静かな雨が降ろうとしている

静かな雨が降ろうとしている。 いつからだろう、僕はそんな予感の様なものを感じる様になった。 それはたいした雨ではない。時には傘だって必要ないかもしれない。雨粒は空中で更に分解され、砂粒の様になってしまう。または目を凝らさないと見えない雨。し…

『あの子に夢中』

突然の雨が一瞬にしてやんでしまった後の様な静かな夜の部屋で男と僕はコーヒーを飲んでいる。男はブラックで、僕は人肌に暖めたクリームをたっぷり入れたモカを飲む。 男は上品そうにコーヒーをすすり、部屋を見渡して言う。 「何か音楽はないのかい?」 無…

『返却は、あした、になっております。①』(携帯閲覧用)

時折僕はこんな風に考えている。 僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな…

『返却は、あした、になっております。②』(携帯閲覧用)

八月の東京は体の芯まで僕をとことん苦しめた。暑さは暑さを超えて痛さに変質し、降り注ぐ陽光はずっしりと体全体に重くのしかかった。仕事の疲労が追い討ちをかけてダウンし、数日間会社を休んだ。やっと歩ける様になったのは既にお盆を過ぎた辺りで、僕は…

『返却は、あした、になっております。③』(携帯閲覧用)

「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。 九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。 ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の…

『返却は、あした、になっております。④』(携帯閲覧用)

あの日以来、僕は桜丘図書館には行っていない。小説も書いていない。理由は分からないが好むと好まざるとに関わらずこの都会の退屈さに慣れすぎてしまったのかもしれない。いや、退屈さを感じる事さえいつしかなくなってしまっていたのだ。そして昔の故郷の…

『返却は、あした、になっております。』

時折僕はこんな風に考えている。 僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな…

『性欲過多な女』

誰かが彼女をそう呼んだ。そしていつからか街の誰もがそう読んだ。彼女の本当の名前なんて誰も知らなかったし、実際にはどうでも良かったのだ。彼女は住宅街の真ん中の高い塀に囲まれた庭のある豪邸に住んでいた。悪趣味な洋館風の建物の至る所にはつたが張…

『森の声』

どれだけ長い間歩いたか分からない。 深い森には風はなく、ふくろう達が遠くで鳴いている。姿の見えない動物のせいで時折樹々がカサカサとすれる。落ち葉を踏みつける音がパリパリと断続的に聞こえる。うっそうとした緑は陽光を遮断し、辺りは幾分薄暗く、気…

『ミドリネコ』

まな板でなすびをシュコショコと切っている時に勝手口のドアを誰かが叩いた。 「こんばんは」とドアの隙間からミドリネコがにっこりと顔を出した。 僕は、やあ、と答えた。全くミドリネコの奴は夕食時に最近毎日訪れるのだ。 「今日の夕飯は麻婆なすですか?…

『誰かにとっての傘』

珍しく早い梅雨入りだった。 雨はこもった熱気を愛音の全身にべたりと張り付かせ、そのせいで彼女は幾分苛立っていた。実際に彼女を苛つかせたのは昨日の彼氏との些細な喧嘩だった。 彼は仕事で明日は会えないと言った。「プロジェクトの追い込みでね。」 彼…

雨降りのあと

私は、私自身にあまりにも馴れ過ぎてしまったの。あなたの為に変わることなんか不可能なのよ。いや、誰の為にもよ。 サオリは何度も心の中でそう呟く。それは音となりこだまの様に響いた。視線をそらせばまるで絹糸の様な雨が街を覆い、カフェの窓を濡してい…

夕張メロン

毎日、決まって夜中の二時に電話が来る。かれこれ一ヶ月が過ぎた。 僕はその時間、布団の上でその日最後のお勤めを待ちながらぼんやりと天井を見つめている。音楽はだいたいクラシックジャズで、最近のお気に入りはビル・エヴァンスの『アンダー・カレント』…

地平の舟  (①)

柔らかくて羽毛のみたいな春の日差しが差し込んだ五月のある日曜の午後だった。 僕は窓を開けて、ベットの上でディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいた。主人公のスクルージが第二の幽霊のいる部屋のドアに手をかけた時だった。どこからか音が聞こ…

地平の舟  (②)

あの男が帰った後、僕は周りを見渡しながら部屋の隅々にさなえ の残していった痕跡を探していた。しかし何もなかった。探しているのは彼女の影の様なものだったのかもしれない。赤いベレー帽の奇妙な男。パチンコですった分を届ける。滝田さなえを知っている…

地平の舟  (③)

あれから二週間が過ぎてもあのベレー帽の男は現われなかった。試しに昨日パチンコを久しぶりにやり、案の定負けてしまったが、それでも金を届には来そうもなかった。とにかくあの男に会ってさなえの事を訊かなければならない。そして彼女に会って言う事が沢…

地平の舟  (④)

次の日、松田は二時ちょうどにやって来た。最初に来た時と同様に赤いベレー帽と赤いジャケットを着ていた。 「こんにちは。お邪魔します」彼は玄関で丁寧に頭を下げた。 「ねえ、松田さん、一つ訊きたいんだけど、どうしてそんな格好しているんですか?目立…

地平の舟  (⑤)

「静岡から帰った次の日です。彼女は朝体調が悪かったので会社を休みました。その日はわたくしは夜勤でしたので昼間一緒に病院に行きました。診断の結果は妊娠によるちょっとしたストレスと風邪でした。大したことはなく薬を貰って彼女は家に着くと休みまし…

地平の舟  (⑥)

そこに立ちすくんでいたのはさなえだった。 さなえの表情には何もなかった。どんな感情も見当たらなかった。僕の顔の一点を見下ろしながら僕の言葉を待っている様だった。煙草の火種が落ちて焦げ臭い匂いが鼻をついた。その時、さなえの背後に立っていたレナ…

地底人と、コーヒーの功罪について。

どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。 僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色…

『観覧車』

夏草が陽光をたっぷりと吸い込み、風がカサカサと潮の音を運ぶ。耳を澄ます。カモメが中空で旋回する。 広大な芝生の斜面をどこかの子供達が転がっていく。空には千切れた雲の端切れが斑点の様に澄み切った空にぽっかりと浮かんでいる。 16年ぶりに再会し…

アメリカン・モーニンング(前編)

『さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ』(『長いお別れ』/レイモンド・チャンドラー) * * * * * * * 父は故郷を失った。 ここでいう故郷とは非常に限定された便宜的な意味合いを持つのかもしれない。 父の故郷は今も存在するし、これからも存在…

アメリカン・モーニンング(後編)

土曜日は少しばかり雨が降っていた。凄く弱い雨だ。 次の日に誰がが「昨日はいい天気でしたね」と言っても信じてしまいそうな雨降りだった。七時少し前だったので僕は駅から吐き出される人の流れを観察していた。折りたたんだ傘を持ってる者、傘をさしている…