地平の舟  (②)

あの男が帰った後、僕は周りを見渡しながら部屋の隅々にさなえ の残していった痕跡を探していた。しかし何もなかった。探しているのは彼女の影の様なものだったのかもしれない。赤いベレー帽の奇妙な男。パチンコですった分を届ける。滝田さなえを知っている。一体誰なんだ。何が繋がっているんだ。何が起きて、何が起ころうとしているんだ。困惑の彼方にはどんよりとした不気味なものが横たわっているだけだった。男はさなえの家に転がり込んだ恋人なのだろうか。いや、多分容姿が全然違うだろう。ならば、さなえをレイプした一人なのだろうか。いや、あの男がチンピラとは思えない。それとも彼らの仲間なのだろうか。僕は考えるのをやめてベットに寝そべったものの本を読む気にはなれなかった。結局、そのまま出掛ける事にした。行く宛ては特になかった。


雲が多いわりには空がとても広く感じた。雲の切れ目から漏れた陽の丸い巨大な輪はこの辺り一角をまばゆく輝かせていた。春の陽光はほんのりと夏の色彩を帯びていて、歩いているだけでじっとりと汗ばんだ。どこに行くのかも、どこを歩いているのかもよく分らなかった。気付くと駅の方向に歩いていた。騒々しい商店街の陰鬱な表情は灰色に染まった僕の心にどこか似ていて、戦乱で廃墟になった東南アジアの小さな村の情景を連想させた。
さなえが居なくなって四ヶ月。僕は休みの度にこうして町を彷徨いながら彼女の残像と実際の姿を捜し続けていた。半年前、彼女は僕の人生に突如現われ、二ヶ月後にいなくなった。去っていったのか消えたのか。立ちこめる煙草の煙が開け放った窓からすっと入り込んだ静かな風の気流に乗って見えなくなってしまったかの様に。
窓を開け放ったのは誰だったのだろうか。それは僕であろう。彼女の心の中心で凝り固まったものをより広い世界に溶解せようとした。しかし、それは彼女の居場所を居場所ではなく違うものに変質させてしまったのだった。彼女を深く傷つけ、深淵の闇にもう一度、つまり彼女があの公園で遭遇した悲劇よりも遥かに無情で無自覚な暴力によって、突き落としてしまった事を考えるとたまらなく哀しかった。しかし、何を考えても今はもういないのだ。失われ遠く霞んだ彼女の声はもう聞こえるはずもなかった。
駅前のガラス張りの喫茶店で一時程、時間を潰した。時折、近くの街路樹の葉が風に吹き飛ばされて目の前のガラスにぺたりと張り付いていた。通り過ぎる人間達の声は重なり合い、言葉を越えて単なる音になっていた。さなえと僕がよくここで飲んだアイスティーは心持苦味を含んでいて、煙草の味と混ざって口を支配する不思議な感覚は僕をあの頃の時間の中心へ引きずり込んでいった。
すっかり陽が傾いた時には僕は電車に乗って練馬区にあった彼女の部屋に向かっていた。これで何度目だろう。既に居るはずのないあの町に僕を運んでいくものは一体何なのだろうか。小さなロータリーを抜けて閑静な住宅街に入り、小学校の脇にその建物はあった。壁全面が茶色く塗りつぶされ、三階建ての建物には各階に二部屋づつ部屋があった。彼女がいなくなってすぐに来た時には既に部屋は引き払われていて、最後に来た一ヶ月前には既に新しい住人の名前がポストに貼られていた。隣に住む大家の初老の男性も「どこに越したかは教えれられない」と言っていた。僕がこうしてここにいる事すら全く意味のない行為だった。通りの反対側から立ったまま建物の全景をぼんやり眺めていたが何も起きないし、何も解決されないのだ。どれだけの時間が経ったのだろう。足元には数本の吸殻が落ちていた。僕はそれを拾って近くの公園の灰皿に捨てて、駅へ向かって歩き出した。
再び初台の駅に降り立つと既に空は青黒く染まっていて、パチンコ屋の眩しいネオンに視力を奪われていた。あの時、ベレー帽の男が、僕がここでパチンコをしていくら負けたかを知っているという事は、彼は傍にいたのかもしれない。しばらくの間、パチンコ屋の前で辺りを見回したがそれらしい人間は見つからなかった。パチンコをやって負けたらまたあの男が現われるかもしれない。そこで今度はちゃんと彼女の事を何かしら聞き出す事が出来るかもしれない。店に入ろうとしたが、結局、馬鹿らしくなってその場を離れた。僕は近くの定食屋でとんかつ定食と一緒にビールを飲んだ。肉はゴムみたいに固く歯につまってなかなか取れない肉片が僕をしばらく苛立たせた。それから表通りにあるペットショップでショウウィンドウに面した檻にいる子犬のパピヨンと遊んだ。僕らはその子犬を勝手に『スルメ』と呼んでいた。数ヶ月前にさなえと来た時に彼女が名付けたのだ。両目と両耳の辺りが黒くて顔の中心が白く、耳はつららを逆さまにしたみたいに立っていた。僕が爪先でガラスをコツコツ叩くとそれに合わせてスルメは尻尾を揺らしながらその場で何度も飛び上っていたが、仕舞には顔をガラスにぶつけて大人しくなってしまった。スルメがぶつけた辺りは彼の吐息と鼻の湿り気で斑点みたいに真ん丸く曇っていた。よく見ると右下には「売約済み」という札がかかっていた。スルメは疲れたのかうずくまって目をそっと閉じて動かなくなった。
大通りの交差点に差し掛かかった時だった。向こう側の車線の先頭に一台のタクシーが止まっていたのが目に入った。いや、目に入ったのは車そのものでなく、そこにいる運転手だった。薄暗くてよく見えなかったが、そこに居たのは昼間に部屋を訪れたベレー帽の男だった。白か淡いブルーのワイシャツに紺のネクタイをしていた。帽子は被っていなかった。乗客を乗せているらしく何やら笑いながら会話をしていた。タクシーの運転手?思わず走り寄ろうとしたが信号が青になってすっと走り去ってしまった。シルバーの車体にはブルーのラインが一本、横一直線に走っていた。咄嗟に遠くに目を凝らした。『東』という文字と『交通』という文字が見えた。『東交通』?あずまこうつう?いや、それ以外に何か文字があった気がする。『東』で始まる名前だろうか。それとも最後に『東』で終る名前なのだろうか。とにかくあの男はタクシーの運転手で、『東』という字を使った会社の人間である事は間違いなかった。
部屋に戻りシャワーを浴びてベットに飛び込んだ。赤いベレー帽の男・パチンコの負け金を届ける・タクシーの運転手・さなえの事を知っている。考えても結論は出なかった。出るはずもなかった。ぐったりと疲れきってそのまま眠りについた。


                      * * * * * * *



 「ねえ、聞きたいんだけど、女友達でしばらくの間住まわしてもらえる様な人はいないの?」
「はい。今年就職で東京に来たんですが、こっちにはそういう友達はまだいないんです。実家は福岡の博多だし親戚もいません。」彼女は物悲しい声で答えた。
さなえがいつまでここにいるかは分らないがとりあえずやらなければいけない事があった。
「うん、分ったよ。まず、当分ここに居るにしても、君だって洋服とか身の回りのものはある程度持って来なきゃいけないだろう?」
「はい」
少し考えてから言った。「今日これから一緒に荷物を取りに行こう。スーツケースは持ってるかな?そこに着替えやなんかを詰めて持ってくるんだ」
彼女は心配そうに頷いた。
「ねえ、僕はこれでも数年前に同棲の経験があるんだ。そういう事の基本的な部分は分っていると思う。それと、僕も君も心配している事だ。昨日知り合ったばかりの男と女が一つ屋根の下で住むんだ。正直よくある事じゃないし、ある意味では正常ではない。でもね、僕は君に指一本触れるつもりはない。信じられる様に努力して欲しい。僕も若い男だ。しかし、そもそもこうして君がここに住む原因が原因なんだ。お互いどこかで知り合って仲良くなって住む訳じゃない。それがどういう事か分っているし、それがとても愚かな事だとも分っているつもりだ。二十歳位で性欲過多な男でも健全な精神を持っていれば出来る訳がないと思う。」
「はい」
「確かに君を乱暴した人間の様に動物手的衝動のみで突き動かされてしまう奴はいるよ。でもそれはごく稀なんだ。こんな世界でもわりにちゃんとしている人間は幾らかはいる。僕は出来ればそうでありたいと思う。」
彼女は幾らか当惑した様に頷いた。
「ねえ、酷い言い方だけど、判断するのは君の方なんだよ」


結局、僕らは彼女の部屋に向かった。彼女はスウェットでは電車に乗ることも出来ないのでとりあえずタクシーで直接向かった。それ程、遠い場所ではなかった。
部屋の前でタクシーを降りると彼女が心配そうな表情を浮かべたので「ここで待っている。数日分のものだけでいいよ。旅行じゃないんだ。それに僕もそんな長居されては困るし」と言った。彼女は小さく微笑んで階段を上がって行った。三十分程で彼女は着替えて紺のスーツケースと化粧ポーチを携えて降りてきた。細身のジーパンに大きな英語が幾つか並んだグレーのトレーナーを着ていた。「用心の為もあるし荷物も重いから、ここからタクシーで帰ろう」と僕は言った。
彼女はタクシーの中で実家に電話をして、訳あって女の子の友人の家に泊まるからしばらく部屋を空ける、と言った。親が何か言ったのだろう。大丈夫心配しないで、と答えて電話を切った。また、数人の女友達にも電話をした。最近、ストーカーみたいのにつけまわされて怖いから友達の所に住まわせてもらうの、と言った。相手が誰の家?と言ったのだろう。知らない友達よ、と彼女は答えた。その後、何かあったら携帯に電話して、心配しないで、と言って電話を切った。その電話を横で聞いていてそんなに長くいるつもりなのか、と僅かに心配になった。

僕の部屋はアパートの一階の角部屋で、フローリングの8畳のダイニング兼キッチンと奥に畳張りの7畳の部屋があった。その間はスリガラスの引き戸で仕切られていた。当分はダイニングのテーブルを寄せてマットレスの上に布団を敷いて寝て欲しい、と言った。僕はベッドでしか寝れないんだ、それに同じ部屋はまずいでしょう。と言って彼女は納得した。部屋に着くとガラクタの入った青いプラスティックケースを空にして、ここに荷物を入れるといいよ、と言い、彼女はスーツケースの中身を手際よく仕舞い込んでいた。
「出来たらハンガー貸して頂けますか?」
彼女は持ってきた数着のスーツを食器棚の縁に掛けた。ケースからはジーパン、スカート、トレーナー、薄手のコート、下着がザクザクと出てきて、更には漫画本、CD、CDウォークマンが現われた。まさかこれで一冬越すつもりじゃないだろうな、と少々困惑したが、当然何も言わなかった。
「さなえさん、とりあえずこっちのダイニングを基本にして欲しいんだけど、CDウォークマンなんかは耳にもよくないし、僕の部屋のコンポ使っても構わないから。テレビも見ても構わないし。音楽はヘビメタと演歌以外だったら文句は言わないよ」
彼女がちらっと見せたCDは、ミスチル、スマップ、サザンだった。僕は思わず、参ったなあ、と呟いた。
「で、テレビはよく見るの?」
彼女は頭を振って答えた。
「あまり見ないほうです」
「ふーん」結局、月曜日からくだらない恋愛ドラマに毎週付き合うはめになってしまった。
その日の夜は僕が夕食を作った。買い物も億劫だし、たまたまにんにくと鷹の爪とパスタがあったのでペペロンチーノを二人分作った。彼女は多分お世辞ではなく「とっても美味しい」と言った。「料理得意なんですか?」と訊いてきたので「若い時に調理のアルバイトを少ししただけだよ」と言った。実は、僕は二十歳から二年間、ちゃんとしたレストランで料理人をやっていたから当然だった。しかしそれを言ったらこれから何を作らされるか分らない。その点だけは伏せておいた。

こうしていつまで続くか分らない二人の生活が始まった。彼女は部屋の大家さんに、しばらく留守にしますと電話して言った。また、精神的なショックもあってしばらく会社を休みたいと言ったので「それは君の問題だから好きにすればいい」と答えた。しかし会社を休む理由がなく、結局、月曜日の朝に僕が彼女の会社に電話をして、滝田さなえの兄ですが、週末に妹が倒れまして昨日病院に言ったら胃潰瘍だと診断されました。症状は軽い方なので部屋でしばらく薬を飲んで安静にしていなければならなく、大変申し訳ございませんが一週間程休ませてください、と彼女の上司らしき女性に言った。女は少し驚いて「分りました。それは大変ですね。お大事にとお伝えください」と言ってガチャンと電話を切った。僕は部屋の鍵のスペアを渡し、会社に向かった。

 
一週間後、彼女は会社に行き始めると利用する駅を変えた。僕よりも先に帰宅した彼女はまず風呂桶にお湯を張った。僕が帰宅して食事を済まして奥の部屋に引き上げると、彼女は風呂に入り、その後に僕が入る様になった。一緒にテレビを観る事はごくたまにあったが彼女はダイニングの方でテーブルで本や雑誌を読むか、CDウォークマンで音楽を聴く事が多かった。寝るときはテーブルを寄せてマットレスの上に布団を敷いて寝た。
僕はまず何事もこと細かく取り決める事をやめた。そもそもお互いをある程度知った上で始めた生活ではない。恋人でもない。もし僕達がその様な関係だったら、逆だっただろう。実際に数年前の女の子の時はそうだった。彼女が食器を洗って、僕が風呂を掃除する。洗濯は僕がセットして、彼女が干す。週末に交代で掃除をする。一ヶ月単位で生活にかかった家賃、光熱費、その他の出費をレシートを基に清算して折半する。しかし今回は違うのだ。彼女と住むには同情と寛容が必要だった。それに彼女の生活の癖も知らない。自然に出来上がるであろうルールに身を任せればいい。彼女自身も構えて生活するのは辛いだろうし、窮屈にさせたくない、それが僕のささやかな願いだった。
まず、僕らは自然な挨拶から始まった。朝を起きれば、おはよう、どちらかが仕事から帰れば、お疲れさま、と言い、寝るときは、おやすみなさい、と言った。ごくごく根本的なルールが出来上がっていった。それは次第に昇華され、長いトイレの後に入ろうとするなら、今、出たばかりだから、と言った。シャワーの後は細かい毛をとことん流しきった。それぞれ買って冷蔵庫に入れたものは手を一切つけなかった。それは長い間忘れていた感覚だった。山登りで下る人間が登る人間に道を空ける。エスカレーターで後ろから来た人間に道を譲る為にどちらかに寄る。といった事に非常に似ていた。そういった山登り的、エスカレーター的ルールがゆっくりと構築されていった。そして次には単に人間同士ではなく男と女として出来上がったルールだった。彼女は基本的にダイニングで生活したが、一度着替えている時に僕が突如入ったのがきっかけだった。必ずお互いがそれぞれの部屋に入る時は引き戸をこんこんと叩いて「大丈夫?」と訊いた。
彼女の会社は僕の会社からそれ程遠くなかったのでいつも一緒に出勤した。降りる駅は一つ違っていた。しかし彼女は三十分早く起きて、洗面、着替え、化粧を僕が起きるまでに済ませた。そういった暗黙のルールが自然に出来ても、それ以外では僕らはあまりお互いを干渉しなかったし、こと細かく何かを決めなかった。彼女はあまり料理をしない人間なのか朝食は抜いていたし、夕食は外食で済ますか、外でおかずだけ買ってきて炊いたご飯を二人で分けて食べた。僕は殆ど自炊して食事を作ったが、彼女は遠慮して勧めた時以外は食べる事はまずなかった。金銭的にはわりにしっかりしていて一ヶ月後には家賃と光熱費の合計をだいたい彼女なりに計算して、それに幾らか上乗せして僕に渡そうとした。その時僕は家賃の半分だけ受け取る様にした。大家がさなえの存在に薄々気付き始めていたので、僕は「妹なんです」と言って誤魔化しておいた。
僕はこの様な生活で彼女を見ているとそれは僕の年齢のせいなのだろうか、三十歳に近い年齢に差し掛かってよく考える事があった。それは、人間は間違った動機と選択によって間違った場所に着地してしまうという事はよくある。つまり着地して初めて動機と選択が間違ったものだと理解するのであるが、そのせいで僕らはその動機と選択が最初の時点で間違っていないと確信出来る為の術を求める。それが歴史であり、経験であり、哲学と思想なのだろう。時には、間違った動機と選択によって間違っていない場所へ着地する事も出来る。それを我々は幸運と呼ぶ。逆に、間違っていないと確信した動機と選択によって、着地した場所が間違っていたという場合もある。それが不運なのだろう。しかし、人間はある程度の動物的時間、つまり年齢を重ねると、間違った場所に着地した後ではそれからどんな正しい動機と選択をしても、そこからそう遠く離れる事が出来なくなってしまうという事だ。でも、彼女との生活を通して僕をとても辛くさせる事は、彼女をあの公園で襲った現実はそこに彼女の動機も選択も一切関与する余地すら無かったという事だった。よってこうして彼女が僕と同じ空間に存在する事さえも、ある意味では彼女の自由意志がどこまでも深く剥ぎ取られてしまった結果であるという事に対する言い表せない息苦しさだった。どこまでも哀しく、寂しい事であると同時に、人間をしばしその様な予期せぬ外部からの圧倒的な力によって、もう自らの足で元の場所に戻れる事が出来ない程の遥か遠くまで吹き飛ばしてしまう事への虚無感と、人間の無力感であった。
だから僕は、彼女との生活に慣れたとか気に入ったとかそういう思いはなかったが、それでも彼女に対して、この生活をいつまで続けるつもりなのか、もうすぐ君は君の世界に戻るべきなんだ、とは言う事は出来なかったし、彼女自身の真意を確かめる事もしなかった。彼女が本来居るべき場所に再度着地するのは、彼女自身の中にしかるべき動機と選択が生れて、しかるべき時に彼女自らの力によって動き出せばいいんだと考えていた。
そして、僕らを支配したものは殆どが沈黙だった。沈黙を通して通じ合っていたのかもしれない。何より彼女の望んだものは僕との生活ではなく、ただの四つの固い壁に囲まれた空間だったのだ。その事は僕を幾分苛立たせたが、いちいち気にしていてもしょうがない。彼女は僕について何も訊こうとはしなかった。それは僕も同じだった。どんな仕事をしているかは分っていたけれど、どんな家庭に育ち、どんな学生時代だったか、どんな友達がいるか、将来の夢は何か、僕らはお互い一切訊こうともしなかった。僕らの生活は非現実的であり、暫定的であり、便宜的だった。同じ列車に乗り合わせた乗客同士によく似ていた。
最初の十日間程、彼女を深く悩ませたのは妊娠の事だった。それは明らかに僕でも分る事だった。どことなく落ち着きを払い、トイレを長い時間占拠した。不意に出る彼女の溜息、夜遅くに漏れ聞こえるすすり泣き、妊娠や生理についての本がテーブルに置き去りにされている事もあった。愛してもいない、そして誰だか分らない男の望まない命を宿すことの恐怖は、公園での衝撃そのものと、半ば永続的につきまとう男達の存在自体と共に、彼女の中に新たに不確かな暗い影を落としていた。
彼女は殆ど外出する事はなかった。普段の日は仕事から帰るとぼんやりと過ごし、週末もほぼ同様だった。それは新宿からそれ程遠く離れた場所でないこの街で、いつあの男達に遭遇するか分らない。彼らだって彼女を捜しているだろう。だからという訳ではないが、僕は休日にはなるべく部屋を空ける様にした。図書館に行ってひたすら本を読んだ。またはごく少ない友達と買い物に行くか、飲みに行ったりした。恋人という程の人も、友達という程の女の子もいなかったので、誰とも会う事のない日は近くの公園で夕暮れまでベンチに座って鳩に餌をやりながら街の景色を眺め、木々の葉が擦れる音を聞いて過ごした。彼女が来てからもう二週間が過ぎていたのだ。

