチも歳を取る訳で確実に死に近づく。そして、商店街のくじ引きのガラガラポンみたいに、確実に少しづつ周りの誰かが死んでいくんだ。その死に隣接した時の怖さ。その時に人間って何かを決定的に失っていくんだよ。」
「何かあったのか?こんなシリアスな話して」僕は驚いて言った。
彼は「まあな」と言った後、缶ビールの缶を両手で大事に抱える様にして、遠くの子供達の姿に目を凝らしていた。
「この前、高校のクラスメイトの女の子の葬式に行ったんだ。その子とは殆ど話したこともなくて、ダチから電話あった時も名前を思い出すのにしばらく時間がかかった位だからな。なんか数年前から脳腫瘍で入院していたらしいんだ。まだ二十代だぜ。かわいそうに。でもその葬式でその子の写真見ても実感がないんだよ。その写真でさえ高校の時のじゃなくて社会人になった頃のものみたいで、全然変わってたからな。」
「脳腫瘍?」僕は言った。
「ああ。二十代の若い人間がそんな風にこの世から消えてしまうんだよ。彼女とは全然仲良くなかったけどな。でも・・・残酷だよ」
ヘリコプターは姿を消し、その代わりに真白い月が空に現れていた。
「でもな、俺がその葬式で衝撃だったのがさあ・・・・」
彼はしばらく何かをしきりに考えた後、覚悟を決めた様な口調で話し始めた。
「俺が高校三年の時にずーっと好きだったある子が来てたんだよな。十年ぶりだったよ。会ったのはさあ。その子を数十メートル先だ見かけた時のあの気持ちだけは今でもよく分らないんだ。その彼女、車椅子なんだよ。車椅子。多分旦那さんだと思うな。付き添いで来てたのはさあ」
「車椅子?」僕は持っていた缶を潰して言った。
「ああ、俺聞いたんだよ。一緒にいたダチに彼女の事。そしたら結婚してすぐに交通事故で下半身付随になったらしいんだよな。俺ってさ、自分のあらゆる感情を自分の中で言葉に出来る位、自分を客観視出来る人間でさあ、失恋しても、誰かが死んでも、どんな辛い事も悲しい事もその感情をもう一人の自分が冷静に認識にして、それに対する対処法なり処方箋を提示して、気持ちを静めてくれるんだよな。」
「そうだな。児玉、オマエはそういうタイプだよな」
彼は少し笑って頷きながら言った。
「そう。だから俺は昔から「前向き」とか「ポジティブ」とか言う言葉でよく羨ましがられた。違うんだよ。単に冷酷なだけさ。ポジティブと冷酷は表裏一体、いや、どちらもがどちらもを内包しているもんなんだよ。特に俺の場合はね」
「そうかな?」
彼は新しい缶ビールを開けようとしたが、その手を止めて言った。
「でも、その彼女を見た時、車椅子の理由を訊いた時のあの時の気持ちだけはな、本当に分らないんだ。体中の内臓や血管、肉と皮膚の隙間、そんなあらゆる所全部に黒い綿菓子みたいなものがびっしり詰まっているというか、占拠してまっている感じなんだよ。ふわふわしているけど空気なのか硬い物体なのか分らない、得体の知れないどす黒い奇妙なものがさ、体中に入り込んでいる感覚。分るか?」
「なんとなくな」僕は小さく頷いた。
「彼女とは付き合ったのか?」僕は続けて訊いた。
「いや。」彼はかぶりを振った。「彼女は高校三年の時に一度だけ同じクラスになって一目惚れしたんだ。あれは本当突然だったな。五月頃だったかな。確か。俺は新しいクラスの女の子をいちいちチェックなんかしてなかったけど、その子がある授業で先生に指されたんだよ。彼女立ち上がったんだけど答えられなくてさあ。「すみません。解りません」って申し訳なさそうに言って、後ろの席の友達の女の子に舌をペロっと出して座ったんだよ。俺はその彼女の机三つ分くらい斜め後ろで、その一部始終をなんとなく見てたんだよな。クラスにそんな子がいるとは知らなかった。でも、あの一瞬だった。「はい、たった今、あなたは恋に落ちました」って、もう一人の自分が淡々と言うんだよ。まさに邂逅ってやつだよ」
「邂逅・・・」彼がそんな難しい言葉を言って少しばかり驚いた。
「それからが大変だった。ほんとあれには参ったな。彼女と同じ教室にいるだけで僕の彼女に対する意識以外の余計なものがどんどん吹き飛ばされていくんだ。授業も休み時間のダチとの馬鹿話もさ、全くそこに自分がいない様な感覚さ。彼女はテニス部で、時々俺は放課後にいつもぼんやり教室からテニスコートを眺めていたよ。すらっとした細くて長い足がコートを駆け巡って、時折、額の汗を拭いながらラケットでボールを必死に追いかけてね。その時はこの世で最も美しいテニスプレイヤーだと思った程さ」
彼はいくらか恥ずかしそうに続きを話した。
「彼女とは殆ど会話はしなかった。というか出来なかったんだ。分るだろう?もし俺が彼女の目を見て、そして何か話したとしたら、俺の想いが無防備に彼女に筒抜けてしまうと感じるからだよ。恥ずかしかったんだ」
「児玉らしくないな」僕は笑いながら煙草に火を付けた。
「結局、俺は三学期の終業式、つまり残すところ卒業式だけとなったその日の帰りに彼女を呼んで手紙を渡したんだ」
「へえ。手紙か・・・何て書いたんだ?」
彼は笑いながら言った。「まあ、よくあるラブレターってやつだよ」
「で、どうなったなんだ?」
彼は新しい缶ビールを空けると、一気に半分位飲み干し、砂埃に目を擦りながら言った。「卒業式が終った廊下の片隅で彼女は言ったよ。「ごめんなさい。私は児玉君と付き合えません。」ってね。ショックだったけど、つまり、それは今思えばごく自然な事象的帰結だった気がする。そりゃそうだよな。一年間全く会話すら無かったんだからな。彼女は美人というよりは可愛いって感じでさ。世の中の美しい部分とか、幸せとかを無自覚に自分で取り込んでいける様な子だった。よくあるだろ、動く歩道って。俺は必死に真ん中の道を自分の足でひたすら歩いていく。その両側にはその動く歩道があって、彼女はそこをすいすいと速いスピードで歩いていく感じだよ。だから、俺には不釣合いだし、五月に彼女に恋した時点で既に居る場所みたいのが僕と彼女では全然違ってたんだな。でさ、クラスメイトの子のその葬式の時に車椅子の彼女を見てさ、なんていうかな、悲しいとか哀れとかじゃなくて、怒りとか悔しさとか、多分そういうものだよ」
春を迎えるにしては寒すぎる位の夕方だった。公園の外灯が自然に点灯するのが目に入った。
「葬式の時の彼女は高校の時と全然変わってなかった。でも感じたんだ。テニスコートでその長い足で走り回っていたあの時のその姿が、彼女の中で二度と再現される可能性がなくなってしまっているという事実への悔しさだよ。誰に対する悔しさか分らない。でも、これだけははっきり言えるよ。それは、時の流れというものに対する失望なんだよ。」
僕は黙って続きを待った。
「俺と居場所が違い、動く歩道をすいすいと俺の遥か先を行っていた彼女を、今度は数十メートル先から見下ろしているんだ。耐えられなかったな」
「声をかけなかったのか?」僕は訊いた。
「いや。結局俺は焼香をあげてすぐにその場を離れた。彼女も気付かなかった思うよ。もし仮に彼女と目が合ったり、話す機会に陥ったら何て言うんだい?どんな振る舞いをすればいい?」
彼は少しばかり興奮しながら、僕の顔を見て言った。
「やあ、久しぶりだね、と言って車椅子に関する話題を避けながら世間話でもするのかい?それとも、どうしたの?って理由を訊いた後で一体どんな慰めの言葉をかければいい?まして、大人が子供と話すみたいに、彼女と同じ目線になる様に俺がしゃがんで何か話すのかい?そん事は全くもって出来る自身なんて俺にはないよ」
「そうだな。確かに」僕は彼をなだめる様に頷いた。
しばらくして彼は落ち着いた表情を取り戻して言った。
「でもな、その後家に帰っていつもと変わりなくテレビ見て笑って、ビール飲んで、夢さえも見ない程熟睡してさあ。それでさあ、朝起きたら前の日の出来事が一瞬にして頭の中で再現されたんだ。そしたらどうしたと思う?」
「いや」僕はかぶりを振った。
「布団の上に立ったまま泣いたんだよ。おかしいだろ?一人で泣いたのなんかホント久しぶりだった。物心ついてからは一度もなかったな。その彼女にフラれた卒業式の日も、大学時代にダチがバイクで事故って死んだ時も、決して泣かなかった。でも、その時はとにかく泣いたんだよ。何分間も立ったままずーっと泣いてたんだよ。」
彼は飲んでいた缶を潰して、煙草に火をつけ、灰をその中に落とした。僕らは数分間の間、夕刻の町の喧騒が渦巻く中、ただただ無言でベンチに深くこしかけ、暗みを増した公園の風景にすっぽりと収まっていった。それは世界中のあらゆる公園のベンチにおける最も忠実な姿だった。
「で、その後にさあ」
彼はそう言って沈黙をかき消した。
「俺は祈ったんだよ。・・・この俺が祈ったんだぜ。生れて初めてかもしれないな。俺は宗教とか、そういうの女々しいって思ってたからな」
「祈り?」
「ああ、祈りだよ。でもあれが本当に祈りというものだったかどうかは疑問だよ。でも・・そう祈りみたいなものさ。誰に対してか分らない。多分、神でも仏でもない。手も合わせなかったし、組みもしなかった」
彼は持っていた煙草を空いた缶で消すと言った。
「ただ、こう祈ったんだ。・・・彼女は・あんな姿で・あるべきじゃないんだ・・・って何度もね。分るか?」
「ああ、凄く分るよ」
* * * * * * *
次第に街路樹は緑の色彩を増し、その間をすり抜けて穏やかで優しい音色が季節の変化を無機質に知らせていた。篠原由紀子と最後に会って既に三ヶ月がたっていた。その間に会社近くのあの喫茶店は閉店して、跡形もなくなっていた。繁華街のオーロラビジョンではスキー場のシーズンの終了を伝え、連休の行楽地の来客数を予想した数字が映っていた。
児玉は三十歳の誕生日に結婚した。「DANCYU」を読む必要がなくなったし、走る事もジムにも行かなくなった。相変わらず釣りだけは続けていた。それでも僕らは時折二人で飲みに行った。彼は笑いながら新婚生活の功罪と釣りについて話していた。
「結婚して変わったのは、釣りなんだ」彼は言った。
「釣り?」
「ああ、そう釣り。俺は学生の頃から海釣りが好きで今も続けてるけど、結婚する前は釣ったものを料理して食べる事が好きだったんだ。雑魚よりも鯛や平目をいつも狙っていた。でも、結婚してから釣りに行ってもそんな事には全く興味がなくなったんだ。釣ってもすぐにリリースしていしまうんだ。」