 
ある日の夜、彼女がダイニングのマットの上でヘッドフォンで音楽を聴きながらマンガ本を読んでいる時、僕は彼女の肩を後ろから叩いた。
驚いて振り返り「はい?」と言った。僕は「ちょっと話がしたい」と言い、冷蔵庫から缶ビール2つを取り出してグラスと一緒に置いた。
「いつもあっちの部屋で一人で飲んでいるのも味気なくてね。たまには付き合って欲しい。君もお酒は嫌いじゃないだろう」
プーさんの顔がプリントされたパジャマ姿の彼女は「ええ」と答えて向かいに座った。
「ねえ、とても聞きづらいんだけど、僕が心配しているのは妊娠の事なんだ。その事で最近悩んでいるのはなんとなく知っているし」
風呂上りで赤みがかった彼女の顔が綻んで目を丸くして微笑んだ。
「ええ、昨日、きました」
「本当?」
「はい。かなり遅れてました。多分、精神的なものだと思います。心配してくれてたんですか?」
僕は頷いて彼女のグラスにビール注いだ。
「その関係の本が置いてあったのを見てしまったんだ。まあ、とりあえず良かった」
「はい」
「乾杯しよう。」
彼女は「乾杯?」と首を傾げた。
「うん。乾杯だ。乾杯する程の事じゃないけど、何かお題があった方がいい」
「はい。」
僕はしばらく考えて言った。
「生理に乾杯」
彼女もクスクスと笑って言った。
「生理に乾杯」


彼女は一気に飲み干して溜息をついた。僕は無言で注いだ。
「僕はまだ君の事を何も知らない。まあ、あまり訊かない方がいいと思ったんだ。だけど、こうして君と同じ部屋に住んでいる。ある程度知っていてもおかしくないしね。性格はなんとなく分るけど」
「性格?分りますか?」ビールで濡れて光った薄い唇で言った。
「うん。」
「例えば?」
「泣き虫」
「はい」
「面倒臭がりや」
「はは」
「気が強い」
「うん」
「抜けてる」
「ふふふ」
「見た目よりわりに真面目」
「ええ、ご名答」と人差し指を立てた。
「あと、結構ミーハー嗜好」
「なんで?」
「それ」と言って、CDウオークマンを指差した。
「これはね、スマップです。」と微笑んで言った。
「ねっ」
「ええ?でも、とおるさんが多分かなりマニアックなんだと思います。部屋にあるCD全然聞いた事ない人ばかりだし。」
「ジミースミス、アートブレイキー、コルトレーンスモール・フェイセズビートルズ
ビートルズは知ってます」そう言って彼女は『オブラディ・オブラダ』を鼻歌で歌った。
「お酒は飲む方?」
「はい」グラスの残りを飲み干したので、新しいのを冷蔵庫から出して注いだ。僕はカマンベールを切って皿に盛った。
「ねえ、とおるさんの性格も分りますよ」アルコールで赤くなった顔は首筋までも染めていた。
「僕の?」
彼女は指を折りながら言った。
「見て目と同じで真面目」
「ふむ」
「几帳面」
「はい」
「すごおく普通なんだけど、変っている所もある」
「例えば?」
「なんとなく」
「ふうん」
「優しい」
「ふむ」
「あと、世話好き」
「うん」
「頭がいい」
「ノー」

「嘘です。」とぺろっと舌を出して言った。

「さなえさん、おかしな話だけど僕らはお互い歳も知らないんだ」
「幾つに見えます?」
「キャバクラみたいな会話だね。うーん。今年、就職したって言ってたから二三歳」
「ピンポーン。でももうすぐ二四歳」
「いつ?」
彼女は『ジングルベル』を鼻歌で歌った。どこか違っていた。
「クリスマス?」
「違います。イブ」
「へえ、僕は幾つに見える?」
「なんかコンパみたい」と今度は彼女が笑って言った。「うーん」彼女は僕の顔をまじまじと見つめながら答えた。
「三十歳前後」
「三十歳?」僕はびっくりして言った。「遠からず近からず」
「三一歳」
僕は溜息をついて自分でビールを注いだ。
「とおるさん、ふけてる訳ではないんですよ。あの公園であういう事があって、色々してもらってとても二十代の人には見えないんです。大人っぽいから」
「ふむ」
「本当は?」
「二八歳」
「ええ、そう言われてみれば、でも、本当はちゃんとお礼しなきゃいけないって思ってたんです。ここまでしてもらって。」
「構わないよ」
「すみません。ありがとうございます」彼女はグラスをコトッと置いてあらたまった顔をしながら正面を見据えて、頭を下げた。
「でも普通の男の人だったらこんな事してくれません。なんでそんなに優しいんですか?知らない人にこんなに」
僕はしばらく考えていた。何故だろう。何故なんだろう。分らなかった。
「さなえさん、前も言ったけど、普通の人だったら誰でもああしていたと思う。部屋まで提供するかは分らないけど」
「でも、私は毎日考えていました。何故だろうって」
「月並みに言えば、君に同情していたからなんだ。ねえ、さなえさん、僕でも分らないんだ。でも、その時はいつもオヤジの話を思い出すんだ」
「お父さんの?」
「そう。あのね、僕はこう見えても高校の時はわりにやんちゃをやっていたんだ。校舎の裏で煙草を吸ったり、公園でたむろして酒を飲んだり、歩行者にロケット花火を打ち込んだりね。まあそんな程度だけどね。高校一年の時なんだけど、クラスメイトの中に生れるつきの病気で左手の指が器用に動かない女の子がいたんだ。音楽の時間に笛をやる時はその子はいつもばつの悪そうな顔をしていた。当然、思った通りに指が動かないから上手く吹けないんだ。先生も気を使ってその子だけはテストを免除してあげてたんだけど、笛とか音楽の苦手な僕ら男子の一部がかなりブーブー言ったんだ。それで、その時にその女の子に向かって『オマエ、わざと指動かないフリしてテスト受けないんだろう。だったら笛なんか要らないじゃないか』って言って、休み時間に彼女の笛を取り上げてその子の目の前で力任せにへし折ってしまったんだ。その子は泣き出して教室を飛び出したきり学校へ来なかった。そして転校して二度と会う事はなかったんだ。」
「酷いですね。」
「うん、それでその話を担任が父に言って、僕は家でボコボコに殴られた。『今度はオマエの指を切り落としてやろうか』っ怒鳴って、僕の指をテーブルに押さえつけたまま包丁を指に当てがうんだ。僕は泣きなが何度も謝った。結局父は許してくれたけど、それから『ちゃんと聞くんだ』って言って話始めたんだ。」
彼女は僕の言葉に注意深く耳を傾けていた。
「父が生れたのは長野の山奥の村なんだけど、四方を見事に山に囲まれていて田んぼがひたすらどこまでも平らに続く様な所で、道路と農道が碁盤の目の様に走っているんだ。そこに民家がぽつぽつと建ち並ぶホントに小さな村だった。村の外れの結構大きな農家の離れに吉村さんという、皆からは『よっさん』と呼ばれていた男性が住んでいた。その男は、当時、父が十歳位で、吉村さんは二五歳位だった。吉村さんは戦争で左腕を失っていたんだ。彼は山を一つ越えた近くの村で生まれ育ったんだけど、身寄りがなく、父の村に移り住んで農家の手伝いをしていたそうなんだ。桑や鋤を右手一本で器用に使いこなして、田植えや稲刈り、蒔き割りなんかも出来た。右腕は大人の片足位の太さだったらいしんだ。彼は戦争に行く前に少しの間、学校で算数の先生をやっていたんだけど戦争で左腕を失って教職には戻らず、農家の手伝いをして生計を立てていた。村の人たちも吉村さんに好意的で、機械に詳しい彼はどこかの家の風呂や、車が壊れてしまうと出掛けて行って直してあげたりもしていたらしい。特に子供達から人気があって、村の子供達は学校が終ると吉村さんの住む離れに遊びに行って、ある時は学校の勉強なんかで解らない所を丁寧に教えてもらった。その中の一人に父がいたんだ。
算数が苦手な父に吉村さんは丁寧に教えてくれた。石ころを使って足し算や引き算を教え、りんごを片腕しかないのに包丁で器用にスパッと切って割り算なんかも教えてくれた。裏山に虫を採りに行く時は一緒に行って、沢山虫のいるポイントを教えてくれたり、『ここから先は絶対行っちゃダメだよ』とか言って忠告してくれたらしいんだ。
ある日、父が田んぼの脇の用水路で遊んでいると足を滑らせて落ちてしまったんだ。一緒にいた友達が吉村さんをすぐに呼んできてくれて、泳げない彼は用水路に飛び込んで片腕で父を引き上げて助けてくれた。父は水を一杯飲んで半日意識がなかったけど結局助かった。そんな事もあって吉村さんは村の英雄になった。何かあれば村人の誰かが食事を作ってもっていってあげたり、あまり手の入らない魚介類なんかも彼に差し入れした。子供達には勉強を教えてくれるしね。父は吉村さんのおかげで勉強が好きになって、ある日、吉村さんに『坊やは、勉強が得意だし、理解した事をきちんと説明するのが上手だから、学校の先生なんかになるといいよ』って言ったそうなんだ。でもまだ父は小学生だけど、そんな彼の言葉が頭から離れなくて、漠然としてだけど将来は学校の先生になるのもいいかも、とその時から思っていたらしい。それに吉村さんが元先生で、片腕を失って好きな仕事が出来ないという事に父は小さいながら同情していたから、大好きな吉村さんの為にも、学校の先生になるというのは父の中でしっかりとした目標として出来上がっていたんだと思う。
しかしある日、山の入り口にある神社の賽銭箱から頻繁にお金が取られるという事件が起きて、ある村人がその神社の近くで夜遅く吉村さんを見かけたと言いふらし始めた。それを境に村人の吉村さんに対する見方が序々に変化していき、吉村さんも何となく村にいづらくなって、それである日、ふとその村から姿を消してしまったんだ。後で分ったのはその賽銭泥棒は隣村の若い連中だった。」
「かわいそうですね。そんな良い人が」
「それで父は小学校の時の小さな決意通り上京して八王子の小学校の先生になった。先生になって五年位して小学三年のクラスの担任の時にある事件が起きた。ある男子生徒が持病に苦しむ一人の女生徒をいじめて泣かしてしまった。父はその男子生徒を皆の前に立たせ、往復ビンタを何発も食らわしたらしいんだ。そしてその後に、生徒みんなに吉村さんの話をした。片腕だったけど立派に生きて誰からも信頼されていた。そして溺れる自分を泳げないのに片腕で助け、そんな吉村さんの一言でこうして学校の先生になったんだと。だから、絶対に弱いものをいじめる人間は許さない。とね。
その日の放課後に頬を真っ赤に腫らせたその男子生徒と母親が突然やって来た。多分、殴った事に対する苦情だと思ったらしいんだ。しかし母親の様子がどこか違う。母親はまず自分の息子の非を詫び、息子にも謝らせた。そして母親は、学校から帰った息子から聞いた父の昔話について改めて訊きたいと言った。その母親が言うには、旦那、つまり生徒の父親も片腕で、息子はそれに対する負い目から何故か逆にいじめてしまったんではないかと。色々話を聞くうちにもしかしたらと思った。訊くと、旦那さんは養子で旧姓を吉村と言った。父の故郷のあの吉村さんと目の前の生徒の父親が同一人物だった事がその時分ったんだ。
吉村さんは村を出て東京に来て、その母親と結婚した。理由は分らないが養子に入った。そして十年前に目の前にいる生徒が生れた。
父もその親子も本当に驚いた。そして父は吉村さんに会いたいと言った。会って今の姿を見て欲しいと言った。でも母親は首を振って、五年前に病気で死んだと言ったらしいんだ。息子は言った。父は嫌いじゃなかったけど片腕だったし、幼稚園の時は『オマエの父さんはなんで腕がないんだ』と周りから言われていじめられた。だから、僕は逆にそういう人達を見て攻撃する事によって自分を守っていたんじゃないかと。
父は言った。『さっき授業で言ったけど、お父さんはとても立派な人だったよ。誰よりも働き者で、誰よりも優しかった。頭も良かったし、私がこうして先生になる事を決めたのも君のお父さんのおかげなんだよ。それになんと言っても私の命の恩人なんだよ。君を殴ってしまったけど、それは私は吉村さん、つまり君のお父さんを思い出したからなんだよ。』って。
その親子は揃って泣いていたという。もちろん父も吉村さんが死んでしまった事に涙した。親子は結局、半年後に母親の実家に引っ越して転校してしまったけど、その日から転校するまでの間、その生徒は誰よりも優しくて、誰よりも正義感の溢れる子供に変わったらしんだ。
僕は父に殴られて怒られた次の日に東京の郊外の吉村さんの墓参りに連れて行かれたんだ。父は何度も僕達家族に内緒でそこを訪れていたらしいんだけど、父が墓の前で手を合わせるその姿を横から見て、その時、自分のしてしまった事の意味が分ったんだ。僕はあの日、あの公園のトイレの脇のベンチで思い起こした事は、父の話と吉村さんの事、そして無慈悲に笛をへし折ってしまったクラスメイトの女の子の事なんだ。そして、父だったらどうするだろうか、死んでしまった吉村さんならどうするだろうかってね。僕は、君を乱暴した人間ではないけれど、そこをそのまま立ち去る事は、結局、僕も君を乱暴した人間と同じになってしまう気がしたんだ。」

彼女は静かに泣いていた。涙の雫がふっくらした頬を零れ落ちた。僕はグラスの残りのビールを飲み干して、流しに片した。パンッと手を叩いて「今日はもう寝よう」と言って自分の部屋へ引き上げた。

地平の舟  (③)

あれから二週間が過ぎてもあのベレー帽の男は現われなかった。試しに昨日パチンコを久しぶりにやり、案の定負けてしまったが、それでも金を届には来そうもなかった。とにかくあの男に会ってさなえの事を訊かなければならない。そして彼女に会って言う事が沢山あるのだ。
時はいつもと変わりなく過ぎていった。月曜日から金曜日は普通に会社に行き、夜八時ごろに帰宅する。食事を作り、風呂に入り、酒を飲んで音楽を聴く。気付くと朝を迎える。それはさなえという人間が僕の生活に入り込む以前の生活と同じだけなのだ。ただ何もかも元に戻っただけなのだ。それでもさなえが消えたダイニングには物寂しい空気がべったりと床を這っていて切り離された別の空間にさえ思えた。

突然部屋の電話が鳴った。家の電話が鳴るのは珍しい事だった。
「もしもし」
電話の向うはとてつもなく広い世界で、流れる気体の音が聞こえるだけだった。
「もしもし?」
人間の気配も声も聞こえなかった。
「もしもし?」
幾分語尾を強めても何の反応もなかった。僕は力なく受話器を置いた。間違い電話だろう。洗濯機が止まっていたので中身を籠に移してベランダへ行って干していた。腐ったミルク色をした雲の群れがどんよりと空を覆っていた。そしてまた電話が鳴った。さなえだろうか?果たして家の電話番号を知っているのだろうか。
「もしもし」
さっきと同じだった。何度声を掛けても、受話器の向う側はとことん無であると感じた。しばらくして受話器を置いた。
うん?電話?そうだ、この前、あの男のタクシー会社に電話をしてみよう。僕は咄嗟に電話帳を開いた。分厚い電話帳の『タクシー』というカテゴリーには実に多くの会社があった。世の中にこれだけタクシー会社が必要なのだろうか。一体、何台のタクシーが東京に走っているのだろう。カタカナの名前、漢字の名前、アルファベットを並べただけの名前。色んな名前があった。『スピード交通』というのもあって、きっと早く目的地には着けるけど、いささか違反者が多くてドライバーの出入りが激しそうだと思った。
『東』ではじまる名前は予想以上に多かった。『東和交通』『東部交通』『東京交通』『東新交通』『東西交通』『東洋交通』『東プリンス交通』、更に『東』を含む名前も数限りなかった。『町田東交通』『関東交通』・・・

僕はまず東和交通に電話をしてみた。電話に出たのは中年の女性だった。
「東和交通です。もしもし?」
「あの、訊きたい事がありまして」
僕はそれだけ言った後、気付くと受話器を置いていた。一体何を聞けばいいんだ?まず、そちらのタクシーは銀色の車体で青いラインが入っていますか?と訊くのだろうか。そして、そちらに普段赤いベレー帽を被ったドライバーがいますか?とでも訊くのだろうか。名前も知らないそれだけの手掛かりで電話してどうするというのだ。それにこんなに多くの会社があるんだ。きっとおかしな人間のいたずら電話で、誰も真面目に対応してくれないだろう。僕だったら途中で電話を切るだろう。僕は諦めてベランダに戻ると、糸の様な雨が降り始めていた。僕は洗濯物を部屋に移して出掛ける事にした。念のために『タクシー』のページを破ってポケットに突っ込んだ。



雨は次第に激しさを増し、通りを黒く染め上げていて、新緑を思わせる甘酸っぱい匂いが雨の隙間を縫って流れ始めていた。通りを埋め尽くす色とりどりの傘は絢爛で前衛的なオブジェみたいだった。さなえの姿を盲目的に捜しながらどれだけの間歩いたのだろうか。
僕は雨で人気のなくなった公園の木陰のベンチでぼんやり雨の音を聞いていた。大きさも作りもあの公園に良く似ていた。鉄棒が四つ並んであり、小さな砂場とうさぎの形をしたすべり台があった。遊具はたったそれだけだった。向うに見える公衆便所はどこの公園のとも同じように荒涼としていて、その部分だけが色を抜いてしまった様に奇妙な物体として存在していた。きっとさなえはこれからの人生、こういった公園というものを彼女の中の地図から一切抹消してしまうんだろうな、と思った。僕が不意にこの様な場所にいても絶対彼女を見つける事なんか出来ないのだろう。
僕はポケットから電話帳の端切れを取り出してぼんやりと見ていた。その中の『東京交通』という会社はここからそれ程遠くない所にあった。歩いて十五分位だろう。特に行く所もないし、やる事もない。僕はそこを目指すことにした。大通りをひたすら一キロ程歩いた右手にそれはあった。しかし、そこに停まっている車はオレンジ色をしていた。肩を落としたまま大通りに立ち尽くしてシルバーにブルーのラインの入ったタクシーが通り過ぎるのを捜していた。三十分程経ってもそれらしいのは一台も通らなかった。その他に歩いて行ける位の近い場所には『東』のつくタクシー会社は一つもなかった。僕は馬鹿らしくなって持っていた紙切れを丸めて近くのコンビニのゴミ箱に投げ捨てた。
駅の方へ向かって歩き出す頃には雨は幾分弱くなっていた。例のペットショップに行くとスルメはもういなくなっていた。買われていったのだろう。その代わりに新しいパピヨンがそれまでスルメのいた檻の中で敷かれた毛布の端をかりかりと噛んで遊んでいた。スルメよりも一回り小さく、顔の黒い部分がグレーに近い色をしていた。ガラスをコツコツ叩くと一瞬顔を向けたが、そのまま尻尾をこっちに向けて僕がその場を立ち去るまで毛布の端を噛み続けていた。僕だけの名前を付けようかと思った。さなえはどうか、と思ったが、それはあんまりだったのでやめる事にした。なぜなら既に「売約済み」の札が貼られていたからだった。
ぼんやりと新しいスルメを眺めていると携帯が鳴った。会社の後輩だった。木下という二五歳の男で、入社した時に彼について色々世話をしてから僕をわりに慕っていて時たま飲みに行く事があった。彼は埼玉に住んでいるが、今、新宿にいるんですが飲みませんか?という電話だった。特に用事も無かったし、構わないよ。新宿まで行くよ、と言って電話を切った。
新宿というよりは大久保寄りの通り沿いの居酒屋に入った。彼の先輩であり、僕の同僚の愚痴をこぼした。それについては聞いているだけだった。不景気でウチは大丈夫なんですかねえ?と訊いてきたので、大丈夫じゃないの?と答えた。仕事の悩みから、取引先の人間の悪口になり、女子社員の男話になった。終始どこにでもある会話だった。僕はどこか落ちつかず彼の言葉にあまり集中する事が出来なかった。そのせいで彼は同じ事を繰り返してしゃべらざるをえなかった。なぜなら、彼の背後の風景に無意識のうちにシルバーに青いラインの入ったタクシーを捜していたからだった。店を出るときに彼は言った。「すみません。お金おろすの忘れてしまったんで、後で払います」と財布を見て言った。僕は頷いて会計を済まして店を出ると彼は電話で誰かと話していた。「鏑木さん、今、僕の彼女が新宿で女の子の友達と一緒なんですが、どうですか?四人で飲みません?」しばらく考えたが「ごめん。最近はそういう気分になれないんだ。」と言うと、彼は不思議そうな目をして「じゃあ」と言って歩いて行った。

 
次の日、取引先に直行して会社に着いたのは昼前だった。既に木下は営業に出ていた。僕のデスクの中央に会社の封筒がひっそりと置かれていて、昨日の飲み代です。木下』と書かれてあった。中には3千円入っていた。なんて律儀な奴だろうと思いながら、しばらくの間、その封筒を仔細に見つめていた。その時、僕の中で何かが弾け、漠然とした予感の様なものが僕を包んだ。仕事を片つけると真っ直ぐに部屋に向かった。パチンコ屋にも寄らなかった。買い物もせず、新しいスルメにも会いに行かなかった。部屋に戻ってすぐに電話機の下の引き出しからあの男から受け取った封筒を取り出した。茶封筒の表には何も書かれていなかった。試しに裏返してみた。漠然とした予感は当たったのである。何故、あの時気づかなかったのか。そして今まで何故気付かなかったのだろうか。僕は溜息をついて思わず天井を見上げた。封筒の裏の下の方には青くて小さい文字でこう印字されていた。

『タクシー・ハイヤー・送迎  東洋交通(株) 東京都江東区北砂*-*-* 03-****-****』

* * * * * * *

 
 さなえは表面的には以前の生活を、枠組みは全く違うにしろ取り戻してきている様子だった。テレビを見て笑ったり、女友達との携帯での会話の中でも怒ったり、喜怒哀楽がゆっくりと隆起して幾分ある意味での精神的な健康状態に回復しつつあった。
そして何より、僕との関係においても、僕が「敬語じゃなくていいよ。僕は大家でも寮長でもないんだ。逆に僕の方が疲れてしまうかもしれない」と言ったのを境に、便宜的な友達としての関係になりつつあった。それでも週に一、二度、ダイニングからすすり泣く声が聞こえ、その際には僕は掛ける言葉も、慰める術も持たない単なる赤の他人でしかなかった。食事の時は会社の事や好きな歌手の話、友達との面白いエピソードを話し、一緒にテレビを見る時は、チャンネルの主導権は彼女に譲ったが、芸能人の好き嫌いが激しく特定のタレントが出ているとチャンネルを即刻変えた。僕が見ているのはお構いなしだった。小さな子供がおつかいをする番組を見た時は彼女はそれまでとは全く種類の違う涙を流し、恥ずかしいのか顔を隠してダイニングに逃げ込んでしまった。僕は興味のないテレビの時は、ベッドの上でヘッドフォンをして音楽を聴きながら本を読んでいた。僕が熱中していると、時折、ベッドに寄っかかっている彼女がベットをバンと叩いて「面白い番組やってるよ」と言って僕を驚かせた。「なんで、このベッドはこんなに硬いのかしら?」と訊いたので「これ位がちょうどいいんだ」と答えた。彼女は「ふうん」とどうでもいい様な鼻に抜けた声で言った。それ以来彼女は、僕のベッドの事を「死後硬直ベッド」と呼んでクスクスと笑った。

 
ある日の土曜日、会社の往復しかしないさなえを僕は外に出掛けようと誘った。
「そろそろ、外に慣れた方がいいと思う。散歩でもしないか」
十二月に入り、街路樹には数えられる程しか葉を残していなかった。彼女はベージュのタートルネックのセーターの上にレザーのハーフコートを着て、紺のスカートにローカットの皮のブーツを履いていた。
駅の方へ向かう間も、彼女はどこか落ち着きがなかった。あの男達の気配に怯えているのだろう。少しだけ遠くまで行って映画でも観ようかと誘ったが彼女は首を振った。
「あんまり、映画って見ないの。凄くヒットしてて周りが皆見ている時には、話題作りというか話についていけないから見るけど」
「ミーハー嗜好」と僕は言った。
「そう」と彼女は笑って言った。
駅前の喫茶店に入り、彼女はアイスティー、僕はコーヒーを頼んだ。彼女はカラカラとストローでかき混ぜながら外をぼんやり見つめていた。
「あの男達は君を今でも捜していると思う?」と僕は訊いてみた。
「分らないわ。ただ、二度と現われないとは限らない。いつかきっと姿を現すと思う」
「思うんだけど、君を捜し出して何かをする、という事はもうしない気がするんだ。彼らは君が警察に行ったりするとは思っていない。君の元カレも、君がお金の件で警察を呼んだ事に対する報復と腹いせだったらその目的は達成されたのだと思うし、君に再び会う意味もメリットもないんじゃないかな?」
彼女は頬杖をつきながら答えた。「そうね。アイツはもう現われないかもしれないわ。問題はあの男達なのよ。つまり、ある意味ではあの男達に売られたのよ。」
「売られた?」
「そう」彼女の溜息がガラスを僅かに曇らせた。「カレはあの男達に借りがあったのよ。その分を清算出来るまではね。私に手出しをしてくるかもしれない」
「借金?」
「みたいなもの。これ以上、あんまり話したくないわ。ごめんなさい」
BGMでインストロメンタルの『デイ・トリッパー』が流れていた。サビの部分で突然、店員が有線のチャンネルを変えて歌謡曲が流れ出した。彼女は指先でリズムを刻んでいた。僕の知らない曲だった。

「この数日の間、この前とおるさんが話していた事を考えていたの」そう言って彼女は話題を変えた。
「話?」
「そう、お父さんの昔の話。吉村さんという人がいて、お父さんの生徒さんのお父さんだったという話ね」
「うん」
「私はね、よく分らないの。あの男達に酷い目にあって人間不信になって。特に男性にね。それでも、とおるさんや、とおるさんのお父さんや、吉村さんという人とかね、そういう人もいる。なんかね、世の中というか世界の成り立ちみたいのがとっても分らないの。言っている事、分るかしら?」
「なんとなく」と僕は言った。「ただ、それは僕もよく分らない。けどこういう事だと思う。世界には色んな国があって、色んな人種や文化や言葉がある。スマップを好きな人もいれば嫌いな人もいる。ビートルズを好きな人がいて、そうでない人がいる。それと同じ様に色んな生き方や価値観があって、そこには人の不幸の上に幸福を築く人もいれば、人の幸福の為に自分が幸福になれない人もいる。不器用な人がいて、要領の良い人もいる。総体的な意味でのバランスなんじゃないかな」
「バランス?」
「そう、太陽がどこかを照らせば、そこには必ず影があるんだ。雲が集まる所があれば、雲がない所もある。僕はまだ二八歳だしね。そんな風にしか捉えていない。この世の中は不完全で、不確かで、曖昧で、常に混沌としているんだ。でも、宇宙の彼方から僕らの世界を見れば、遥か遠い過去も現在も、僕らの世界のあり様は根本的に何も変わっていないんじゃないかな。そう思っている」
「でも、世界や世の中のバランスの為に、私はあんな目に遭わなくちゃいけなかったのかしら」
それについての言葉は見つからなかった。彼女のアイスティーは氷が溶け出して薄くなっていた。氷は丸みを帯びて小さくなりカタッと音を立てた。そんな様子を見ていると僕は何故かとても悲しい気持ちになった。アイスティーは無くなり、残った氷は溶け出して水となる。グラスの中のものはこんな短時間の間に全く別なものに変わってしまうんだと。目の前の彼女がまさにそうなのかもしれない。あの日を境に彼女は全く別な人間に変わってしまったんじゃないか。あの日以前の彼女を僕は全く知らないのだから。
既にアイスティーではないその液体をストローで吸いながら彼女は言った。
「お父さんはまだ先生をやっているのかしら?」
「オヤジ?」
「うん」
「死んだんだ。3年前にね。」
「そう。ごめんなさい。」
「おふくろが言ってたよ。『きっと吉村さんという人と一緒にあの世で学校の先生でもやってるわよ』ってね」
「そうね。でもね、お父さんとその吉村さんていう人はとても立派な人だと思う。そしてあなたも」
「僕は違う。真面目で几帳面で世話好きなだけだよ。」そして付け加えて言った。「頭がいい」
「ブー」と彼女は笑って言った。