「それは結婚したという事に何か関係があるのか?」僕は訊いた。
「どうなんだろうな。単純に興味がなくなっただけさ」
* * * * * *
季節も既に春も終わり、あっという間に梅雨を迎えたやけに蒸し暑い日だった。前日まで数日間降り続いた雨はやんだものの、雨の残した不親切な湿気に僕はしばらく苛立っていた。なかなか眠りに着けなかったので諦めて、僕は冷蔵庫から缶ビールを出して飲みながら、テレビの深夜番組を見ていた。時計は十二時を過ぎていた。
その時、突然携帯が鳴った。知らない番号だった。その声は年老いた女性の声で、細く、擦れ、そして震えていた。僕は次の瞬間、携帯を持つその手が闇夜に溶けて無くなってしまうのではないかと感じた。ブラウン管に映るテレビ番組は自分とは全く無縁な世界で繰り広げられていた。名前すらない宇宙の果ての遠い星の表面で、浮遊する星屑を観客相手に芝居をしている演劇の様だった。
「篠原由紀子の母です・・・・」
電話の向うの女性はゆっくりとそう言った。
* * * * * *
二日後の夜遅く、僕は一人「古き良きアメリカ」のバーの端の席でコロナを飲んでいた。マスターは相変わらずレモンのカルチェを切っていた。店にはボズ・スキャッグスのアルバム『シルク・ディグリーズ』が流れていた。平日の夜に店の中には僕と中年のカップルしかいなかった。男はくたびれた紺のスーツを、女は十年前買ったブランド品の服を一時間前にクローゼットから引っ張り出してきて着込んだ様な格好をしていた。そのカップルは何かクスクス笑いながら、時にはふざけ、時には真面目に何かを話していた。男が「それでさあ・・・・」と言い、女が「ホント?」と訊ねた。男が「でもね・・・」と言い、女が「それは・・・」とかぶりを振った。二人の声は次第に大きくなり、最後に男の方が大きく溜息をつくと、彼らは急に黙り込み、帰るまで一言もじゃべらなかった。
「今日は結婚式か何かだったんですか?」マスターは僕の服装を見ながら話し掛けてきた。
「いや・・・ええ、まあ」僕は言葉を濁しながら、視線の先にある壁に掛かったマービン・ゲイのレコードジャケットをぼんやり見ていた。
「今日は御一人なんですね」彼は、僕の二杯目のコロナを冷蔵庫から出して言った。
僕は頷いた。
「ねえ、マスターはこの町の人?」
「いや、兵庫ですよ。」彼はエプロンからメンソールの煙草を取り出して火をつけながら言った。
「良いところだね」
「ありがとう」
「たまに帰るの?」
彼は自分の煙草の煙にむせながら、店の奥の壁に何かを探し出す様に見ながらしばらく考えていた。
「いや。今もうあそこには何もないんです。地震で全てが壊れて何もかもなくなってしまったんです」
彼は半分位残ったメンソールの煙草を流しの水で消して、そしてゴミ箱に投げ捨てた。
「お客さんは?」
「僕は兵庫じゃないけど・・・・でも、あなたと似た様なものだよ。」
「悲しいですね」彼は言った。
「うん。悲しいよ。とても」
曲は『シルク・ディグリーズ』のラストの『ウィ・アー・オール・アローン』だった。
「この曲大好きだよ」僕は言った。
彼は拳を縦に握り親指を立てて、笑って言った。
「僕も大好です。良い曲ですね。ホント」
僕はマスターに礼を言い、店を出た。
そしてそこは薄暗い林の中だった。僕は波一つ立ってない静かな池の前に立っていた。間違いなく父の実家の近くにある、あの池だった。鳥は姿を消し、風はやみ、木の実の匂いも一切無かった。池のほとりには薄らと雪が積もっていた。その雪は何千年も前からそこにある様な佇まいを見せていた。そして、僕の前には篠原由紀子が立っていった。僕と彼女以外は誰もいなかった。彼女はゆっくりと池に近づいていった。何の音立てず、僕の存在に気付かないのか一切振り返えようともせず、その足元は次第に池の中へ沈んでいった。僕は動く事も声を発する事も出来なかった。彼女は池の中心に向かって歩いていた。既にその足は膝までが池の中に埋まっていた。僕は黙って彼女の後ろ姿を見ていた。太陽が山の西の斜面に消えていく様にゆっくりと確実に彼女の姿は池の中に沈んでいった。そしてそれが腰までになり、次第に肩までも飲み込んでいった。それでも彼女はそのまま進み続けた。そしてそれは頭だけになり、彼女の薄茶色い髪が水草の様に水面に揺らいでいた。僕はひっそりと息を呑み、それを目で追っていた。段々と彼女の頭は池の中に吸い込まれ、池の中央までいった所で彼女の姿は最後にはただの一つの黒い点となり、次の瞬間に彼女は池の中へ消えていった。
辺りを再び深い静寂と凍りつく様な暗闇が池を覆っていた。水面には波一つ立っていなかった。その時、僕は不意に絶望にも似た深い喪失感に襲われた。それはこの町と私を繋ぎとめている人間そのものの喪失と同時に、それによって脈打っていたこの町の死に等しかった。
父と同様、僕は決定的に便宜的な故郷を喪失した。
林も池もその姿を消すと、いつもの土曜日の夜の町の風景がそこにあった。駅から流れた人の群れを故郷の町は今日もいつもと同じ様に飲み込んでいった。人々の足音と、車の騒音と若いカップルの笑い声は、遠い過去から現在へ、そして未来へと永遠に変わる事なく続いていくだろう。そして故郷、すなわちこの町は、この町として存在し続けるのである。
気付いた時に僕は、駅へ向かう道のど真ん中で立ち尽くしていた。生暖かい初夏の香りは僕の体を通り抜け、遥か遠くの見知らぬ大地までゆっくりと流れていった。その香りに乗って無数の星が色鮮やかに輝いているのを、僕はいつまでも見上げていた。(了)
『あの子に夢中』
突然の雨が一瞬にしてやんでしまった後の様な静かな夜の部屋で男と僕はコーヒーを飲んでいる。男はブラックで、僕は人肌に暖めたクリームをたっぷり入れたモカを飲む。
男は上品そうにコーヒーをすすり、部屋を見渡して言う。
「何か音楽はないのかい?」
無意識に僕は立ち上がってプレイヤーにスティーリー・ダンの『Aja』のレコードを乗せる。ソリッドなベースのリフに乾いたスネアの音が交じり合う。
男は少しだけ体を揺らす。「いいね、最高だ」
僕は黙って肯く。
「で、君はその子に夢中なのかい?」と男は想い出したかの様に突然訊く。
僕はもう一度黙ってゆっくりと肯く。
「どんな子なんだい?」と男は興味深そうに僕の顔を見て訊く。
「素敵な子さ」
男がほんの少しだけ笑う。「どんな風に素敵なんだい?」
「とにかく素敵なんだ。僕らが無条件で『Aja』が好きな様に、僕はあの子が好きなんだ。夢中なんだ」
男は激しく頭を振って、カップをカチャリとソーサーに置く。「じゃあ、こういう質問はどうだい? その子のどういうところに惹かれたんだい?」
僕はじっくり考えてみる。男は息を殺してじっと待つ。バーナード・パーディの警戒なドラムソロが僕らを叩く。
「髪が長くて綺麗で素敵だ」
「他には?」
「笑った時に見える八重歯が素敵だ」
「他には?」
「指先が素敵だ」
男はため息をついてから幾分納得いかない表情を浮かべて更に訊く。「幾つなんだい?」
「このアルバムが出た年さ・・・一九七七年生まれ・・・・・・」
男はマルボーロに火をつける。「一九七七年、いい年だ・・・・・・二九歳」
僕もマルボーロに火をつけ、静かに肯く。
「最高だ」男が口元を緩めて言う。
「ああ、最高さ」と僕も微笑む。
今度は僕が男に訊く。「あの子は『Aja』が気に入ると思うかい?」
男は酷くびっくりして僕を凝視している。「どうしてだい?」
一週間前に北青山のカフェで彼女と会っ時、彼女は買い物帰りでCDショップの袋に『Aja』が入っていたのが見えたんだ、と僕は説明した。
男は当然の様に答える。「当たり前じゃないか」
「なぜ分かる?」
「なんとなくさ」と男は煙草をもみ消しながら言う。「『Aja』を好きな女の子に悪い子はいない」
少し間を置いて男は訂正する。「『Aja』を好きになる子はみんな素敵さ」
四曲目の「Peg」のコミカルなサクスフォンが僕らを何故かとても優しい気持ちにさせる。
僕は想像してみる。こんな静かな部屋で一人白く細い指でリズムをとり、ぷっくりした可愛らしい耳たぶにその素敵な髪をかきあげながらじっと耳を澄ますあの子の姿を。
男はコーヒーを飲み干して言う。「僕にできることはないかい?」
「たぶん、ないよ」
「とにかく何か協力できることがあったら言ってくれ」
「ありがとう」
僕がそう言うと、男は片目をつむってニッコリと笑った。
そして男が突然姿を消す。気づくとレコードは止まってしまっている。針がバチバチとレコード盤の端で微かに振動している。窓の外には何もない。風もない。音もない。灯りもない。あの子もいない。
それから僕はゆっくり立ち上がり、レコードを裏返して、三杯目のコーヒーを飲んだ。(了)
静かな雨が降ろうとしている
静かな雨が降ろうとしている。
いつからだろう、僕はそんな予感の様なものを感じる様になった。
それはたいした雨ではない。時には傘だって必要ないかもしれない。雨粒は空中で更に分解され、砂粒の様になってしまう。または目を凝らさないと見えない雨。しばらくじっと顔を空に向けていなくては分からない程の雨。
「昨日、雨が降ったんだよ」と次の日に誰かに言っても、その誰かは決まって首を傾げるだろう。 「そうだったけ?」
税金の徴収書や新聞の勧誘やら、ローリングストーンズの新譜の様に、そんな静かな雨は決まって訪れるのだ。
その日の朝も僕はそんな予感を感じた。
「雨が降るなんて天気予報では言ってなかったわよ」とその子はベッドの中でアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』を読みながら言った。
「いや、きっと降るよ。必ずね」
「ふうん・・・・・・ねえ、このお話に出てくる熊って人間なの? それとも『熊』というメタファー? それとも・・・・・・」
「最後まで読めば分かるよ」と僕は彼女の言葉を遮って答え、イルカがプリントされたカーテンを閉めた。秋の朝の陽光が眩し過ぎるのだ。空は雲ひとつなく、雀達が何匹も窓を外を浮遊していた。
僕は『ホテル・ニューハンプシャー』を取り上げ、枕元にパタンと閉じて置いた。それから薄暗い日曜の朝の部屋で彼女を抱いた。
昼過ぎにテーブルで僕と彼女はコーヒーを飲み、昨日買っておいたレタスと卵の入ったサンドウィッチを食べた。彼女は会社の役員達の悪口を言い、雑誌の売り上げが落ちたのは最近就任した編集長の責任だとため息をついた。彼女は洋楽音楽雑誌の編集者をしているのだ。
「あの男は無能よ。それと役員連中は音楽を所詮文化的スラムとしか思ってないもの」
「へえ」と僕はスポーツ新聞を読みながら言った。
「聞いている? 編集長なんかこのご時世にフレオ・イグレシアスなんか聞いてるのよ」
僕は笑った。フレオ・イグレシアス・・・・・・確かに無能な歌手だ。
「文化的スラム、ってなんだ?」と僕は気になって訊いてみた。
「役員の一人がいつかそう言ったのよ。うちの会社は昔は不動産やら金融やってて、数年前にいきなり出版部門なんか立ち上げて・・・・・・」
僕は彼女に聞こえない様に小さなため息をついた。その話はもう十三回聞いていたのだ。お堅い商社が税金対策で始めた出版部門。会社も酷いが雑誌も酷かった。ページの半分は広告で埋め尽くされ、大して音楽なんか知らないろくでもない評論家のCDレビューと、化石と化したハードロックの爺さん達のインタビューを金を積んで2頁設けるのが精一杯の雑誌。そもそも君が毎晩徹夜して作っている雑誌だって文化的スラムじゃないか、と思った。それに君は結構楽しんでいる様に見えるぜ。
「そろそろ会社に行くわ。校了だから」と彼女は立ち上がって淡々と言い、着替え、化粧をし、髪をとかした。
僕はその間、窓の外をじっと眺めていた。雲は相変わらず一つもなかった。一つも。
「じゃあね、次は来週以降になりそうね。ここに来るの」と玄関で彼女は曖昧に言った。
「分かったよ」
「ねえ、どうしたの?」
「雨が降るよ」
彼女はしばらく窓の外を目を凝らして眺めていた。「いいお天気じゃない」
「とにかく傘は持って行った方がいい。」と僕は傘を差し出して微笑んだ。
「これ・・・・・・私の傘、この前忘れていったやつね」
「うん」
「っていうか置き傘のしたつもりなの」
「じゃあ、丁度いいじゃないか、雨が降る」
「雨・・・・・・雨ねえ」
首を傾げて彼女は傘と一緒に出て行った。
それから僕はコーヒーにたっぷりブランデーを入れて飲み、『ホテル・ニューハンプシャー』を一時間ばかり読んだ。もう三回目になるだろう。悪くない小説だ。決して文化的スラムではない。決して。
気づくと窓の外では雨が降り始めていた。霧の様な静かな雨だ。アスファルトはほんのりと黒く染まり、耳を澄ませば微かにパタパタと音が聞こえてきそうだ。雲がどんよりと空を覆い、ひんやりした秋の風が窓の外で音を立てずに舞い踊っていた。
そんな中で僕は目を閉じ、静かな雨について考え、彼女に二度と続きが読まれることのなかった小説の風景を想像し、彼女が気になっていた『熊』を連想し、そして今日の朝、最後となった彼女の白い肌のぬくもりを想い出していた。(了)
『返却は、あした、になっております。』

時折僕はこんな風に考えている。
僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。
就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。
それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。
そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。
その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。
「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。
「はい」
「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」
思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。
「すみません。分かりました」
僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。
しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。
桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。
この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。
一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。
僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。
「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。
「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。
二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。
しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフとスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。
僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。
スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。
僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。
「ないんですか?」と彼女は訊いた。
「ええ、ついさっきまであったんですが」
彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」
「分かりました」と僕は力なく答えた。
背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。
その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。
「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。
「ああ、ありがとう」と僕は言った。
「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。
僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。
「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」
彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」
彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。
「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。
「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」
「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。
「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。
「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。
彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」
「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』
「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。
* * * * * *
『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。
東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。
桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。
「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。
「すみません」
「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」
僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。
「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。
僕は再び謝った。「気をつけます」
夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」
「休憩?」
彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」
Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。
「煙草吸うのね」
「うん」
「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」
「よく辞めれたね」
「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」
「邪魔かな?」
彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。