「あったかあい」と言いながらマフラーをした高校生位の女の子が二人入ってきた。さなえは彼女らに視線を追いながら小さい声で言った。
「もし、私がレイプされたのが今位の季節で、あの日マフラーをしていたら、きっとそれで男のどちらかを絞め殺していたと思う。そして最後には私も殺されるの」
彼女は俯いたまま口を尖らせてストローの先で必死に氷を吸い上げようとしていた。五センチ位浮いた所で音を立てて落ちてしまった。
「それで、とおるさんのお父さんの生徒になるの。殺した男はお父さんにビンタしてもらうわ」
「死んでまで君とその男は同じ場所に行くのかい?」
首を少しだけ傾けて答えた。「そうね。やっぱりそんなの嫌だわ。たまったもじゃないわね」
店を出ると凍てついた風が街中を縫う様に這い、雲がどんよりと灰色にたちこめていた。雨の気配すらした。見渡せば傘を持った人がぽつりぽつりと見つける事が出来た。商店街を歩いていると一軒のペットショップの前に僕らは立ち止まった。ガラスの向うにはコインロッカーみたいに檻が幾つもあって、それぞれに子犬が飼われていた。コーギーミニチュア・ダックスフンド、柴犬がその中でクルクル回って遊んでいた。彼女はガラスをコンコン叩いたり、目を丸くして顔を近づけて何やら話し掛けていた。彼女はその中の一匹を『スルメ』と名付けた。
「なんでスルメなんだ?」と僕は訊いてみた。
「なんかスルメを焼いてる匂いしない?」
振り返ると、向かいの魚屋からの匂いだった。
「それでスルメ?」
「かわいそうかしら、そんな名前で」
「うん」
彼女は肩をすくめながら言った。「いいの、私だけの名前」
子犬は彼女を目掛けて何度も飛び掛っていた。彼女はしゃがんでガラスに額をつけたままじっとその子犬に目を合わせていた。「かわあいい」と何度も呟きながら、スルメには決して届かない言葉をとても長い時間投げかけていた。束ねた黒髪は揺れ、吹き付ける冬の風に彼女は肩を丸めた。携帯ショップの呼び込みの声が聞こえ、自転車のブレーキ音が聞こえた。幼い子供の手を引いた母親が傍に寄ってきて、子供はペタリと小さな手の平をガラスにつけて「わんわんちゃん」と叫んだ。さなえはすっと立ち上がりスルメに向かって「バイバイ」と手を小さく振った。「スルメちゃん、買われていったらちゃんとした名前を付けてもらうのよ」と言った。幼い子供は「するめ?」と言った。彼女は微笑みながらその子供にも手を振った。
突然、大きな雨粒が顔を濡らし始め、あっという間に赤いタイル張りの道を斑点みたいに染め始めていた。僕らは小走りでコンビニの入り口に逃げ込み、そこでビニール傘を買った。彼女は傘の下から外れまいと指先でちょこんと僕のダッフルコートの肩口を摘んだ。それは明らかに冬の雨だった。ケーキ屋の入り口には既に大きなもみの木が置かれていた。『X'mas』の文字はいたる所にあった。町には赤と白と金色のカラーが満ちていた。
商店街を抜けた辺りで彼女は訊いた。
「ねえ、彼女とかはいるの?」
「いいや」と短く答えた。
「私がいるから?ねえ、気にしなくていいのよ。もし好きな人がいたり、あのね、そういう人がいてね、部屋に呼びたかったら言ってね。出て行くから。」
「出て行く?」振り向いて訊いた。
「ねえ、私はね、とおるさんの人生とか生活とかをね、とっても邪魔しているんじゃないかって思うの。」
「邪魔なのかは分らないな。でも、僕は今の生活はそんなに嫌いでもない。何故かは分らないけど」
「とにかくそういう時は言ってね」
「うん」と僕は頷いた。「そういう時があったらちゃんと言うよ」
僕らは突然言葉を失ったまま大通りを歩いていた。どこに向かっているのかも僕すら分らなかった。車が雨を弾く細かい音が響いて、傘を持っていない女子高校生の群れがキャッキャッと騒ぎながら走り去っていった。リサイクルショップの店員が軒先に出ていた商品にシートを被せていた。空は全面が白濁色に覆われていて、隠れてしまった太陽を探そうと西の空を見上げてもどこにも見当たらなかった。そこには赤く点滅した飛行機が真っ直ぐに東へ向かって飛んでいるだけだった。あの飛行機はどこへ向かっているのだろうと思った。そこはきっと鳥すらも辿り着けない雲一つない晴天の遥か上空で、見下ろせば海洋に浮かぶ島々が染みみたいに見えるのだろう。僕らはどこへ向かってるのか。どこに向かって吸い寄せられているのか。どこまでも、どこまでも歩いても雲はとぎれる事なく僕らの進む世界をすっぽりと飲み込んでしまっていた。
比較的大きな本屋に入り、彼女は漫画コーナーにさっさと歩いて行ってしまった。僕は文学のコーナーで前から探していた本を見つけた。カート・ヴォネガットの短編集で、パラパラとめくって目に入った一編を最後まで読んだ。とても素敵な話だった。村の劇団の脚本家が主人公で、演目の主人公は本物の役者で結婚もせず女の子とも出歩く事もしないそんな男に決まった。演技に関してはピカ一だったが変わった男だった。相手役の女性は、電話会社の受付をしていて長い間恋から遠ざかっている様な女性だった。演技に関しては全くの素人だった。彼らは初対面でありながら演目を見事に演じきり、終了後、彼女は楽屋で『ロミオとジュリエット』の本を彼にプレゼントする。彼女がその中で一番気に入ったシーンの会話を、その場で彼がロミオのセリフを朗読し、彼女がジュリエットのセリフを朗読した。そして彼ら二人は打ち上げにも行かず、そのまま二人で消えて、そして一週間後に結婚した。

僕はその本をレジに持って行くと、さなえは少女漫画を清算していた。
「それ、なあに?」と訊いた。
僕は本のカバーをちらっと見せた。彼女は目を細めて「ヴィネガー?調味料みたいな名前ね」と目尻に皺を寄せて全く興味なさそうに言った。僕は黙っていた。
部屋に戻ると、彼女は濡れたレザーのコートをタオルで拭きながら「なんか久しぶりに休みの日に外に出て、だいぶ気分が変わったわ」と言った。
「それはとても良かった」と僕は言って、ベッドの上で本の残りを読んだ。彼女は漫画をあっという間に読み終わり、そのまま眠ってしまった。


 次の日、会社から帰るとさなえはスーツ姿のままで椅子に腰掛けて、テーブルの上でしな垂れていた。僕の姿をちらっと見ると額に手をあてて肘をついたまま動かなくなった。何かがあったのは分ったが、この一ヶ月を通して僕はそういう時はあまりこちらから声を掛けない方が良いという事を会得していた。ささやかな教訓だった。仕事で何か
あったのだろう。と思った。
僕はコートを椅子に掛けて冷蔵庫を開けて缶ビールを二つ取り出そうと思った。見ると中は彼女が買いだめした大量のパックのヨーグルトとボトルのアイスティーが溢れんばかりに冷蔵庫を占拠していて、ビールは冬なのに生ぬるかった。僕が冷蔵庫の温度調節のダイヤルを「強」にして、それについて何か言おうとしたが、振り返ると彼女はピクリとも動かなかった。僕は諦めて自分でビールを注いで一杯だけ飲んだ。着替えようとして立ち上がると、彼女は口を開いた。
「遭ったの」
その言葉を聞き逃しそうになった。
「あの男達に遭ったの」彼女は結わいた髪をばさっとほどきながら伏し目がちに言った。
「遭ったって?」驚いて訊いた。「君を乱暴した男達に?」
「うん。会社の帰りに表通りで向うから歩いてきたの。咄嗟に隠れたから向うは気付かなかったと思うけど」彼女はシルバーのイヤリングを手でいじっていた。「それでいきなりあの時の事が鮮明に頭の中に蘇ってその場に座り込んでしまったの。具合が悪くて近くのブティックの女の人が声を掛けてくれて、結局店の奥でしばらく休ませてもらったの」
「ねえ、なんで電話してくれなかったんだい?」
「二度電話したわ。でも繋がらなかった。」鼻の頭を掻きながら言った。「とても怖かったの。怖かったの」
目に溜まった涙を隠すように手の平で覆いそのまま額をテーブルについてうずくまって肩を震わせた。後ろから彼女の肩に手をかけて「大丈夫だよ」と言った。小刻みな震動がはっきりと感じ取られた。初めて触る彼女の肩はとてもやせ細っていて弱々しかった。彼女は少ししてゆっくりと目の前の缶ビールに手をかけてグラスに注いだ。半分だけ飲み干して置かれたグラスには淡い色の口紅がほんのりとついていた。その色は公園での彼女の鮮血を思い起こさせた。彼女が顔を上げて、鼻をすすりながら「もう大丈夫」と微笑んで答えるまで、僕は「大丈夫だよ」と何度も声を掛けていた。

                       * * * * * *

 
 あの男の名前を知らないのだから東洋交通に電話した所で以前と同じであろう。あの男から受け取った封筒をバッグに入れて僕は次の土曜日に東洋交通を目指した。
夏の息吹が半ば混じりあい、幾らかの人間は半袖のシャツを着ていた。日差しがガラス張りのビルの壁面に反射して瑠璃色に変色していた。湿気を帯びてこもった空気は体全体に重く圧し掛かっている気がした。錦糸町駅からバスに乗って、バスが小さな川を越すと、次第に建物全体が低く潰れたみたいに町工場と下町の混在する一角へ入って行った。機械の油の匂いが充満して空の色を僅かに鈍くさせた。歩いている作業着を着た男達の目は疲労を耐えてギラギラしていた。
バスを降りて一本裏に入った所に東洋交通はあった。所々にひびが入ったクリーム色をした古ぼけた十階建てのマンションの敷地がそのままタクシー会社になっていた。トタン屋根の下には何十台というタクシーが綺麗に並んでいて、数人のドライバーが怪訝そうな顔で自分の車を洗車していた。車体も男達の服装も、あの時と同じだった。マンションの一階全部がそのまま会社の事務所になっていて、多分、ドライバーの幾らかはこの上に安く住まわしてもらっているのだろう。
通りの反対側から様子をしばらく眺めながら、あの男が来るのを待っていたが、きりが無さそうだったので傍に居たドライバーに訊くことにした。男はやけに腹の出た四十代風の男で、煙草を咥えながらボンネットに手をついて何か考え事でもしている様子だった。
「すみません」
「はい」男は煙草を足元で消しながら言った。
「ちょっとお伺いしたいのですが、こちらで働いている方を捜しているんです。身長が160センチ位の目が細い方で、あ、あの普段赤い帽子とかそんなの被っている方で、いませんか?名前は分りません」
男は僕の顔をしげしげと眺めてから言った。
「で、どういう関係なの?」
「ええ、一度お会いしてるんです。名前は聞いてませんが、どうしても今日お会いしたいと思ってこちらに伺ったんですが」
「ふーん。それは多分、松田さんでしょう?」
「松田さん?」
「ああ、今丁度、帰社して事務所に居るから呼んできてやるよ。名前は?」
「かぶらぎと申します。名前を言って頂けたら分ると思います」
「おう、分った。ちょっと待ってな」
男はそのまま事務所の方へ歩いて行った。しばらくするとあの男が入り口から出てきてこちらに向かって歩いてきた。男は制服のままだった。薄くなった頭を撫でながら顔には若干笑みを浮かべていた。
「いや、驚きましたよ。かぶらぎさんではないですか。」彼はその場で小さく頭を下げた。「よくここが分りましたね。」
「ねえ、松田さんと仰るんですね。松田さん、僕はあなたが来てから色々気になる事があって、どうしてもお会いしたいと思って待っていたんです。封筒に会社の名前が書いてあったからもしかしたらこちらの会社の方だと思って。」
松田という男は急に真面目な顔をして僕を見上げて言った。
「わたくしも待っていたんです」
「待っていた?」僕は驚いて訊いた。
松田は頷いて「そうです。あなたはきっと来ていただけるだろうと。もっと早いと思っておりました。かぶらぎさん、もう少しで仕事が終ります。この通りを右に少し行った所に『蘭豆』という喫茶店があります。出来たらそちらでお待ち頂けますか?三十分程で伺います。」
松田はそれだけ言うと颯爽とまた事務所の方に歩いて行ってしまった。


何の特徴もない蘭豆という喫茶店でオレンジジュースを飲んでいると三十分を過ぎたあたりで松田はやって来た。赤いベレー帽とジャケットは着ていなかった。白いソックスが見える位の短いスリムのジーパンを履いてストライプのシャツを着ていた。この前と同様、服装に関してはかなりずれた所があった。彼は僕の向かいにどかっと座り、コーヒーを注文すると、曖昧に微笑みながら口を開いた。
「いや、本当に驚きました。まさか会社に直接来るとは。そう、私は松田といって、あそこでタクシーの運転手をしているんです。」
「松田さん、さっき言った、待っていました。もっと早いと思っていました。とはどういう事ですか?」
「ええ、そうです。待っておりました。きっと来て頂けると思いました。もう一度、かぶらぎさんのお宅にお伺いしようかと考えましたが、敢えてそれをしませんでした。しかるべき時間が過ぎても来られない様でしたら、もしかしたら再度伺ったかもしれません」
僕は言葉を失った。この男は一体何を言いたいんだ。これではこの前と同じではないか。
「ねえ、松田さん、僕が今日あなたに会いに来たのは、滝田さなえという女性の件です。パチンコのお金の件、僕が彼女を助けた事を知っている。そしてあなたは彼女の事を知っている。僕は何から何まで全く理解できないけど、とにかく僕は今彼女を捜している。それについて松田さんに彼女の事を聞きたいんです」
彼は肩肘をテーブルにつき頭をぽりぽりと掻きながら答えた。
「わたくしは彼女の事を知っています。彼女が今どういう状況で、どこに居るのかも。でも詳しい事は申し上げられません。それは最初に言っておきます。ただ、わたくしがあなたを待っていたのは、彼女の今いる状況を変えるのにあなたの力が必要だと言う事です。その意志があなたにあるのなら、きっとあなたはなんとかしてわたくしを捜し出して、やって来るだろうと。待っていたのです」
僕は無意識のうちに煙草をふかしていた。頭が酷く痛くなって軽い目眩すら覚えた。
「松田さん、あなたの言っている事は全く分らないんです。断片的というか、結論だけ言っても僕には意味不明です。パチンコの負け金の事をなぜ知って、なぜ僕の家が分ったんですか?それと僕が彼女を助けた事。あなたは何を知っているんですか?彼女と会って訊いたのですか?彼女は今どこに居るんですか?」
「かぶらぎさん、わたくしはその女性から聞いたのです。彼女に半年前に何が起きて、あなたとどういう関係があったかも知っています。もしかしたらあなた以上に彼女を知っているかもしれません。ただ、彼女とわたくしは心配する様な変な関係ではありません。しかしパチンコの件は全く別なんです。様々な偶然の、いや必然の複合によってなされた結果です。信じられないかもしれませんか、とにかくあなたに納得されて頂けるには様々な事をきちんと順序立ててお話しなければなりません」
彼は神妙な顔つきで僕の顔をぼやける様な目で捉えていた。
「つまり、なぜ僕をそんな試す様なややこしい事をしたのですか?まず、あの封筒です。何の変哲もない封筒の裏にあなたの会社の名前が印字されている事に気付くのに時間が掛かりました。あれは会社の封筒ですよね。でも、仮にそれに気付いてもまさかあたなたがそこに印字されている会社の人間だとは思いません。ただ、僕はあの日の夕方、僕の家の近くであなたがタクシーの運転をしているのを偶然見かけたんです。それでもしかしたらと思って封筒を見たら」
「そうですか。」彼は口元を緩めて微笑んだ。「まさか、見られていたとは。それは驚きでした。まあ、それはいいにしても、あの封筒の事はいずれ分ると思ってました。もしかしたら当日にでも電話してくるのだろうと。ただ、あの様な事をしたのは、あなたの中の彼女の存在を推し量った部分があるのです。あなたの中で既にそれがどうでも良い事であれば、わたくしは彼女の事を知っていると申したとしても、奇妙な男の奇妙な訪問で片つけてしまうでしょう。そしてあなたは何もせずにそのままだったでしょう。先ほども申しました。もしあなたの中で彼女の存在が大きなものであれば、きっとあなたはわたくしと共に彼女を救い出すことが出来ます。そしてそうする事によって、あなたが彼女にした事に対する報いになるのです。」
僕は溜息をついてしばらく目を閉じて彼の言葉を何度も反芻した。
「かぶらぎさん、心配しないで下さい。彼女は今安全です。彼女を深く傷つけた人間達との接触はありません。もしよければあなたの力を借りたいのです。わたくしにとっても彼女にとっても、頼りになるのはあなただけなのです。」
ゆっくりと目を開けると彼は唇を固く結んだまま僕の顔の中心を仔細な眼差しで見つめていた。
「松田さん、あなたの言っている事は未だよく分りません。それは当然ではないですか。あまりに奇妙過ぎる。でも、もし僕が理解出来るならあなたのその話を順序立ててちゃんと聞きたいと思います。」
「かぶらぎさん、分りました。それにはとても時間が掛かります。とても長い話です。わたくしは、あなたという人物に非常な好感と温かみを感じます。嘘ではありません。だからお話を聞いて頂ければきっとあなたは理解して頂けるだろうし、変な言い方ですが、お互いに分り合えると思います。それが大事なんです。そして、まさにそれが彼女を救う事に繋がると思います。ただ、今日はどうしてもこの後行かなければならない用事があります。明日の日曜日にお伺いしても構いませんか?その時、ゆっくりお話致します。かぶらぎさんは明日の二時頃はどうですか?」
僕は頷いて答えた。「ええ、構わないですよ。」
「分りました。では明日の二時にお伺いします」
彼はそう言って伝票を持ってレジで清算し「じゃあ、明日。またお会いしましょう」とペコリと頭を下げて店を出て行ってしまった。

                      * * * * * * *

 
 さなえがあの男達と街中で遭ってから、彼女は再び暗い渦へと急速に引き込まれていった。精神的後退といっても過言ではなかった。僕らは再び静か過ぎる生活の中でなんとか一日一日を乗り越えて行った。
僕は彼女を元気にさせようと何度か外に誘った。駅前でアイスティーを飲み、スルメと会って遊んだ。ゲームセンターに行ってゲームをしたりプリクラを一緒に撮った。それを彼女は洗面台の脇に貼って、僕を幾分困らせた。本屋で立ち読みをして、彼女はその度に漫画本を買った。近くの図書館に一緒に行って、彼女は雑誌を読み漁り、僕は本を読んだ。「会社を辞めようかと思っている」といつか漏らしたので、「それについてはよく考えた方がいい」と答えた。僕らは数回彼女の部屋を訪れ、真冬に備えた衣服やら色々と取りに帰った。彼女の大家さんが心配になって「いつちゃんと戻るのか」と訊いたので「それについてはまだ分らない」と彼女は答えた。「ならば、それまで家賃はいらないよ」と言ってくれたらしいので、彼女は「よかった」と僕に言って、僕も「本当に良かった」と言った。彼女は浮いたお金でそれから会社の帰りはなるべくタクシーを使うようになった。