「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。
「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。
「確かに」と僕も微笑んで言った。
* * * * * *
それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。
喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキーとトルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。
僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。
特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。
僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。
* * * * * *
八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は借りていた本を返しに桜丘図書館に出かけた。
「久しぶり」と彼女は僕が返却を遅れた事なんかどうでもいいみたいに言った。
「ちょっと体調が悪くてね」
「あらそう」とリファレンスカウンターでパソコンを睨みながら言った。「ねえ、も少しで休憩だから地下の食堂で何か飲まない? 喫煙所は暑くてクーラーきいてないでしょう? 食堂は煙草吸えないけど、いい?」
地下の食堂は昔教科書で見た旧ソ連のどこかの施設みたいだった。のっぺりっとした灰色の壁が無機質に広がり、異様に天井が高かった。テーブルには六つの椅子が並べられ、食堂内に不気味なほどに整然と置かれていた。メニューはカレーや、ラーメンや、ナポリタンなどがあり、きっとスキー場や海の家のそれと大して変わらないんだろうな、と思った。客は誰もいなく(当たり前だ)、長い間油が染み込んだ様な黄ばんだコックコートを着た太った男性の調理人と配膳係であろう中年の女性が奥のほうで昨日観たドラマについてあれこれ話しているのが耳に入った。
白河さんは僕にコーラをおごってくれた。
「最近肩こりが酷いのよ」と自分で片方の肩を揉みながら疲れた様な声で言った。「村岡さんはそういえば幾つなの?」
「二十四歳」
「そうなんだあ」と彼女はゆっくりコーヒをかき回しながら言った。「私は二十六歳」
「この仕事どれ位になるの?」
「三年かな」
「面白い?」
「そうねえ」と今度はもう片方の肩を揉みながら言った。「肩は凝るね。確かに」
僕は少しだけ笑った。
「楽しいよ。昔から本が好きだったし、本に囲まれて仕事をしたいと思ったの。小さい頃から図書館っていう場所が好きでね。そうねえ、私は学生時代にウェイトレスとかのアルバイトやったり、普通の企業の就職も考えて就職活動もしたけど、本は何も要求しないんだよね」
「要求?」と僕は尋ねた。
「うまく説明出来ないけど、ここでは全てが本を中心に回っているの」とあらたまった口調で言った。「普通の仕事では、お客さんとか、会社だったら会社そのものだったり、取引先だったり、色んな事を要求してくるでしょう? サービス、成果、実績なんかをね。でもここにやって来る人達は私達職員に直接は何も要求しない。要求というより求めているのはあくまで本の中にあるの」
「分かる気がするな」とコーラをすすりながら僕は言った。
「その人達が、読んだ本が面白くなかったからどうしてくれるんだ! とは決して私達職員に苦情なんか言ったりしないでしょう? 利用者は本と本の中にある何かを求めて、ここ、もしくはお家で黙って本を読む。私達は彼らが求めているものに対して間接的に、それでいて迅速かつ親切にその環境みたいなものを作るお手伝いをしているの」
彼女は俯いてほっそりとした指先を一本一本触りながら続けた。「読書というものがある意味において現実逃避なら、ここは癒しの場所かもしれないね。そこに何かしら協力出来るのが嬉しいの。」
「具体的にどんな仕事をしているの? 大体は分かるけど」
彼女はそれからびっくりする位に楽しそうにしゃべり、自分の仕事を細かく説明した。朝は閉館中に返却ポストに返された本の返却処理からはじまり、本棚に戻し、棚の整理をして、本を見やすく探しやすくする。新聞の整理、地域の記事や図書、図書館に関する記事を新聞から朝・夕刊を毎日チェックしてスクラップにして保存する。また、選書会議に参加して話題の本や図書館に必要な本、利用者から寄せられたリクエストなどに応じて選書、発注をする。それとレファレンス業務や、痛んだ本の修理、催しものの企画などだ。そこには誇りがあり、課せられた職務を遂行する喜びみたいなものが満ちていた。
「結構大変なんだね」と僕は正直驚いて言った。「それにしてはサボっている事が多い様に思えるけど」
彼女はあっさりと言った。「要領よ、要領」
今度は彼女が僕の事を訊いた。東京に来てまだ二年目だという事、普通の会社で営業の仕事をしているという事。とりたてて山場のある話ではなかった。
彼女は首を傾げて訊いた。「趣味とかは?」
僕がしばらく考えていると、彼女は人差し指を立てて見透かした様に言った。「本を読むこと」
「うん、それもある。あとは……」
「あとは?」
「書くこと」
僕は答えて恥ずかしくなった。
「へえ」と彼女は僕の顔を覗き込んだ。「以外ね。どういうの書いているの?」
「普通の話だよ」
「いわゆる純文学?」
「まあね。みたいなものだよ」
「ねえ」と彼女は突然クスクスと笑った。「二十四歳で休日を図書館で過ごして普段は趣味で小説書いている、なんてちょっと変わってるんじゃない?」
「そうかな」
「でも一度読んでみたいな、村岡さんの書く小説。今まで誰かに読んで貰ったことはあるの?」
僕は「ない」と答えた。「人に見せる様なものじゃないから」
「いいのよ、是非読ませて。今度絶対持ってきてよ」とピシャリと言った。「読者第一号になってあげるから」
* * * * * *
翌週末、図書館で僕は書き溜めていた物語をプリントアウトした原稿を黙って白河さんに渡した。どれも短い話で、どれも東北の故郷の村が舞台だった。木こりの父親が山で行方不明になって探しに行く息子の話。親友と半分凍った川で釣りをしながら会話をするだけの話。憧れだったの女の子が帰郷すると結婚していたというちょっとした失恋物語なんかだ。
彼女は「ありがとう」と言って受け取りにっこり笑った。「二時から二階カウンターだから読ませてもらうね」
僕はその間、何冊か雑誌を読み、新聞をとっていないのでその日の新聞を片っ端から読んで時間を潰した。でもそれは記号の羅列の様にしか思えなかった。カウンターの彼女は俯きながら原稿にじっと視線を落としていた。ごくたまに利用者に応対をし、パソコンのキーをカチャカチャと打つ音が微かに聞こえた。
しばらくして彼女が僕の隣に辺りを気にしながらゆっくりと腰を降ろした。
「うん、面白かった。情景が凄く浮かんでくるし。」と爪先をいじりながら言った。「あと、スラスラと読めたよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「でもね、思うんだけど」彼女はちらりと僕を見て続けた。「視覚的な描写はいいんだけど、心情描写が幾分多すぎて、言い方が分からないけど、あえて書かないで読者に察してもらう、みたいな部分があってもいいんじゃないかな」
僕は膝の新聞紙を折りたたみながら黙って聞いていた。
「ごめんなさいね。まあ、こういう仕事してて本が好きでこれまで結構読んだからね。気にしないで、私個人の意見だから。もしかしたら他の人は今言った事の逆を言うかもしれないし」
「気にしないよ」と僕は彼女を見て言った。その横顔から見えるすっと伸びた鼻がとても素敵だった。
僕はもう一度言った。「ありがとう」
「ねえ、今日は何を借りるの?」
僕は一冊の本を見せた。『戦後の日本文学と日本経済』
彼女は目を丸くした。「そんなのも読むの? あれ、それって新刊じゃない。ちゃんと返してよ」ときっぱりと言った。「そうそう、まだ書いている小説あるの?」
「あと幾つかあるよ。今度持ってきていい?」と訊いてみた。
「ええ」と彼女は複雑な笑みを浮かべた。「持ってきて。この本と一緒に返却日にね」と更にきっぱりと言った。
いつからだろう、僕は本を借りる為ではなく彼女に会う為に図書館に休日決まって足を運んでいる気がした。借りる本なんて何でもよかった。中には昔一度読んだ本さえあった。それ以外には太平洋戦争の特攻隊員の私記やら、イタリア料理のレシピ本、生態学の本なんてまであった。帰宅すると僕はいつもため息をついた。どれも一行たりとも読まなかった。でも何故かその頃から返却日をきちんと守った。むしろそれよりも前に行くことはなかった。きっかり貸し出し期間の二週間だ。それが僕らにとって、いや、少なくとも僕にとっての暗黙のルールだったのだ。きっかり二週間後の返却日に本と書いた小説を持って僕らは図書館で会う。
彼女はその度に的確な批評をしてくれた。いさかか深読みし過ぎる感は否めなかったが、その殆どに僕は心底納得した。女性はこういう時こんな事言わない、とか、ここは書かなくていいとか、ここはもっと掘り下げて書くべきよ、とか。次第に彼女は僕の小説を読むこと、いや、批評する事に楽しみを見出している様に思えた。同時にふと僕はいつか彼女について書きたいと思った。図書館で働く女性と若い小説家志望の男の仮想の話。背中を押してくれたのは彼女の方だった。
* * * * * *
「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。
九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。
ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。
「私が登場するお話を書いて欲しいの」