日を追うごとに凍てついた北風は益々その鋭さをを増し、街中を吹き流れて全身を突き抜けていった。クリスマスの興奮と正月を迎える高揚感の大渦が都会の町を飲み込んで、色鮮やかに、騒がしく、一切の風景を飾っていた。冬がどんどん深まるに反して、彼女は次第に元気になっていった。

「ねえ、君の誕生日だけど、何か予定あるの?」と仕事から帰ってテレビを見ているときに訊いた。彼女はクロスワードに夢中だった。沢山のCMでクリスマスソングが流れ、彼女が買った週刊誌やファション雑誌の表紙には赤い服を着たタレントが写っていて、クリスマスのイベントをやるテーマパークやホテルの特集が盛んに組まれていた。
「特にはないの」と寂しげに答えた。「ねえ、サンタクロースの生れた国は?」
「サンタクロース?」
しばらく考えて「ホッキョク」と僕は答えた。
「6文字よ」と彼女は言った。「違うわ」
フィンランド」と答え直した。
「それね。ありがと」と素っ気なく言って彼女は鉛筆でコリコリとクロスワードのマスを埋めた。「出来たあ」と突然叫んだ。
「今週の答えは『フユノソナタ』だったわ。」彼女は首を傾げながら「でも、おかしいのよね、何故か『フユノナナタ」になっちゃうの」と言った。
「ねえ、ここでささやかなクリスマスパーティーしないか?」と訊いた。「僕が料理を作るよ。美味しいの」
彼女は僕の顔を覗き込んで「素敵ね。」と言った。「うん、楽しみだわ」
「食べられないものある?」
「あんまりない方だけど、しいて言うなら牛肉と豚肉よ」と答えた。
一体それのどこが、あんまりない方だけど、なんだと思った。「じゃあ、鶏肉の料理にしよう。七面鳥はちょっと無理だけど」

 

十二月二四日は金曜日だった。
夕方、会社からさなえに電話をした。外にいる様だったが「まだ仕事中なの」と言った。事務職の彼女にしては仕事で外とは珍しかったが「あと一時間位で終るから、真っ直ぐ帰るね」と言って電話を切った。
僕は仕事帰りにスーパーで鶏肉と野菜と幾つかの調味料を買った。パン屋でバケットと予約してあったブッシュ・ド・ノエルを買い、酒屋で白ワインを買った。部屋に帰り、白ワインを冷やし、料理の準備を始めるとさなえが「とてもいい匂い」と言いながら帰ってきた。「何か手伝おうか?」と訊いてきたので、大丈夫。出来たら周りを少し片つけて欲しい。それとあそこに赤と白のチェックのテーブルクロスがあるからそれをテーブルに敷いてくれるかな、と頼んだ。
僕は鶏の胸肉を塩、コショウし、強火で表面だけソテーして上に粒マスタードにマヨネーズを少し混ぜたものを塗り、その上からパン粉をふってオーブンレンジでじっくり焼いた。付け合せはニンジンと大きめに切ったホールベーコンをバターと砂糖を入れた水で煮込んだものにした。出来た鶏肉と付け合せを皿に盛り付け、切ったライムを添えた。バケットを斜に切り、ニンニクを漬け込んだオリーブオイルを塗ってトースターで軽く焼いた。
全ての準備が終えると僕らは冷えた白ワインで乾杯した。「誕生日おめでとう。メリークリスマス」と言った。
「ありがとう」と彼女は目尻を緩めて微笑んで言った。着替えた彼女は大きめの白い毛糸のセーターを着て、艶やかでふっくらとした頬は暖房の熱気でピンクに染まり、髪を上げ「失敗しちゃったの」と言っていた切り過ぎた前髪のせいでとても二四歳には見えなかった。
「ねえ、これ、とっても美味しいわ」と鶏肉のソテーをフォークで口に運んで言った。「男の人で料理が得意っていいわね」
「実は、昔、2年間位、コックをやってたんだ」と正直に言った。
「えっ? そうなの?」グラスの淵を指でなぞりながら言った。「初耳だわ」
「うん、町場のフランス料理屋だけど」
「なんで、やめたの?」
僕はグラスに映る彼女の姿をぼんやり見ていた。「なんでだろうね。料理は好きだけど、僕はその仕事に一生を捧げるという事にふとある時期になって疑問を持ちはじめたんだ。若い時はよくある事だよ」
「そう」と彼女はライムを絞りながら言った。「そうそう」と言って足元の真っ赤な紙袋からマフラーを取り出した。『FORZIERI』のカシミアのマフラーだった。「これね、今までのお礼を兼ねてクリスマスプレゼント」
「ありがとう。」僕はそれを首に巻いて微笑んだ。「凄く素敵なマフラーだ。本当に嬉しいよ」と言った。
「とおるさんは首が細くて長いから似合うわね。本当よ」
そして僕の方は『DENTS』のレザーの手袋を渡した。「これは誕生日プレゼントでもあり、クリスマスプレゼントだよ。マフラーにしようかなと思ったけど絞め殺されたらかなわないからね」
「ありがとう」と笑って言った。彼女はそれを手にはめて両方の頬にあてて「あったかあい」と言った。
「もう一つあるの」と彼女は別の紙袋から一冊の本を取り出してテーブルの上にそっと置いた。それはディケンズの『クリスマス・キャロル』だった。僕はありがとうと言った。
「ねえ、とおるさんは本が大好きでしょう?特に海外の本ばかり読んでるから、そういうのがいいと思ったの。いつも行くあの本屋さんでね、海外の作家さんでクリスマスにぴったりの本ありませんか?って訊いたらこれを持ってきてくれたの。もしかしたらもう読んだかもしれないって、少しだけ不安だったけど」
「この本はまだ読んだ事ないんだ」とカバーを見ながら言った。「ディケンズは『大いなる遺産』ていうのは昔読んだことがある。とても好きな作家でね。この本は一度読んでみたかったんだ。嬉しいよ」
「よかった。どういたしまして。私ね。実は二十歳位の時に小説でも書こうかなって思ってたの」
「小説?」
「うん、私はね、本なんて全然読んだことないの。今も全然読まないけど。学校の国語に時間に教科書で読んだり、夏休みの宿題の読書感想文の為に嫌々読んだだけ。夏目、芥川、太宰の作品なんてちゃんと読んだ事なんて一度もないもの。『走れメロス』が太宰治の作品だなんて最近知ったわ。アレ、凄い昔のヨーロッパ辺りの作品だと思ってたんだから。」
「それで内容は決まっていたの?」
「そうね、大体はね。あのね、自殺志願者が集まるサイトってあるでしょう?そこで自殺願望のある主人公の女の人が数人の同じ自殺願望のある人達と掲示板やチャットを通じて仲良くなるの。それで、今度会いましょう、って事になって、色々話しているうちに、会ってそのまま車に練炭積んで皆で自殺するっていう事に決まるの。男性が二人、十年勤めた会社をリストラされたサラリーマン。結婚せず父親の介護に疲れた四十代の男性。あと女性が二人。幼い子供を事故で亡くしたシングルマザー。それと恋人に酷い仕打ちを受けた主人公の女性。主人公が『だったら死ぬ前に最高のフランス料理を食べて、最高のワインを飲みましょう』って言ってね。それである日、主人公を含んだ四人が赤坂辺りで会って東京で一番有名なフランス料理店に入るの。物語の各章の題名が料理の名前になってって『第一章〜オードヴル フォアグラのテリーヌ、南フランス風』みたいにね。各章ごとにそれぞれの登場人物が自分の半生と自殺をしたいと思った理由を話すの。ちょっとした自伝みたいにね。『第二章 スープ』から『第三章 サラダ』『第四章 魚料理』、そして最後に『第五章 肉料理』で主人公が話すの。『第六章 デザート』から色んな話合いがされて、『第7章 デミタスカフェ』である結論が出るの。主人公とリストラされたサラリーマンが死ぬのをやめて、残りの二人が自殺を決意する。そして店を出て、そこで別れるの。エピローグ、結末ね、店を出た後四人がそれぞれどうなたったか。二人は死んで、主人公ともう一人は生きる。そういう物語を書こうとしていたの」
「面白そうだね」と言葉を選んで慎重に言った。
「うん、でもね、私は自殺とか、死って考えた事なかったの。だから四人分のエピソードを考えつく事なんか出来なかった。それと、私は男性でもないし、リストラも介護も経験がない。更に結婚もしていなし子供もいない。ただね、物語の冒頭はだいたい決まっているの」
「どういうの?」
「生き延びた、というより生き続けている主人公がね、十年後位に仕事で成功して、それで何かのきっかけであの時と同じフランス料理店に仕事上の付き合いみたいので食事に行くの。それでオードヴルを食べた瞬間に十年前の事が蘇っていきなり泣き出すの。周りはびっくりしちゃってどうしたんですか?って訊くんだけど、発作の様なものが起きて、結局、従業員の控え室みたいな所で寝かされて、目が覚めた時に天井を睨みながらあの時の事を思いだして、そして物語が始まるの。でもね、今は、あの時にあの男達にレイプされてね、ある意味では自分の考えた物語の主人公と同じになってしまったの。それでね、今は書こうとする興味も意欲もね、全く湧かなくなったの。不思議ね」
「そういうものかもしれない」と僕は言った。「人間はそれを本当に経験してしまうと言葉で表現する事も、文字に置き換える事も出来ないのかもしれない」
「そうね。多分、そうだと思う」彼女は独り言の様に言った。 


彼女は鶏肉と付け合せをぺろっと平らげ、皿に残ったマスタードソースをパンにつけて食べていた。僕らは時間を掛けてゆっくりと食事をし、ワインを飲んだ。
ちょっとした冗談を言ったり、真面目な表情で何故か政治の話もした。お互いの仕事の事や、彼女の両親の昔話もした。僕らはお互い一人っ子で、彼女は「お兄さんが欲しかったわ」と言い、僕は「結構、一人でも楽しく生きてこられた」と言った。それでも多少の違いがあるにしろ、僕らの中で共通する何か、何に笑い、何に怒り、何に共鳴するのかといったものが、そしてどんな空気の震動に落ち着き、どんな歪みに苛立つ、そういうものを僕ははっきりと感じ取れた。何よりも沈黙と静寂の中にこそ最も深い理解をお互いが認識している事であった。


「今年は色々あってあんまり良い一年じゃなかったけど、こんな素敵なクリスマスは初めてだわ。料理もワインも美味しいし、プレゼントも素敵だし。」とアルコールでほんの少し赤くなった顔で言った。
「さなえさん、僕はね、君との生活は全然嫌じゃない。むしろ楽しんでいるかもしれない。ただね、君はこれからどうするんだい?借りてる部屋もあるし、このままずーっとというのもお互いには良くないのかもしれない」
彼女は曇った表情のままテーブルに置いた自分の指先を見つめて言った。「そうね、それはよく分ってるの。」
「僕は君を追い出したいんじゃない。ただ、君がこれからどうしたいか、それを僕に言わなくてもいいけど、君の中でそれをしっかり考えているかどうかなんだ」
「分らないの」僕は彼女のグラスにワインを注いだ。「どうするべきかも、どうしたいのかも、全然分らないの」
「ならば、分るまでここに居ればいい」と僕は言った。
「うん、なるべく早く答えを出すわ。ただこれだけは分って欲しいの。とおるさんにとても迷惑を掛けている。それについて私はとても心が痛いの。そして、とても感謝しているの」
「分ったよ」と僕は少ししてから答えた。
白ワインを空け、皿の上はきれいになくなり、僕はそれを流しに片つけてケーキと彼女が買っておいたアイスティーを出した。
「お腹いっぱい。ごちそうさまでした。」と彼女は頭を下げて言った。そして彼女は食器を洗い、僕はテーブルクロスをベランダでぱんぱんとはたいた。夜空は鮮やかに澄み切っていた。向かいの家のガラスを通してぼやけたクリスマスツリーの電飾が点滅しているのが見えた。クリスマスにしては町は恐ろしく物静かだった。まるで日本中の人間が家の中で息を潜めてじっとサンタクロースを待ち望んでいるみたいだった。


残ったケーキを皿に盛り、アイスティーを持って奥の部屋に移る事にした。
僕らはベッドに寄りかかりテレビを観たがどれもとてもつまらなかった。サンタの格好をした女性タレントを男の芸人が野球拳で服を脱がしていくというくだらなさだし、完結ドラマでは、結婚を控えた女の部屋に数日前に忘れられない昔の男からクリスマスプレゼントが届き、そこにはイブの日のホテルの部屋の鍵が入っていて、二人の男の間に揺れ動きながら最後には昔の男の元に戻っていく。ラストでは、ホテルのロビーで二人はキスをしてそこでワムの「ラスト・クリスマス」が流れて終る。最悪だった。さなえは「俳優が駄目ね」と言いながらもわりに面白そうに見ていた。「でもね、結婚を約束していた男にとっては一生忘れられない最悪のクリスマスね。こういうクリスマスとかバレンタインとかっていう日はね、多分だけど、世の中では哀しい涙を流す人の方が圧倒的に多いのよ。」
テレビを消して音楽をかけた。スティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』だった。「ラブズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」を「素敵な曲」と言って聴き入っていた。とても不思議だった。たった一ヶ月前に知り合い、転がり込んできた女性とクリスマスにスティーヴィー・ワンダーを聴くことになるとは。スティーヴィー・ワンダーはいささかクリスマスには合わなかった。やっぱり春か秋なのだろう。
「親愛なるデューク」と「イズント・シー・ラブリー」では「この曲は知ってる。大好きよ」と言って二人で歌った。彼女は鼻歌で僕は適当な英語だった。その後、僕はCDを変えて、チェット・ベイカーの『シングス』をかけた。「ゼア・ウィル・ネバー・ビー・アナザー・ユー」の所で僕はボサノヴァの神様ジョアン・ジルベルトが後に奥さんになるアストラッド・ジルベルトを口説いたセリフを思い出した。
『君とチェット・ベイカーと僕の三人で、『ゼア・ウィル・ネバー・ビー・アナザー・ユー』を永遠に歌い続ける想像上のヴォーカル・トリオを結成しよう』