「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。
彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」
僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」
「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。
「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。
「シンデレラ願望みたいなもの?」
「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。
「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」
彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」
「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」
彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」
「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」
彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」
僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」
「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」
「そんなに? ムツゴロウみたいだな」
彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」
僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」
「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。
「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」
「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。
その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。
『時折僕はこんな風に考えている。』
* * * * * *
決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。
彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」
僕は黙っていた。
「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。
「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」
「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」
「まだ分からない。考えていない」
彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」
次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。
「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。
「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。
「まあね」と僕は肯いた。
彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」
「そう」
「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」
「僕が山形生まれだからね」
「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」
「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」
彼女は目を丸くして言った。「本当?」
「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」
「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」
「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」
「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。
「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」
彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」
彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」
「うん」
「大体考えてあるの?」
「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」
彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。
「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」
僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」
「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」
「でも、それ面白いかも」と僕は言った。
「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」
「オマージュみたいな?」
「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」
「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」
「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」
僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」
「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」
「ハナミズキ?」
「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」
「知らなかったし、どんな花か知らないな」
「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」
「じゃあ、水木って言う名前は?」
彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」
彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」
僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。
「白河さんにあげるよ」
彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。
仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。
「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、になっております。必ずご返却ください」
僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。
僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。
小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。
* * * * * *
あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷のあの退屈さと同じ様に、あの僕にとっての最後の小説もどこかに失くしてしまった。あの時僕がどんな事を書いたのかさえ必死に思い出そうとしても思い出せない。それはまるで薄い靄のかかった森の奥深くの洞窟の中に閉じ込められてしまったみたいだった。仮にも僕はもうあの退屈さには溶け込めないだろう。それが大人になったというのか、歳を取ったというのか、それとも変わってしまったのか、分からない。僕にはもう妻がいて、三歳の娘がいて、退屈さなんか入りこむ余地がないのだ。現実の足元に横たわる倒れた巨木や転がった巨岩を取り除く事に精一杯なのだ。
結婚して僕は二つ隣の街に引越し、家の近くには桜丘図書館よりも大きな図書館が建っていた。本の量も多く、特に子供向けの児童書が充実していてたので僕は娘を連れてよく利用していた。
ある日曜日に突然家の電話が鳴った。若い女性の声だった。どこか聞き覚えのある様な声でもあり、そうでない様にも思えた。
「桜丘図書館です。予約された本一冊が手違いでこちらの図書館に回ってきてしまっております。すみませんがこちらまで取りに来て頂けますでしょうか?」
僕は驚いて事情を訊いた。娘の為に予約していた童話の絵本がその女性の言うとおり近所の図書館でなく手違いで桜丘図書館に回されてしまったのだ。人気の絵本なのでそちらの図書館に回す時間はなく、次の人も待っているのでこちらまで取りに来て頂けないか? とその女性は本当に申し訳なさそうに何度も何度も自分達の非を詫びた。
「分かりました」と僕は答えた。
何年ぶりだろう。僕はあの図書館の前に立っていた。
桜丘図書館はあの時とどこも変わっていなかった。ただ年月の分だけコンクリート壁の色は褪せ、ひびが至る所に入っていた。利用者が減ったのか、休日にも関わらず館内は驚く程しんとしていた。図書館独特の、しん、ではなかった。読まれるを望んだ無数の本達の無言の涙の様だった。
僕はしばらく気の向くままに幾つかの本を手に取ったが、それはどうしてか僕に読んでいる事を望んでいる様には思えなかった。
その時、突然、僕が不意に足を止めたのは新刊のコーナーのある一冊のハードカバーが目に入った時だった。
僕は緊張し、そして遥か昔若い僕を包んだあの退屈さがどこからか吹き荒れ、あの時間の中心へと、その深淵へと導いていった。喉が急に渇き、息を飲んでその場に数分の間木立の様に立ち尽くしていた。体のあちこちの神経が音を立てている気がし、全身は小刻みに震えていた。気持ちを落ちつかせようと僕は窓際の椅子に腰を下ろした。そしてゆっくりと深呼吸をし、その本のページをめくった。窓の外には地面から伸びたハナミズキが僕の目線の所までそびえ立ち、幾つもの鮮やかな色に染まった花達が僕に向かって微笑んでいる様に見えた。その時僕は自らの目に薄っすらと涙が滲んでいるのを感じた。どうして泣いているのかさえ分からなかった。泣くのなんて本当に久しぶりだった。
その瞬間だった。目の前には二四歳の僕がいた。椅子に座って黙って本を読みふけ、その先にはカウンターに座ってじっと同じ様に僕の書いた小説を読む白河さんがいた。時折、彼女は持っているペンを指の上でクルクル回しながら利用者数人に電話をして「……本の返却期日が遅れていますので、返却の方よろしくお願いします」と原稿を読み上げる様に言った。
あの時の僕はふと本から視線を上げ、そんな彼女にばつの悪そうな笑みを浮かべていた。彼女は受話器を持ちながらにっこりとあの時の僕に向って笑い、片目をつむった。
現実のカウンターには若くてショートカットの小柄な女性が座っていた。黒い縁の眼鏡はどこか彼女には不似合いで、眼鏡の方が断固として彼女にしがみついている気がした。
僕は黙って娘の為の本と一緒にその本を差し出すと眼鏡の子は抑揚なく言った。
「こちらの本は新刊となっておりますので、返却日は必ずお守りください」
「分かりました。」と僕は答えた。「大丈夫です。」
彼女は眼鏡の中から感じの良い笑みを浮かべた。
「ねえ」と僕は彼女に言った。「返却日の前日に電話してくれないかな?」
彼女は不思議そうに僕を見上げ、しばらくの間口をあんぐりと開けていた。「前日にですか?」
僕はかぶりを振り、微笑んで言った。
「冗談ですよ」
* * * あとがきとして * * *
私の姿勢としては基本的に物語に「あとがき」をつけるのはふさわしくないと思っております。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。しかし、この短編集『雪原の灯り』の「返却は、あした、になっております」に関してだけはそれがどうしても必要かと思われます。いや、私はこのあとがきを書く為にこの物語を書いたのかもしれません。
今から八年前に実際に東京のある図書館で働いていた時にある男性と出会いました。当時彼は確か二十代前半だったと思います。彼は借りた本を返却日をかなり過ぎても返さない図書館では有名な常習犯だったのです。何故か私がよく返却の催促の電話をしたのを覚えています。返却にやって来ると彼は毎回丁重に詫びをいれ、そこにはどこか憎めない姿がありました。どんなきっかけか覚えてません。それとも彼と私の好きな小説が似ていたからでしょう。私達は些細のない会話から始め、文学の事やら色んな話をしました。彼が趣味で小説を書いていると言ったのはそれからしばらくしてからでした。彼の話や価値観、ちょっとした物事に対する考察などに私は興味を持ったのかもしれません。彼の書いている物語を是非読んでみたいと思ったのです。
彼は書きためていた幾つかの小説の原稿を本の返却と一緒に図書館に持ってきて、私にそっと隠れて渡しました。読んでみると、文章か鋭く、情景描写も巧みで、何より淀みなく読者に読み通させてしまう筆力がありました。しかし私達は図書館以外で会うことはありませんでした。お互いは図書館の職員と利用者、読者と筆者の関係に過ぎませんでした。少なからずその時はそう思っておりました。
彼のある一つの小説の結末を読む筈だった日は、偶然にも私が三年勤めたその図書館を辞める日だったのです。しかし何故か当日彼は現れませんでした。結局、その小説の結末も分からぬまま、二度と彼とは会う事がなかったのです。
人生とは不思議なものです。私の方が本当に小説家になってしまったのですから。よってこの作品はある意味では当時の彼との共著かもしれません。違いますね。彼の作品といっても過言ではありません。彼はきっと許してくれると信じています。何より彼と出会わなかったらきっと私は小説家になっていなかったと思います。そして、この物語は全くの実話であり、同時に全くのフィクションでもあります。
彼は今でも返却に遅れて、どこかの図書館のカウンターにいる誰かに深々と頭を下げて「これから気をつけます」と言っている様な気がします。
最後に、
Mさん、お借りになった本の返却は、あした、になっております。
二〇〇五年九月 水木里枝 釧路にて
『性欲過多な女』
そしていつからか街の誰もがそう読んだ。彼女の本当の名前なんて誰も知らなかったし、実際にはどうでも良かったのだ。
彼女は住宅街の真ん中の高い塀に囲まれた庭のある豪邸に住んでいた。悪趣味な洋館風の建物の至る所にはつたが張り巡され、塀からはくたびれた太いけやきの木が頭を覗かせていた。この豪邸には彼女と60を越えた父親だけが住んでいた。母親は数年前から全く姿を見かけなかった。誰かは死んだと言った。首を吊ってね。しかし葬式を挙げた形跡もなく、また別な誰かは離婚したと言った。
ともあれその豪邸には2人だけが住んでいた。父親の方は朝決まった時間にベンツが迎えに来て仕事に出かけた。恰幅の良い、日焼けした肌に白髪まじりの髪をオールバックにし、ブランドものスーツをスマートに着こなしていた。彼は会社の社長である事は知っていたが、誰もがどんな会社のどんな仕事の経営社かは知らなかった。普通の化粧品メーカーという噂から、それを扱うねずみ講の様な会社であるとか、ある者は、ありゃヤクザだ、と言った。結局は全くのベールに包まれ、最初は街の誰もが探偵と化したものの、時が経つにつれそんな興味は急速に失せていった
娘、すなわちその女は郊外の小中高大一貫の私立に通い、卒業すると特定の仕事に就かず、昼間から街で見かける様になった。長い腰まである黒髪にほっそりした顔、目鼻だちはくっきりとしていて、何故か年中くるぶしまであるワンピースを着、無口で誰かが声を掛けても軽く会釈するだけだった。買い物をする姿と本屋で固まった様に何時間も立ち読みをする姿しか目撃されなかった。友達はいなかったし、男友達の気配なんて全く無かった。生活は全て親の金で賄われていて、誰もが彼女の素性についてあれこれと面白おかしく推測した。
それでも彼女は街の若い男達の憧れの的になった。令嬢で色白でスラッとして、そして誰もが認める、美人、だった。
事件は彼女が25の時に起きた。血気盛んな街の不良達によって薄暗い公園でレイプされたのだ。彼等は捕まり、それから彼女を一年程全く見かけなくなった。
「そりゃヒドイな」と僕はリカに言った。
彼女は肯いた。「そうね。でもね、それからなのよ。彼女が変わったのは。その頃から彼女はいつも街中を若い、それも二十歳前後の男といつも腕を組んで歩いていたの。皆驚いたわ。あの子が、ってね。それもいつも違う男よ。皆色黒で体格の良い体育会系の男達。それも一人暮らしのね。でもね、奇妙なのは、その男達は、彼女との姿が目撃されなくなると同時にフッと街から姿を消すの。ある者は家賃を滞納したままだったり、ある者は家財道具を一切残してね。街の誰かが彼女と付き合った一人の男と接触出来たの。彼は言ったらしいわ。街で声を掛けられ、家に連れて来られると自ら裸になり、夜通し求めてくるんだと。ある時は彼を縛り、何回もイカされるの。精液が枯れるまでね。変な薬を飲ましていたりもしていたみたい。でね、彼女は毎回多額のお金を渡すんだと」
「凄い女だな」と僕は言った。
「ええ、これは噂だけど精神病院に行ったり、学校を辞めてしまった者もいたらしいの。それからそんなのが一年近く続いて、今度は彼女の姿を全く見なくなったの。ただね、今度は色んな男が彼女の家を訪れる姿を目撃した。驚いたのは、あの時、彼女をレイプした男もその中にいたのよ。しばらくして…分かるでしょ?彼は家族ごと姿を消したという事よ」
彼女はたばこをふかし、煙の行方を見ながら続けた。「しかし、ある日を境にそんな事も全くなくなった。昔の様に買い物するの姿なんかを見かける様になった。数年間が嘘だった様に昔の彼女に戻ってたわ。顔の相も以前の様になってね。それからすぐね、そんな彼女の姿も見かけなくなった。父親の姿もよ。ベンツの迎えもなくなって屋敷の庭は雑草が伸び放題でね、全く人の気配がなくなったの。誰かが心配して訪れても応答なし。それで色々調べたら、父親は確かにうさん臭い会社の社長だったけどね、その直前に別な誰かに会社を譲り渡しているの。当々、ある日警察が動いたわ。屋敷に入ってね…」と彼女はたばこを灰皿にもみ消し、首を振りながら言った。
「ねえ、もうこんな話しやめましょう。」
僕はグラスのコーラを飲み干して言った。「ここまで話してなんだよ。最後まで聞かせろよ」
彼女はうっとりする顔で僕を見上げ、唇に人差し指を当てて「あとでね。」と唇を塞いだ。
手はそっと僕の股間をつかんだ。
「そんな頭のおかしい女の事なんてどうでもいいでしょ」と彼女は僕の股間に頭を埋めた。
彼女の柔らかな舌の動きに僕はすぐに果て、同時に意識を失った。
…ん?……ん?…!!