「今、考えるとね」彼女は曲げた膝の上に顔を乗せて言った。「何故、私はあの男と付き合って自分の部屋に住まわしてしまったんだろうかってね。とっても分らないの。それでもってあの男がまともじゃない人間だとは多少なりとも気付いていたんだからね。ナンパされて付き合って。私なりにも責任があると思うの。ねえ、正直に言って欲しいの。」
僕は煙草に火をつけ、窓を開けながら答えた。「君には責任はない」
「でも軽い女、そういう女だと思っている?」
「さなえさん、人間は必ず誰かを愛するんだ。それについて他人は、誰かが誰かを愛した事については何もいうべきじゃないんだ。だから、当時の君の事も今の君も、僕は何もいう事は出来ない。君の恋愛はどこまでも君のものなんだ。それを総括出来るのは誰でもない。君だけなんだ」
「私の恋愛?」と僕の煙の行方を追いながら訊いた。
「うん、その男がどんな人間でも君はその時、その男に恋をした。それは君の恋愛なんだ。君を軽い女だとは全く思わない。むしろ恋の最も恐ろしくて素晴らしい所は自分を全く違う人間に変えてしまうという事。恋は自我を超える」
「自我?」と目を少し細めながら言った。
「君が愛した人間の事を僕は何も言えない。ましてや君の事もね」煙草を消して窓を閉めた。
「今は言えるわ」
「言える?」
「そう」と言って僕の顔を覗き込んだ。「今、私の愛している人間はあの男じゃない。分るでしょう?」
その言葉の意味を理解する前に彼女は僕の頬にキスをした。唇はアイスティーでしっとりと湿っていて、アルコールの香りが仄かに漂った。
「とおるさんはとおるさんの事について言えるでしょう?自分の事なんだから」
音楽が鳴り止み、世界が眠ってしまったかの様な静けさだった。彼女の目は澄み渡っていてまつげが微かに動いていた。きっと彼女の中では泣いているのだろうと思った。あの出来事が今再び彼女の中で再現されているんだと僕ははっきりと感じた。しかし彼女は泣かなかった。
僕はそっと彼女に口づけをした。滑らかで柔らかい唇だった。人の暖かさの中に冷たい孤独感が入り混じっていた。それは僕をどこか遠くへ運び去ろうとしている感触だった。それでも構わないんだと、僕は思った。
「僕は君がとても好きなんだと思う。」と言って僕は彼女の短い前髪を触った。彼女は恥ずかしそうに俯いて額を隠す様に手をあてた。彼女のほっそりとした指先が僕の指先に触れ、彼女はその手を掴んで自分の頬にぺたりとつけた。手の平の中で彼女の頬は呼吸のせいで小さく収縮していた。
「自我を超えた?」と微笑んで彼女は訊いた。微かに耳に届くほどの小さな声だった。
「分らない」と僕は答えて彼女の肩を抱いた。毛糸のセーターのチクチクとした感触が手に優しく沈んでいった。「超えたかもしれない。僕は最初、君に同情してこの部屋に住んでもいいと言った。君が元気を取り戻して歩き始めるまで見守るつもりだった。そして出て行った後に、本当によかった。よかった。と思うんだ。それで構わないと思った」
「うん、とおるさんを信じていたし、そういう人だと思った。とても安心出来たし、私はとても救われたのよ」
もう一度口づけをした。舌を少し入れると暖かい彼女の舌先に触れた。僕の中の一部が初めて彼女と繋がった気がした。これまでの彼女はいつも遠い世界の淵をうろうろと彷徨っていて、一切の彼女の姿が僕との間に仄かに曇った空気のかたまりの様なものを作りだしていた。舌先が彼女の濡れた前歯を這い、それを追いかけて僕の舌に絡みついた。ざらざらとした舌の感触が唾液に掻き消され、次第に熱を帯びて二人の舌は小さな昆虫の交尾の様に僕らの口の中で激しくうごめいていた。僕の舌が彼女の歯茎に沿って這うと彼女の舌が僕の唾液を吸い取っていた。
今度は彼女は泣いていた。目を開けるまでもなく僕は分った。僕は舌を絡ませながら彼女の頬の涙を指ですくい、彼女の顔の輪郭をしっかりと確かめようとしていた。彼女は僕の肩を両手で引き寄せ、首筋を力強く掴んだ。僕は手の平で彼女の首筋を撫で、その息遣いを感じた。
目を開けると彼女は薄っすらと充血した目を擦り、鼻をすすりながら「いつからか分らない。私も自我を超えたわ。」と微笑んで言った。「好きなの」
僕は彼女の肩を抱き、ベッドに優しく倒した。セーター越しに彼女の胸は呼吸のせいでゆっくりと隆起して、そして沈んだ。彼女の目は僕の顔を中心をしっかりと見つめていた。それはスライドショーの様に一瞬、一瞬のうちに様々な表情を見せた。不安、孤独、憂い、そして恐怖。
「死後硬直ベッド」とクスクス笑って彼女は言った。僕はもう一度、キスをした。とても激しく情熱的で、熱く湿った唾液が二人の口に目一杯に溢れていた。首筋にそっと口をあてると彼女は一瞬身をよじり、小さく息を吐いた。彼女の細い髪を撫でながら胸をセーターの上から手の平で包みこんで、そのまま彼女の細い足に指先を這わした。小さな声が漏れる中で彼女は僕の腕をしっかり掴んでいた。
僕の指先が赤いスカートの中に忍び込ませた瞬間に彼女は僕の腕をぎゅっと掴んだ。見上げたその目にはどこか遠くを見ているみたいだった。僕を通り過ぎて天井を見上げている様だった。
「ごめんなさい」と言った。僕は黙っていた。「ねえ、お願い。私ね、怖いの。まだそういう準備が出来てないの」
その表情と声はあの公園のトイレの時に見たものと全く一緒だった。彼女の言いたい事は僕にもすぐに理解できた。
「ごめんなさい」その時、彼女の手がパジャマ越しに僕の勃起したペニスを優しく包んだ。僕は反射的に腰を浮かせて彼女を見下ろしていた。人間はもっとまばたきをするのではないかという位に僕の顔を見上げていた。指先がペニスの輪郭を確かめる様に這い、優しく、時にはぎゅっと掴んだ。五本の指が独立した生き物の様にペニスのあらゆる部分に絡みついていた。今度は指はパジャマの隙間から入り込んでペニスをに直接触れた。つめ先でそっと触り、陰毛を撫で、睾丸を掴んだ。
彼女は僕の表情を唇を噛んだまま無言で観察していた。硬くなったペニスを握り、ゆっくりと動かした。僕は声を失っていた。頭の中に綿菓子みたいなものがふわふわと満ちていく感じだった。僕は恥ずかしくなってキスをすると、彼女の舌は僕の歯を一本一本確認する様に動いてそれは歯の裏側までにも到達していた。彼女は唾液を僕の口に押しやり、それを僕はまた戻して何度も繰り返した。動物的な湿った音が響いた。同時に彼女の手がスピードを増し、僕は射精しそうになったので思わず彼女の手を掴んだ。
「ねえ」唾液で光った唇で彼女は言った。「横になって」
僕が仰向けになると僕の顔をじっくりと見下ろしながら僕のパジャマとパンツを剥ぎ取り、するっとベッドの外へ落とした。
彼女は僕の頬に舌を這わせ鼻筋に沿って縫い、口に一瞬キスをするとそのまま首筋に降りていった。彼女の手は僕の下腹をくすぐり、陰毛の辺りを滑り落ち、そしてもう一度固くなったペニスを掴んだ。その間、彼女は僕の顔とペニスに交互に視線を移した。手はゆっくりとスピードを増して力強く、時折、緩めながら、その鼓動を自分の手にしっかりと感じ取っている様だった。
「ねえ、いいのよ」と優しく言った。そしてペニスをうっ血した血管が破裂してしまう位の力で握りしめ、千切れてしまう位の激しいスピードで動かした。彼女は僕の顔を見下ろしながらしっかりと見届けようとした。僕は遠のいていく意識の中で登りつめて、そして射精した。彼女の手がゆっくりと止まり、微笑んで言った。「わあ」
ティッシュを取り「拭いて上げる」と言った。丁寧に飛び散った大量の精子を拭き取りながら、もう一度、手で優しく包んで触りだした。すぐにペニスは勃起した。その様子を見下ろして目を丸くして驚いていた。僕は何か言おうとしたが急に彼女はペニスを口に含んだ。唾液と熱い舌がペニスを覆い、口をすぼめて思い切り吸い込んだ。舌がペニスの先を突き、円を描くようにまとわりつき、手の平で睾丸を愛撫した。彼女の頭が小刻みに震えだし、髪の毛がゆらゆらと揺れた。唾液で満ちた彼女の口のあらゆる肉壁にペニスが激しくぶつかって鈍い音が断続的に聞こえた。僕はもう一度登りつめると彼女の肩を掴んだ。そして、彼女が口をペニスから離した瞬間に僕は二度目の射精をした。


ベッドにもたれながら並んでアイスティーを飲んでいた。
彼女は僕の股間をパジャマの上からポンポンと手の平で叩いて「ねえ、もう大人しくなったわね」と言って「もう少し待っててね。お願いね」と股間に声を掛けた。
僕が裏声で「わかったよ」と言うと、彼女はクスクスと笑って僕の肩に頭を乗せた。
「ねえ、まだ色んな気持ちが複雑に絡みあってて」と真面目な顔で言った。「もう少し待って欲しいの。気持ちの整理がつくまでは。お願い。それとね、それまでに他に好きな人が出来てHしたい時は言ってね。」
「なんで?」と訊いた。
「分らないけど、ここまでしてもらったのにわがまま言って、これ以上とおるさんを束縛する事なんか出来ない。」
もう一度、チェット・ベイカーの『シングス』をかけた。チェット・ベイカーの甘くてけだるい声が重くたちこめていた。「僕は他に好きな人は出来ないと思うし、Hする事もないと思う。半年、一年待たされるのはきついな」と答えた。「でも約束するよ。待つから。」
彼女は唇をきっと固く結んで鼻腔は呼吸のせいで小さく膨らんでいた。「本当?」と唾を飲んで言った。「でもね、そんな掛からないわ、多分。正月に実家に帰ってゆっくり考える。昔遊んだ場所に行ったり、友達と会ったりしたら自分の気持ちも落ち着くと思うし、少しは楽になると思う。」
「それがいいよ。」と言った。「約束する」
そして彼女はそっと僕の頬にキスをして「約束ね」と囁いた。鳥が小枝にとまる様に小指を彼女の小指にそっとおいた。
僕らは死後硬直ベッドの上で彼女の髪を撫でながら一緒に寝た。「本当に硬いわ。こんな所でしたら背骨が折れちゃうかもしれない」と呟いた。
気付くと彼女は寝ていた。小さな寝息が聞こえた。僕は『クリスマス・キャロル』を読み始めたものの最初の数ページを読んだ所で深い眠りに落ちた。

 
週末、僕らはいつもの様に駅前の喫茶店に行ってアイスティーを飲み、図書館に行って本を読み、スルメに会いに行った。「スルメちゃん、また来年ね」とその場を立ち去る時に彼女は言った。「良いお年を」スルメは首を傾げてガラスを必死でペロペロと舐めていた。
カラオケは?映画は?と訊いた。「好きくないの」と答えた。「好きくないの」と僕は繰り返した。僕のポケットに彼女が手を滑り込ませて「あったかあい」と微笑んだ。僕らは町をひたすら歩いた。気の向いた所で気の向いた方角に曲がった。洋品店に行って僕は靴下を買い、彼女は和菓子屋で「実家に帰った時のお土産にする」と言って饅頭を買った。本屋に入って彼女は漫画の次の巻を買った。僕は何も買わず、スティーブン・キングの小説の一部をさらっと読んで時間を潰した。ケーキ屋の前ではサンタの格好をした若い女の子の店員が残ったケーキを売るために声を張り上げていた。継目なく雲に覆われた寒空の下を僕らは白い吐息を吐きながら、何かに引きつけられる様にして彷徨っていた。一つの年がもうすぐ終ろうとしていた。

その日の夜から彼女が実家に帰るまでペニスは彼女の手と口で何度も射精した。
「これも死後硬直ね」と勃起したペニスを仔細に見つめながら言った。「死んでいない」と僕は言い返した。「そうね。生気に満ち溢れている。まさに生きてるって感じよ。」


「年末年始はどうするの?」ベッドの中でごそごそと彼女は訊いてきた。
「特に用はない。お雑煮を作って食べて、友達と少し飲んだり遊ぶ位かな。あとは一人でつまらないテレビを観て、素晴らしい音楽を聴く。あとは君の事を思い出す」
彼女は僕の股間の辺りを服の上から撫でて言った。「で、どうするの?一人でするの?」
「分らない。」と答えた。「するかもしれないし、しないかもしれない。」
「ふうん」と言って。僕の股間に声を掛けた。「来年までお別れね。良いお年を」

地平の舟  (④)

次の日、松田は二時ちょうどにやって来た。最初に来た時と同様に赤いベレー帽と赤いジャケットを着ていた。
「こんにちは。お邪魔します」彼は玄関で丁寧に頭を下げた。
「ねえ、松田さん、一つ訊きたいんだけど、どうしてそんな格好しているんですか?目立ちません?」僕は氷を入れた二つのグラスにオレンジジュースを注ぎながら訊いた。
彼は帽子をテーブルに置き、ジャケットを椅子に掛けながら答えた。
「ええ、確かに変な格好ですよね。わたくしは洋服のセンスがないのは分っているんですが、赤って好きな色なんです。帽子は当然ハゲ隠しです。ほら」
そう言って彼は頭下げててっぺんの方を僕の方に見せながら言った。つむじを中心に十センチ程はっきりと地肌が見えていた。
「わたくしは三五歳ですが、二十代の後半からこうなりまして。いやあ、この歳でこうなると色々と辛いものでよ」彼は僕の頭を見て言った。「かぶらぎさんは大丈夫ですね。髪は細そうですけど、量が有りそうですから」
僕は思わずごそごそと自分の髪の毛に手を当ててみた。彼は笑いながら言った。
「わたくしの場合は多分ストレスとかそんなのが原因です。父も祖父も髪は黒々していましたから」
僕は話題を変えた。「ねえ、松田さん。僕は昨日から色々考えたんだけど、訊きたいことが沢山あってね。殆ど眠れなかったんだ。それでね」
彼はオレンジジュースを一口飲んで、珍しくきっぱりした声で言った。
「かぶらぎさん、わたくしはあまり頭の良い方ではありません。だから、最初や途中に色々訊かれると混乱して訳が分らなくなってしまいます。だから、出来たらとりあえず最後まで聞いて欲しいのです。長くなりますが時間は大丈夫ですか?」
「はい。特に用事もないし、構いません。」
彼は座り直してテーブルの上でしっかり腕を組んで、息をゆっくり吸ってから話し始めた。彼の言葉と時計の音しか聞こえない静か過ぎる日曜の午後だった。


 「わたくしは静岡のある港町で生れました。家を出ると目の前は入り江になっていて、そこは小さな漁港になっていました。数え切れない漁船がボッボッボッとエンジン音を響かせて出港していく姿と、漁師達の威勢のよい掛け声や笑い声や怒鳴り声を高校を卒業するまで毎日聞いて育ちました。しかし、父は漁師ではありませんでした。町役場の職員だったのです。つまり公務員です。わたくしの通っていた地元の学校のクラスメイトは殆どが漁師の子供達でした。体の端々まで海の匂いと潮風が染み込んでいる様な子供達でした。だからという訳ではありませんが、わたくしはどうしても彼らと仲良くなることが出来なかったのです。むしろ漁師の子供達でないわたくしに対しては、彼らはどこか異質な目で見ていました。仲間外れという言い方のが正しいのかもしれません。それに輪をかけてわたくしの方もどこか漁師という職業に対し、そしていつも泥まみれと薄汚れた服を着ている彼らとその子供達を潜在的に軽蔑していたのかもしれません。父はしがない町役場の職員でしたが生活は安定していましたし、気候や季節などの自然の摂理で収入が左右される漁師達の家よりも幾分豊かな生活をしていました。わたくしは友達という様な友達は高校まであまり出来ませんでした。わたくし自身が孤独を愛する性格だったし、小さい頃は海でなく裏の山でどんぐりなどの木の実を一人で採って遊んだり、高校になるとずーっと一人で本を読んでいました。休み時間も、学校が終ってからも一人で部屋にこもって何時間でも本を読んでました。正直、海が嫌いでした。家の前に広がる広大な太平洋も、潮の香りを運ぶ海風もわたくしは嫌いでした。その証拠にこの歳まで泳げないんです。
わたくしが暗くて泳げない事で何度もいじめに合いました。あと、背の小さいこと、どもり癖がある事、顔が不細工な事、色んな言葉で罵倒され、時には海に数人に担ぎ上げられて放り込まれた事もあります。だから、わたくしは高校までの間に何度か父に、引っ越して都会かどこかの山合いの町に行きたいと言いました。しかし父と母はその町がわりに気に入ってたし、物価も安い、食べ物も美味しい、家は公務員の宿舎なので経済的にも、住み心地も良いから、とわたくしの願いを聞き入れてくれませんでした。
わたくしに兄弟はいません。だからわたくしはいつも一人でした。確かにある程度遊べる友達はいましたが、それでも彼らは高校を出て漁師になることを決めていたし、わたくしはこの町を出て東京に行って就職すると決めていましたので、彼らとの間に生き方というか、根本的に違う大きな溝や壁みたいなのがあったのは確かです。心から付き合える友達なんかいなかったのです。これでも一応恋もしたんです。高校の時は非常に高校生らしい淡い恋の思い出もあります。それでも今述べた友人の様に、彼女もまた卒業すると町の中にある水産物の加工工場なんかに就職するのが関の山でした。彼女らはそこで町の漁師の男と結婚して、そしてその町を守り続けていくのです。
わたくしは孤独でしたし、正直、意志の弱い人間でした。恥ずかしがりやで口べたでした。人に話しかけられてもどう答えていいいか分らないんです。いつも相手の首筋辺りを見つめながら話ている様な人間でした。だから、わたくしがその町の人間をどこか軽蔑するのと同時に、彼らからもどこか軽蔑と屈辱の目を向けらていました。具体的に哀しい出来事も沢山ありました。拒絶され、裏切られ、欺かれ、今それを具体的に述べるときりがないのでやめたいと思いますが、とにかく当時のわたくしの考えていたのは、早く高校を卒業してこの町を出たい、ただそれだけでした。実際に東京へ出て行く時に駅まで見送りに来たのは、母と父だけでした。