意識を戻すと僕は縛られてベッドに仰向けになっていた。
「リカ!お、おいっ!」彼女は僕の上で髪を振り乱して腰を激しく脈打たせていた。「や、やめろ!リカ!」
彼女は悶えながら言った。
「そうそう、続きね。警察が入ってね、釘付けになったらしいわ。そこにいた誰もがしばらく口をきけなかった。父親が寝室で毒殺されてたらしいの。それも全裸で。そして彼のペニスには射精した痕跡がね…そしてその横には同じく毒を飲んで死んだ全裸の娘がね、父親に寄り添う様にね……二人の肉体は腐乱が激しくてね、物凄い悪臭が部屋中に充満していたらしいわ」
僕は彼女の顔をじっと見上げていた。
「これが結末よ。お、し、ま、い」
そして彼女は猛烈に腰を動かし、僕は再び射精した。
しばらくして僕らはベッドの中でまどろんでいた。僕の煙草をすっと取って彼女は思い切り肺に吸い込んだ。
「ねえ」と僕の耳元で柔らかに囁いた。「さっきの話だけど、二つだけ嘘があるの」
「嘘?」と僕は彼女の髪を撫でながら聞いた。
彼女は微笑んで言った。
「当ててみて」
(了)
地底人と、コーヒーの功罪について。
どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。
僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色の毛布に包まれながら静かな時を過ごしていた。白い三角形の陽の刻印が彼女の細い首筋を捉えて、カーテンの隙間を通って空からの使者達が舞い降りようとしていた。
「ねえ、眩しいの。カーテン閉めて。ねえ。お願い」
10センチ程の隙間を消し去ると、逃亡者の地下室の様に暗い世界が惜しげも無く広がっていった。
「なんで、コーヒーにクリームと砂糖を入れるの?」
僕たちはベットの上でお揃いのマグカップでコーヒーを飲んでいた。
「ねえ、聞いてるの?なんで、砂糖とクリームを入れるの?」彼女は僕のカップを見つめながらもう一度言った。
「私はブラックだわ。味が台無しじゃない。砂糖とクリームを入れたら」
僕は、子供の頃に公園の砂場で遊んだ時のドロンコ遊びの泥の色を想い出していた。
「昔はブラックだったけど、今はこれがいいんだ」
僕がそう言うと、彼女は納得いかない顔をしながら、自分の持っている煙草を僕の口に入れた。
「私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方の違いを抜きにすれば・・」
空中に浮かぶメンソールの煙を見ながら頷いた。
「でも、煙草の趣味も違う」
僕がそう言うと、彼女は泣きそうな笑顔を浮かべ、僕の口から煙草を奪い取った。
「ねえ、私思うの。なんかあなたと出会う為に生まれてきたんじゃないかと。あなた以外の人とは、いやあなた以上の人とは今後巡り会わない様なきがするの」
そう言いながらメンソールの煙草を灰皿で消すと、新しいコーヒーを入れに彼女はキッチンに向かった。
一週間後、ダイニングテーブルに『棚の中のコーヒークリームとシュガーが切れてましたよ。』とだけ書いたメモを置いて、彼女は出て行った。
僕が2度とブラックのコーヒーを飲まない様に、彼女は二度と戻っては来なかった。
それから、毎朝、僕は一人でコーヒーを入れ、いつもの様にクリームと砂糖を入れ、そしてドロンコ遊びの時の泥を想像しながら、一人でコーヒーを飲んだ。
彼女は相変わらずどこかの男と、朝のまどろみの中でコーヒーをブラックで飲んでいるのだろう。そして僕の時の様に、コーヒーをブラックでは飲めない男に「味が台無しじゃない」と言っているかもしれない。もしかしたらブラックしか飲めない男と巡り会って、「ねえ。私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方も同じだし・・・」
そう言って、その男に抱かれているのかもしれない。
* * * * * * * *
そんな風に一ヶ月をやり過ごしたある日。
僕は会社帰りに、昼休みにいつもよく行く青山通り沿いのコーヒーショップに行った。店は『eau de cafe」』という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。
家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。木製のカウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドとアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロ、モカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしている。
僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。
僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の9時少し前に店に行った。店の前では若い20代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。
僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなんです」
彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。
「よく昼間にいらっしゃる方ですよね」
彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりもよりも長いその髪を後ろで束ねていた。
「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもここのコーヒーを飲みたくてね」
「すみません。ここのコーヒー好きなんですか?」
僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってますよね?」
「あそこ美味しいんですよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私いつも仕事終わるとそこでコーヒー飲むんですよ」
彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。
「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。
ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを1つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って、煙草に火をつけた。
30分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。
「ここいいかしら」
僕が頷く暇も無く、彼女は僕の前に座った。
「それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」
束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。
「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを1つってね」
「そうだった?」
「えーそうよ。よく覚えてるわ」
火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。
「同じのね」
彼女は座り直して言った。
「お邪魔だったかしら?」
「もう座っている」
僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上の指先で何かを書いていた。
「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」
僕は「eau de cafe」の裏手にある酒造メーカーの名前を出した。
「ふーん。」
僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると
「これ?これは地底人の話よ」
「チテイジン?」
本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。
「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。
でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」
「目薬?」
「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女2人が地上に上がるの。そして目薬をやっと1万人分手に入れるの」
「それはどれ位の量なの?」
「分らないわ。多分、ドラム缶10本分くらいよ。でも地底人は全部で2万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」
「凄い話だな」
「そうね。目薬戦争よ」
「メグスリセンソウ・・・で、最後は?」
「結局、その目薬を地下水で2倍に薄める事で決着がつくの・・・」
「ふーん。それホント?」
「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ10ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね。」
僕は大きく溜息をついた。
「ねえ、コーヒーは好き?お酒は飲まないの?」彼女は訊いた。
「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目を一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね」
彼女は頷きながら髪を耳にかけて言った。
「訊いていい?ちょっとさあ、あなたお酒の会社に勤めているんでしょう?おかしくない?お酒よりもコーヒーが好きだなんて」
「そういう人もいる。寿司の食えない漁師もいる」非常に便宜的な言い訳だった。
「まあ、いるかもね」
「君だって、こうして仕事が終わっても違う店でコーヒーを飲む」
「漁師だって魚屋で魚を買うこともあるわ」彼女も便宜的に言った。
「そうかね」
「そうよ。きっと」
彼女もコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。
「泥んこだ」僕がそう言うと
「何?ドロンコ?」
「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色」
「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。
「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」
「毎回じゃない」
「ふーん」
彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭3つ分上くらい上をめがけて煙を吐いた。
「知ってた?」
僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。
「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってた?」
「いや」
「はあ」彼女は大きく溜息をついた。
それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。
「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」
「そうか?」
「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの」
「美味しいよ。ホント」
「そう?嬉しいわ」
彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。
「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ。感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」
「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」
「どういたしまして」
しばらくして彼女は言った。
「あなたの落とすコーヒーも飲んでみたいわ」
その後、僕たちは近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。
「ねえ、あなたのコーヒー飲みたいわ」
朝目覚めると僕たちはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕は、キッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで2杯入れ、330ccの水を入れる。その間、カップを暖める為に2つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで3分間チンする。しばらくすると2杯分300ccのコーヒーが出来上がるのである。
「美味しいわ」
彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。
二人のコーヒーをすする音が、真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。
「私ね。ホントは婚約者がいたの」
「へえ」
彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。
「いたのって・・・・どういう事?」
彼女はその日2本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。
「フラレタのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの」
「それで?」
「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。・・・でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」
「でも、フラレタって?」
「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。それでね。待ってたんだけど、2ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」
「酷い話だな」
「そうよ。酷い話。結局、フラレタの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?