東京に出て普通の会社に入りました。小さな化粧品メーカーで二九歳までの十一年間、営業をしていました。東京の生活にも慣れ、会社で友人らしい友達も結構出来ました。新宿や六本木で遊んだり、最新のファッション雑誌を見ておしゃれに気を使う様にもなりました。今思えば都会の二十代の若者そのものでした。そうしているうちに高校までのあの漁港の町の姿、潮の匂い、漁師達の声はわたくしの中で遠い世界の記憶になっていました。一応、正月位は実家に帰りましたが、わたくしには会う友達は誰もいなかったのです。二五歳の時に帰った時は、高校の時の恋人は既に結婚して子供がいました。正月のある日の事です。朝起きて家の玄関に出ると、目の前をその恋人とその子供達が横切ったのです。そして一緒にいた旦那さんはわたくしの数少ない友達の一人でした。わたくしは咄嗟に家に逃げ隠れました。あの時に気持ちは今でもよく分りません。ただ、その時思ったのです。懐かしさはありましたが二度とこの町には戻らないと心に誓ったのです。
わたくしには東京に出てから恋人というような女性とのお付き合いはありませんでした。これはわたくし自身の性格に問題があったのでしょう。口下手で恥ずかしがりやで、好きになった女性に声をかけることもデートに誘うことも出来ませんでした。更に背は低く、顔も悪い。わたくしはあの漁港の町での孤独の十八年間で、あまりに一人で生きてきたのです。そしてそれに慣れすぎたのです。だから、もっと積極的に自分を変えようとして努力しました。ここはあの漁港の町ではないし、東京なんだ、僕は生まれ変わる為にこの町に来たんじゃないかと。でもそれは出来ませんでした。かぶらぎさん、人間というのは十八歳という年齢まで生きてしまうと、そこで何かが出来上がってしまうんです。自分の中で、大半の何かががっちりと固まってしまうんです。その時初めて思いました。僕はあの漁港の町でもう少し違った生きかたをすべきだったのでは、生きかたによっては別な人間になれたのではないか。しかし、それはもう手遅れでした。
わたくしが二八歳の時です。春に母が心臓発作で死にました。更にその歳の暮れに父が脳梗塞で死にました。葬式やら事務的なことで何度も静岡に帰りました。二人の葬式には町の人達も役場の人間も沢山来て頂きましたが、わたくしの友人は誰一人とも来ませんでした。その時はもうなんとも思いませんでした。そして墓を東京に買い、本当の意味でわたくしはあの町の呪縛みたいなものからやっと逃れることが出来たのです。それでも一年のうちに両親が相次いで死に、天涯孤独になった事はわたくしをとことん打ちのめしました。仕事も手がつかず、飲みにも行かず、仕事から帰ると一人酒を飲みながら本を読んで過ごしました。ある時、わたくしは東京にいながら、あの漁港の町での自分と何も変わっていないことに気付いたんです。
そして、そんな時に災いは重なるものです。仕事で幾つかの失敗を重ね、時同じくして会社の経営は火の車でした。人員削減と経費削減が叫ばれ、わたくしは職場での信頼を失い、居る場所すらありませんでした。肩をポンと叩かれる様な感じでわたくしは二九歳で十一年勤めた会社を辞めました。あの時代に出来た友人も今ではもう会っておりません。
東京に来て十一年、わたくしに残ったものは何もありませんでした。故郷を捨て、親を失い、友達は去り、恋人すらいませんでした。わたくしには帰る場所も戻る場所もなかったのです。唯一あるとすればそれはこの広い東京だけだったのです。ここで生き延びていくことがただ残された道だったのです。
わたくしはもう一度生まれ変わろうとしました。父が死ぬとき最後に言いました。『東京でしっかりやるんだ。そして、もう少し明るく生きるんだ。誰かに愛されるのを待つのでなく、誰かを愛せ。いつか孫を墓に連れてきてくれよ。待ってるからな』わたくしはその言葉の一字一句を今でも覚えております。
仕事を辞めてから数ヶ月後、わたくしが居た会社の取引先の知り合いと街でばったり会いました。その男の歳の離れたお兄さんがコンビニエンスストアの弁当などを製造している工場で部長をしておりました。わたくしが仕事を探していると言うと、その彼はお兄さんに相談してくれました。色々とありましたが結局そこに就職が決まりました。これはとてもラッキーでした。もう既にバブルが崩壊していたのに、営業の仕事しかしたことのないわたくしにとっては全くの未経験でしたが給料は悪くありません。その時初めて人の暖かさに触れることが出来ました。紹介してくれたその男とは仕事上の付き合いだけでしたが、結構気が合ってたまに飲みにいく仲でした。そしてわたくしが会社を辞めるきっかけになった幾つかのミスも、本当はわたくしのみのミスではなく、結局それをわたくしが責任を取ったという形で身を引いたというのは彼の耳にも入っていましたから、それらを含めてわたくしに同情してくれたのでしょう。そしてわたくしは新しい会社に入りました。

 
『デイリーフレッシュ』という名の会社は大手コンビニエンスストア『フラワーマート』の弁当を委託で製造している会社でした。会社は足立区にあり、山手線の上半分と埼玉南部にあるフラワーマートの全店舗の商品を製造していました。
会社にある製造室は学校の体育館の四分の一程で天井は体育館と同じ位あります。十数メートルの、ラインといってベルトコンベヤーですね、それが四本あって、ラインの左右に人が並んで各自の担当のおかずを入れていくんです。ご飯を入れる人がいて、から揚げなどを入れる人がいて、そして最後にラッピングされて出てくるのです。
工場は二十四時間フル稼働です。一日を三つに区切り、三回製造して店舗に配送するのです。わたくしの仕事はそれらのライン製造が円滑に流れるかをチェックし、指導する事です。簡単に言えば現場監督みたいなものです。人員がいなくなるとわたくし自身がラインに入っておかずを入れることもあります。主婦や中国人や日系人が百人近くいて、それらの人員をどう各ラインに配分するかが大変です。製造は時間が勝負です。おかずが途中でなくなったり、機械の故障もあります。ラインが止まればそこの人員は遊んでしまいます。そのあたりを工夫して百人近い人間を上手く動かして定刻までに注文分の弁当を全て作らなければなりません。
しかし、最初わたくしは戸惑いました。十一年もの間営業をやって、やった分だけ動いた分だけ評価される、そういう仕事をしておりました。しかし、その職場は違うのです。時間との勝負はありましたが、どこよりも美味しいもの、美しいものを作ってもいけないのです。例えば、足立区と品川区にあるフラワーマートで同じ幕の内弁当を買ったとして、それぞれ製造している会社は違うんです。けれどどっちかが美味しかったり、見た目が違ったりしてはいけないのです。あくまで指示されたものよりも上でも下でもないものを作らなければなりませんでした。平均点を越すことも出来ないのです。ベストな仕事とは平均点であり続けることなのです。それがわたくしにとってカルチャーショックでした。そしてその仕事をこのまま続けていくことへの不安に苛まれました。しかしわたくしには当時、何をしたいのか、何をすべきなのか分りませんでしたし、そこを飛び出して新しい職を探す勇気もありませんでした。自問自答しながらも時は確実に過ぎていきました。いつしか諦めというか、覚悟みたいのが生れて、眠る様に働きました。一年が過ぎ、わたくしは三十歳になっていました。


わたくしはその頃から事務員の藤村優子という女性が気になってました。彼女はわたくしよりも二つ若く二八歳でしたが会社では先輩でした。仕事が終って製造報告書を事務所に提出しに行くとその女性はペコリと頭を下げ、『ごくろうさまでした。お疲れ様でした』と必ず言ってくれました。そのしぐさがとても愛らしく、わたくしはその瞬間の為に仕事をしているのではと錯覚する程でした。次第にその挨拶からちょっとした世間話が始まり、天候の事とか、昨日のテレビの事とか、流行の音楽の事とか、一分から二分、気付くと十分程会話する仲になっていました。わたくしが彼女を好きになっているのを自覚するのに大して時間は掛かりませんでした。
何よりも身長が160センチしかなく、頭も既に薄くなリ始めていたわたくしに対しても全くそれを気にするそぶりも見せず、わたくしの言葉の一つ一つを頭の中で紙にメモしている様なそんな風にして聞いてくれているのです。わたくしの目をしっかり見つめ、その奥から何かを探りだそうとしている様な、最初はその視線に落ち着きませんでしたが、わたくしは彼女の視線に引きつけられる様にして心の中の壁の裏側にあるものを一つ一つ静かに晒け出すことが出来る様になっていたのです。
わたくしは、彼女との会話の瞬間はとても幸せでした。高校の時の恋人との初デートで夕暮れの砂浜を散歩している時にわたくし達を包んだふわふわしたまばゆい初夏の潮風を思い出しました。藤村さんは伏し目がちなわたくしに声にならない声で『大丈夫よ。しっかりと私を見て。何も恥ずかしいことはないのよ』そんな風に言っている様でした。
ある日の事です。わたくしが休憩室の机で本を読んでいる時に彼女が入って来ました。
わたくしはその時、カポーティーの『ティファニーで朝食を』を読んでいました。彼女はわたくしの机の傍に立ったまま訊いてきました。
『お疲れ様です。あの、その本はあの映画の『ティファニーで朝食を』なの?』
わたくしは黙って頷き、彼女を見上げました。彼女の顔の全ての部分が曲線になっているかの様な笑顔をみせて言いました。
『私は映画しか観たことがないの。どっちが面白いかしら?』
『僕は映画を観たことがないんです。これも今読み始めたばかりで』
彼女は、あらまあ、という驚いた表情でわたくしを見下ろして言いました。
『あんな有名な映画なのに。とても面白い映画よ。ねえ、もし良かったら読み終わったらその本貸して頂けるかしら?本のほうも読んでみたいし』
その時既に彼女はわたくしの前に座ってました。そしてわたくしが殆ど映画を観ないこと。彼女は殆ど本を読まないこと。いつしか彼女は幾つかの映画のタイトルを言って、それを観てみるといいわ、と言い、わたくしも幾つかの小説のタイトルを言って、お互いそれぞれについて随分長い間話をしていました。
それからしばらくして新宿にある小さな映画館でリバイバルで『ティファニーで朝食を』が短い期間上映されることを知ったのです。正直、わたくしは藤村さんをデートに誘うならその映画しかないと確信しました。しかし、恋というものからあまりにも長い間離れていたので、わたくし自身が高校生の時の自分に戻っているのです。あの時の感覚をもう一度手繰り寄せて、僕はどうするべきなんだろうか、どうすれば上手くいくのかと毎日の様に考えてました。


映画の上映について数日後の休憩室で話をしている時に、わたくしは勇気を出して言ってみました。緊張してねばねばした汗が首筋と胸元を伝って落ちていくのが分りました。
『藤村さん、僕は、僕は出来たらその映画を藤村さんと観てみたいんです。もし良かったら一緒に行って頂けると。どうですか?』
静かな沈黙でした。どこかで空調の入る音が微かに聞こえました。そしてしばらくして彼女はなんの躊躇いもなく、はっきりとした口調で微笑みながら答えたんです。
『はい。いいですよ。あの映画は何度観ても飽きないし。』
そしてわたくしは読み終わった『ティファニーで朝食を』を彼女に手渡しました。なんとも言えない嬉しさでした。草原に降り積もった雪を掘り起こして新緑の新芽が顔を覗かせる様な、穏やかで暖かい風が凍てついた自然を僅かづつ溶かし始めている、そんな気分でした。前の仕事のこと、両親の死、全てを忘れるくらいの巨大な喜びでした。
数日後の非番の日、わたくし達は初めてデートをしました。わたくしにとっては十数年ぶりのデートでした。映画を観て、食事をとり、新宿の中央公園に行きました。わたくしはその間、小さい頃から読んだ本の中で面白いものの話をし、彼女は同じように映画の話を熱心にしていました。お互いにそれぞれの読みたい本と観たい映画のリストが既に出来上がっていました。わたくしは、彼女に次のデートでそれらの本を持ってくる約束をし、彼女が勧めた映画の感想を言うことになったのです。
冬の入り口なのに陽だまりが暖かい日でした。わたくし達は公園でお腹がすいたので近くの『フラワーマート』で買ったおにぎりを食べました。その店の分はわたくし達の会社が製造した商品ではないと思ってました。しかし、彼女は笑いながら言いました。
『ねえ、これウチで作ったものよ。うん?ねえ、なんかしょっぱいわよ』
そうです。そこのお店の商品はエリア的にぎりぎりウチの会社で作ったおにぎりでした。彼女は一口食べたそのおにぎりをわたくしに差し出しました。
『うん、ちょっと、しょっぱいね』
彼女はクスクス笑いながら言いました。
『ねえ、ちゃんと味見なきゃいけないじゃないの』
わたくしもつられて笑いました。なぜか笑いました。おかしいだけじゃありません。わたくしはなんとか着地出来る居場所をその時初めて見つけた様な気がしました。決して幸福に満ちた三十年ではありませんでした。それでも、どんなことがあろうとも等しく誰にも幸福は訪れるものだと、世間や人生に対して失望と怨嫉さえ抱いていたそんな自分に対しておかしかったのです。
しばらくして、気付くとわたくし達は恋人といわれる仲になっていました。彼女の部屋で映画を観て、わたくしの部屋で彼女の料理を食べたりしました。そして、わたくし達は一年後結婚したのです。彼女も一人っ子で実家は茨城にありました。彼女両親の具合が悪いこと、そして金銭的なことも含めてわたくし達は結婚式をあげませんでした。
婚姻届けを出した後、そのままわたくしの父と母に結婚の報告の為に二人で墓参りに行きました。春にしてはとても寒い日でした。山を切り開いて作った霊園にはわたくし達だけで、鳥の鳴き声と木々を揺らす風の音しか聞こえませんでした。わたくしは目の前の墓をじっと見つめていました。振り返ると彼女は数メートル先に立ってわたくしを見ていました。その時に感じたんです。静岡のあの漁港での十八年間、東京でのささやかな生活、それまでの人生の全てを初めて何の恐れもなく受け止めることが出来たんです。わたくしにとってはここに至る為に必要な時間だったのだと。涙が溢れました。声を殺して肩を震わせて泣きました。何も恥ずかしいものはありませんでした。自分の震えた声以外の音が何も聞こえない位でした。気付くと彼女が傍に座ってわたくしの肩にそっと手をかけていました。本当に長い時間です。山の輪郭に沿って空が赤みを帯びるまで、言葉交わすことなく、置き去りにされた二つの置物の様にわたくし達は並んで座っていました。

 それから、わたくし達は会社の近くで暮らし始めました。本当に愛し合っていました。とても幸せでした。
一緒に起きて向かい合いながらコーヒーを飲み、一緒に出社して、昼休みは一緒に彼女の作ったお弁当を食べました。夜勤の時は彼女はよくわたくしの本棚の本を一人読んでました。明けてわたくしが非番の時、彼女が会社に行っている間、わたくしは映画を見て彼女の帰りを待ちました。休日は近所の公園を一緒に散歩しました。お互いあまり友人がいませんでしたので二人はとても狭い世界に生きていましたが、それでもその世界に満足していました。ささやかで両手を伸ばせば足りてしまう様な世界でした。でも、お互い何も望みませんでした。十分でした。まるで雲の隙間から漏れる陽光が照らす小さな陽だまりだったのです。

わたくし達は何度も交わりました。終ってベットの中で毎回お互い自分の人生を話ました。どんな家庭で、どんな友達がいて、哀しかったこと、嬉しかったこと。わたくしはあの漁港の町の話をしました。孤独だったんだ。海が嫌いだったんだ。いつも自分に負けてきたんだ。何をどうすれば良いか、何をすべきなのか分っているのに出来なかったんだ。弱かったんだ。逃げていたんだって。彼女はわたくしの髪に指先をからめて言いました。
『みんな、同じよ。みんな弱いわ。でもね、私は思うの。まず初めに思ったことをするのよ。すべきなのよ。そうすれば決して後悔しないわ』
『初めに思ったこと?』わたくしは訊きました。
『うん。まず初めに思ったことはたいがい間違いないわ。でもその後思うの。いや、こうするべきなのだろうか。やっぱり出来ないかもしれない。色んな言い訳や逃げ道が後からそっと自分の肩を掴むのよ。それが弱さなの。私もあなたも、誰もかも、負けてしまうのは後から考えて思ったことがより正しくて正確で確実だと錯覚してしまうの』
『でも、犯罪を犯してしまう場合もそれは衝動的なものであって、後から思ったこととは思えないけど』
『違うと思う。強盗や盗みをしてしまう場合だけど、お金がない訳だから最初はちゃんと働こう、真面目に生きてなんとかしようと思うのよ。でもね、その後に来る弱さね。もっと楽で手っ取早い方法はないかって。または、電車の中で座っているとして目の前に老人が立っている。立つべきだ、譲るべきだ、って思うでしょう。誰でも。でもその後思うの。恥ずかしい、格好付けていると思われるかもしれない、疲れているからもっと座っていたい。あとね、ちゃんと学校や会社に行くべきだって思っても、サボったりしてしまう。勉強しなければいけない。でも明日からにしょうとかね。何でもいいの。小さい事でも大きいことでも。面白いもので、人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの。それは一番初めに教えてくれるの。誰にでもちゃんとセットされているものなの。』
『そうかもしれない』わたくしは言いました。『僕が自分の人生の中で輝いた瞬間は、僕はその弱さに勝った時だけだったかもしれない。優子さんに最初、会社の休憩室でデートを申し込んだときも、結婚を申し込んだ時も、僕は最初にそう思った。そうしたいと素直に思ったから。でも後から色々考えるんだ。断られるかもしれない。傷つきたくない。本当に数え切れない位の思いが僕の後をつけてくるんだ。でもあの時だけは、僕はその弱さに勝てたんだ』
『私もよ。あなたにデートに誘われた時も、結婚を申し込まれた時も、最初に素直に思った。『うん、デートしたい』『結婚したい』って。あれこれ考える前にすぐに答えたの。それで良かったの。それでこうして幸せになれたんだから。うん、幸せになれると確信していたんだから。』