でも、この不景気、再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」
彼女は両膝を曲げて座り、膝の上ににコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。
「おかわり貰ってもいいかしら」
僕はさっきと同じ要領でコーヒーを2杯分落とした。
キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。2杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った
「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね。私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね。努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの」
二人のコーヒーの湯気は弱々しい糸みたいだった。
「結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」
「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。
「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね」
「でも努力し過ぎて、つまり、水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間って弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」
「ちょっと待って」
僕は彼女の話を遮って言った。
「豆を増やせばいいんじゃない?」
「違うの。要は、水とコーヒーの関係なの。豆を増やしたってその比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには、豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ」
彼女は3本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。
「別れた彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」
僕はしばらくの間、考えていた。
彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは、夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。
絶妙なバランス。確かにそうだ。
「私はね。私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」
僕は、煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いた。
それから彼女の働いている「eau de cafe」で46杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを32杯彼女は飲んだ。
それだけの時間が経ったある日。「あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう。」彼女はそう最後に言って去っていった。
そして、青山通り沿いのその店からも彼女は姿を消した。
それからしばらくして、彼女が自分の部屋で自らその命を絶ったのを知った。
* * * * * * * *
地底人の世界。それは地下帝国という。
地下帝国は一面闇の世界なので、彼らは地下水でなくコーヒーを飲む。彼らの法律では15歳の男女は必ず地上に出なければならない。そこで子孫繁栄の為に地上世界の結婚相手を見つけなければならない。彼女ら(彼ら)はその条件として、自分がそれまで飲んでいたコーヒーの味と同じのを好む地上人を選ぶ。地下帝国の若者のファッション雑誌では、「結婚する相手の条件」の一位は「美味しいコーヒーを入れられる人」である。そして「結婚相手にしたい人の住む地上の国ベスト3」は一位「コロンビア」二位「イタリア」三位「フランス」なのだ。
そう、僕の出会った彼女達は地底人だったのかもしれない。
一人、僕は部屋でコーヒーを飲みながら、彼女の持っていた「地底人」の本について想像していた。時折、コーヒーで黄色く変色した煙草のフィルターに吸い込まれそうになった。
・・・一割増しの努力・・・・
あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの表面にそっと着地して、ゆっくりと沈み、そして消えて行くのを眺めていた。
* * * * * * * *
数年後、僕は結婚した。彼女は少なからず地底人ではなかった。
「コーヒーは嫌いじゃないわ。でも、私にしてみればそれは自転車の雨避けの様なものよ」ある朝、彼女は言った。
「アメヨケ?」
「そう。雨避け。自転車の雨避けは・・・・雨の降っていない日は必要ないわ。雨が降っている時でも自転車に乗ってなければ必要ないわ」
僕は首を傾げた。
「でしょう?晴れた日に自転車に乗ってる時でも必要ないわ。雨の時は歩く時も車の時もある。でも、雨の日にどうしても自転車に乗らなくてはならないときは、やっぱり必要ね。そういうもんよ。私にとっては」
「じゃあ、君がコーヒーを飲むとき、いや飲む必要があると感じる時はどんなときなんだい?」僕は訊いた。
「そんなの分らないわ。私にとっては・・・そうね形而上的なものなの」
「形而上的?」
僕はそれ以上続けるのをやめた。
それでも、僕たちはほぼ毎朝、テーブルで向かい合いながらコーヒーを飲んだ。僕がコーヒーが好きで毎朝飲んでいるので、自然と彼女も付き合う様になった。
僕が落としたり、彼女が落としたり、ただ彼女の落とすコーヒーの味は一定ではなかった。僕はあまり気にしない。そして彼女も、コーヒーを「自転車の雨避け」のごとく、ただの黒い液体として胃袋の中に流し込んでいた。 彼女は気分でブラックの時もある。砂糖だけの日もあれば、クリームだけの日もあった。でも概ね、僕と同じ泥んこのコーヒーを飲むのが習慣となった。また、彼女は紅茶の時もあれば、オレンジジューズの時もあった。僕は別に何とも思わなかった。
次第に僕たちは、月、水、金曜日は僕がコーヒーを落とし、火、木、土曜は彼女が落とした。日曜日は気分の向いた方だった。彼女のコーヒーの味はそれでも一定ではなかったが、紅茶やオレンジジュースを飲むことはなくなっていた。僕たちが毎朝コーヒーを飲むのは、新入りの坊主が毎日境内を掃除するかごとく、もしくは総理大臣の秘書が毎朝「総理、昨日はよくお休みになれましたか?」というセリフの様に、当たり前の様に日常に溶け込んでいった。
そして、僕たちが結婚してお互い毎朝それぞれ500杯位コーヒーを飲んだであろう、ある月曜日の朝。
僕はコーヒーを入れず、前の日に買っておいたホットココアを入れた。水ではなく牛乳を沸かし、念入りにココアの粉末を溶かし、出来上がる寸前に生クリームとブランデーを少しだけ入れた。そしてそれを茶漉しでこした。
テーブルに2つのホットココアを出すと、パジャマのまま椅子に座った彼女の表情が一瞬曇った。
「アンタ、何これ?」
「ココアだよ。ココア。たまにはいいだろ。君も毎朝飲んで飽きただろう」
「どうして?」
彼女はココアのカップに手をつける事もせず、それをずっと眺めていた。
「ねえ、ねえ、なんでコーヒーじゃないの?」
彼女の声が次第に大きくかん高くなった。
「ねえ、どうしてなの?」
彼女は序々に顔を赤く硬直させながら、両手の平を頭に乗せて言った。
「何で。何でなの?コーヒーじゃないの?」
そして片肘をテーブルにつきながら、手の平でお額を押さえて、そして肩を震わせながら泣き始めた。
「どうしたって言うんだよ。ココアじゃダメかい?コーヒーが飲みたかったのか?」
彼女の思いがけない反応に僕は酷く動揺した。
「別にココアが嫌いな訳じゃないわ。コーヒーが死ぬ程好きな訳じゃないわ。そう、自転車の雨避けよ。でも、何故よ。何故よ。ねえ。教えて」
彼女は両手で頭を抱えて、両目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なんで・・・・なんで、コーヒーじゃないのよ」
そう言うと彼女は頭をテーブルにつき、両手で頭を抱える様にして、いつまでも大きく泣き続けた。
行き場を失った二つのココアの湯気はまっすぐに天井に吸い込まれていった。
僕はそれを見ながらぼんやり地底人について考えていた。(了)