 
彼女が妊娠していると分ったのは結婚してから半年が経ってからでした。手を取り合って喜びました。言葉のあやではありません。本当に手を取り合って喜んだんです。
毎日の様に彼女のお腹に耳をあてて、そこにいる誰かに向かっていつも話しかけていました。まだお腹は大きくありませんでしたが、彼女はお腹の子に向かって絵本を読んで聞かせました。わたくしは音楽もきかせました。クラシックやジャズやブルースなんかを。時には可愛い昔の童謡を二人で一緒に歌いました。途中でわたくしが歌詞を間違えたりすると、『やりなおし』と言って最初から歌い始めました。そんな風にしてわたくし達は静かで暖かい時間の川に揺られていました。

今思い出すと何故かわかりません。数日後、気付くとわたくし達は静岡のあの漁港の砂浜の上に立っていました。彼女が言い出したんだと思います。体が思う様に動くうちにあなたの生れた町に行ってみたいと。海の向うが燃え尽きてしまう位の日曜の夕暮れでした。父の葬式以来、数年ぶりでしたが何も変わっていませんでした。沢山の漁船が波に揺られていました。潮風が二人の髪を湿らせました。漁師達の威勢の良い声も聞こえました。海岸通りをデートする高校生のカップルの笑い声も聞こえました。そこはかつてわたくしがいた世界でした。でも何故か初めて見る風景に見えたんです。背後にあるごつごつした山も、グレー色に染まった海も、細かい波の音も、空を横切るカモメの姿も。だからかもしれません。その風景がとても好きになったんです。海がとても好きになったんです。既にわたくしはズボンの裾を上げて波打ち際に向かって走り出していました。水は冷たく、足元の砂はわたくしを優しく飲み込んでいきました。振り返ると離れた所で彼女は手を振りながらクスクス笑ってました。そんな彼女の笑顔をその時初めて見ました。どんな種類の笑顔よりも違ってみえました。しかし、そんな笑顔を再び見る事はありませんでした。」


彼はそこまで話し終ると「疲れました?」と物寂しい声で言った。僕はかぶりを振って、空になったグラスに氷とオレンジジュースを入れた。灰皿からはフィルターの焦げた嫌な臭いがしたので流しで洗ってティッシュで拭いた。その間、彼はぼんやりと天井の木目に何かを捜し出す様な目をしながら小さく溜息をついていた。僕が座ってジュースを差し出すと「すみません」と言ってグラスを握り締めたまましばらくしてから続きを話し始めた。それまでと違って声そのものが小刻みに震えていた。

                      * * * * * * *

 
 大晦日の朝、さなえが実家に帰ってしまうと部屋はしんと静まり返っていた。
八王子の実家の母親が電話をしてきて「あんた、今年は帰ってくるの?」と訊いたので「今年は帰らない。こっちで色々用事があるんだ。年明けのなるべく早いうちに週末を使って帰るよ」と答えた。
僕は久しぶりに一人になりたかった。さなえという知らない女性が突然やって来てドタバタした生活が始まり、かなりの精神的消耗があった。結果的に彼女とは恋人同士という関係になったとはいえ、正月明けまではゆっくりと充電する必要があった。若干の疲労感もあったし、とにかく一人の生活を僅かな間でも送りたかった。
まず、玄関も含めて全ての窓を開け放ち、大掃除をした。とても清々しい気分だった。彼女の物はなるべくそのままにして、ダイニングの床にワックスをかけ、ガスレンジをピカピカに磨き、冷蔵庫を中を片つけた。彼女の買ったもので日持ちしないものは食べるか捨てるかした。窓を拭き、トイレと風呂場をごしごしと擦った。仕切りのスリガラス戸を外してアパートの前で水を掛けて洗った。カレンダーを捨てて以前銀行で貰ったものに取り替え、死後硬直ベッドのシーツを洗濯し、本棚を整理した。もう読まない本は古本屋に持って行き、そのお金で幾つかの本を買った。CDと本を(あいうえお順)に並び替えた。僕はわりにそういうのが好きなのだ。
一通り掃除が終ると僕は大きな音でラヴ・アンリミッテッド・オーケストラのCDをかけた。こんな音で音楽を聴くのは久しぶりだった。さなえが来てから殆どヘッドフォンで音楽を聴いていたからだ。真昼の真白い強い日差しがポカポカと部屋を満たした。向かいの家でも家族総出で大掃除をしていた。父親は洗車をして、母親は掃除機をかけていた。暇な幼稚園生位の兄弟が庭のホースで水を出していたずらしているので、母親の叱り声が度々辺りに響いていた。大家がベランダ越しにやって来て世間話をして「妹さんは?」と訊いたので「彼女だけが実家に帰ったんです」と嘘をついた。「兄弟仲良いねえ」と言ったので「結構疲れますよ」と言葉を濁した。沢山の蜜柑を暮れたので「ありがとうございます。来年も宜しくお願いします。良いお年を」と言った。
アパートの殆どが新婚か小さな子供のいる家庭だったが、殆どが田舎や旅行に行っていて静かだった。
上の階のリカコちゃんという小学一年生の女の子が一階のピロティに座って一人で絵本を読んでいた。彼女に蜜柑を十個程あげて「みんなで食べてね」と言った。彼女は「ありがとう」と微笑んで言った。僕らは一緒に並んで座りながら冬の晴天をしばらく眺めていた。雲一つなかった。「その本はどんなお話?」と訊くと「うさぎのピーちゃんがお友達のねこさんと旅に行くの」と答えた。
「どこに旅に行くの?]
「とってもとおい所、山をたくさん越えて、谷をたくさん越えて、川をたくさん超えて、それでね、ねこさんが途中でお腹が空いちゃうの。ピーちゃんは草を食べればいいけど、ねこさんはお魚さんしか食べないの。ねこさんはお腹ペコペコで動けなくなっちゃうの。だからピーちゃんが川にお魚さんをとりにいってあげるの。」
「お魚さんはとれたの?」
「わかんない。まだそこまで読んでないもの。でもね、聞いて。私はお魚さんがだあいきらいなの。」
彼女は、ママにいつも魚をちゃんと食べなさいと叱られるのでいやんなっちゃう、と愚痴をこぼした。
僕が「お魚は美味しいよ」と言うと、彼女は「わたしはだいきらい。だいだいだあいきらい。ふんだ」と口をすぼめて言った。きっと母親が魚嫌いを治す為に買え与えた絵本なのだろう。
それから僕はスーパーで雑煮の材料と蕎麦を買って帰り、ビールを飲みながら雑煮のベースを作った。その間、八王子の友達数人から電話があり、今年はこっちに来るのか?と訊いたので、帰らない、と答えた。一通りやる事が終ると僕はベッドで『クリスマス・キャロル』の続きを読もうとしたがなかなか意識を集中する事は出来ず、気付くと辺りが暗くなるまで寝てしまっていた。

夜は案の定くだらないテレビを観て、飽きてしまうとコルトレーンソニー・ロリンズ、マイルズ・デイビスをたて続けに聴いた。蕎麦をすすりながらアル・ジャロウを聴いている最中に年が明けた。すぐにさなえから電話が来た。
「あけましておめでとう」と言った。
「あけましておめでとう」と僕も言った。
「何をしているの?」と彼女は訊いた。
「蕎麦を一人で食べながらくだらないテレビを観て、素晴らしい音楽を聴いている。あとは君の事を思い出そうか悩んでいるところ」と答えた。彼女はクスクスと笑った。
「私は今実家でみんなでテレビを観ているの。従兄弟が来ててね。まだ小学校の低学年なのにこの時間からお年玉、お年玉ってうるさいのよ。生意気なんだから。もう」
「ねえ、その子は魚は好き?」と訊いてみた。
「なんで?」
「なんでもない」と言った。
「ねえ、五日に帰るわ。次の日から仕事だし」
「うん、分った。待ってるよ」と言って電話を切った。
その後、会社の人間や友達から電話があり「あけましておめでとう」と言った。

 

正月は平穏に過ぎて行った。目を凝らして見ないと分らない程の細かい雨が降ったりもしたが、幸い雪にはならなかった。
町はぴたっと蓋を閉めてしまったかの様に静まっていてがらんとしていた。例のペットショップも喫茶店もシャッターが降り、落ち葉がさらさらとアスファルトの上で舞っていた。パチンコ屋に入ったが結局、数千円負けてしまった。公園に行ってベンチで暖かい缶コーヒーを飲んでいる時に携帯が鳴った。横浜に住んでいる友達だった。園川は八王子の時の同級生だった。
「今年はこっちにいるのか?向うの連中に電話したら鏑木は戻らないと言ってたから」と園川は言った。
「ああ、園川は?」
「俺は元旦まで仕事してたんだ。今年は休みもあまりないからこっちに居るんだ。なあ今日飲まないか?」と彼は言った。
「いいよ。別に暇だし」
「新宿の方だろ?これからそっちに行くよ。」彼は時間と場所を言って電話を切った。園川は運送会社の倉庫でバイトをしながらプロのミュージシャンを目指していた。バンドではギターを担当していて、ボーカルの女の子と同棲していた。何度かライブを観に行った事があるが悪くないバンドだった。パンキッシュなロックバンドでアメリカの昔のバンド、ブロンディを連想させた。
小滝橋通り沿いで待ち合わせをしていると、向うから三人やって来た。園川と、ボーカルであり彼女のナオという女の子と、もう一人女の子がいた。
「あけましておめでとう」と園川が言った。「さっき電話する前まで渋谷でバンドの練習だったんだ。十日にライブがあるんだ。メンバー連れてきちゃったけど、いいかな?」
「全然、構わないよ」
「お久しぶりです」とナオが言った。イギリスのロックバンドの名前の入った赤いトレーナーに茶色のダッフルコートを着ていた。
「こっちの子は」と園川がもう一人の女の子を紹介した。「最近入ったベースの子で、高倉れなさん。みんなはレナって呼んでる」
僕は「初めまして」と名前を言って挨拶した。彼女は細みで身長が高く、短く刈り上げた髪を赤く染めてツンツンと立たせていた。グレーのストレートのコーデュロイのズボンに黒いスウェードのジャケットを着ていた。服装に似合わずどこかおっとりとしていた。
正月の三日にやっている居酒屋を見つけるのにそれ程時間は掛からなかった。
「ドラムの人は?」と僕は訊いた。
「今日はこれから用事があるって言って帰ったよ」と園川が答えた。
鍋を突付きながら僕は「最近バンドの方はどうだ?」と訊いた。「うん、この前、あるプロダクションの人がライブに来てくれて、もしかしたらインディーズだけどCDが出せるかもしれない。10日のライブで最終的に決まるんだ。だからとても大事なライブなんだ」と言った。「観に来るか?」
「いや、普段の日だろ?仕事だから難しいな」
「そうか、残念だな。CD出たら教えるよ」


「そういえば、鏑木とは高校の時に一緒にバンドをやってたんだよ。」と園川。
「へえ」とナオ。
「楽器やるんですか?」とレナは生ビールのお代わりを注文しながら言った。
「うん。昔ね。ベースをね」
「3ピースのバンドをやってたんだ。俺がギター、鏑木がベース、マイクスタンド二つ立てて、二人でボーカルしてハモったりして」
「懐かしいね。学園祭だよな」と僕。
「どんな音楽やってたんですか?」とレナ。
「パンクだよ。ピストルズとかダムドとかクラシュとか」と園川。
「歌いながら弾くのは大変だよね」とナオ。
「鏑木さんはベーシスト誰が好きなんですか?」とレナ。
「うーん。当時はストラングラーズのベースの人とか」としばらく考えて答えた。
「ジャン・ジャック・バーネル」と人指し指を立ててレナは言った。
「そう。ゴリゴリベースにピコピコオルガンね」と僕。
「『ノーモア・ヒーローズ』」と園川。
「ベースライン格好いいのは、あとブルース・フォクストンとか」とナオ。
ザ・ジャムポール・ウェラーのね」と僕。
「『ザッツ・エンターテインメント』のアルバムバーションのベースライン、あれないよな」と園川。
「確かに」とコツコツと爪先でテーブルを叩きながらレナ。
「どういうの?」とナオ。
「あとで聴かせてあげる」とビールを飲み干して園川。
僕らはかなりロックな音楽談義をしながらかなりの量を飲んでいた。正月のせいで店はガラガラだった。園川は割り箸をギターにみたてて踊り出し、ナオはおしぼりをマイクにして自分のバンドの曲を大声で歌いだした。店員に何度も注意され、僕とレナは交代に謝りながら2人の姿を見てクスクスと笑っていた。


店を出ると夜十一時を過ぎていた。ナオは園川にもたれながらよろよろと歩いていた。僕もレナもかなり上機嫌だった。
「俺たちは帰るけど、どうするんだ?オマエら」と園川が言った。
「僕は初台だからタクシーで帰るけど。レナちゃんはどこ?」と僕は訊いた。
「はたがや」とコンビにで買ったアイスをかじりながら言った。「食べる?」
「ありがと」と言って僕はかじりついた。「タクシーで一緒に帰ろう。方向一緒だよね」
「オーケー」とレナ
「じゃあな、お休み」と片手を上げて園川は言った。ナオが「バイバーイ。良いお年を」と叫んだ。
レナは大笑いして「あと362日あるわよ」と叫び返した。
「おい、ちゃんと歩け。ナオ」と言いながら園川とナオは消えて行った。遠くから「ライク・ア・ローリング・ストーンズ!」という園川の叫び声が轟いていた。
ボブ・ディランね、そう、人生は転がる石ころみたい」と呟く様にレナが言った。僕は微笑んだ。
僕らはタクシーを捕まえて乗り込んだ。彼女は「気持ちわるい」と言いながらも必死で喋り続けていた。
「最近はどんな音楽聴いているんですか?」と訊いたので「最近はね、黒人音楽ばっかりだよ。」と答えた。
チャック・レイニー」とレナは言った。
「最高のベーシストだね」
彼女は喫茶店で働きながら音楽をやっているのだという。歳は二六歳で「今のバンドはとても仲良いし、音楽性も合っているから凄く楽しい」と言った。「園川はとてもいい奴だよ」と僕が言うと、「うん」と頷いた。「でも、このバンド続けたいけど、あの二人が別れたらやっぱり解散なのかな?」とぼやいた。「まあね、普通はね」と僕は答えた。次第にレナの口数が減り、頭を窓にもたれたままじっと外を眺めていた。車の運転がやけに荒かった。甲州街道に入る頃にはレナは俯いたまま動かなくなった。僕が「大丈夫?」と訊いても微かに頭を振るだけだった。「気持ち悪い」と消える様な声を漏らし、僕は彼女の背中をさすった。あれだけ飲んでこんな揺れる車に乗れば気分が悪くなるのは当たり前じゃないか、と思った。「この子、具合が悪いんで、もっとゆっくり、静かに走ってもらえませんか?」と運転手に言った。時折入り込む光は彼女の横顔を青白く照らしていた。「もう少しだから」と声を掛けて背中を摩り続けた。
タクシーが部屋の近くまで差し掛かった時には彼女は極限状態に達していた。時折、辛そうな声が不規則に聞こえ、その様子を心配そうに運転手はミラー越しにちらちらと観察していた。
車が停まっても彼女は固まったままだった。僕が声を掛けても反応がない。そして「もうダメ、ヤバイ」という声が一瞬聞こえたかと思うとレナは素早く車を飛び降り、ガードレールの向うで吐きはじめた。「どうします?」と運転手が訊いたので「いや、このまま彼女を送ってもらおうとしたんですよ」と答え、しばらく二人で外のレナの様子を伺っていた。レナは歩道にしゃがみ込んだままで、運転手が何か言おうとしたので結局清算をした。僕は溜息をついて空を見上げた。これではさなえの時と同じじゃないか。
レナはフラフラと立ち上がりガードレールに座っていた。「どう、大丈夫?」と訊いても首を振るだけだった。「トイレ」
「トイレ?」
彼女は暗闇で灯かりを探す様な動作でトイレに滑り込み、十分程出てこなかった。僕はテーブルの上で煙草をふかしながらアイスティーを飲んで待っていた。
トイレから出た彼女はけろっとした顔で呆然と立ち尽くし、辺りをきょろきょろと見回していた。
「同棲してるんですか?」と鞄からタオルを取り出して口を拭きながら言った。
「妹だよ」と答えた。
「ふーん。で、妹さんは?」
「実家に帰ってる」
「そう」
彼女は「すみません」と改まって言い、僕の様子をぼんやりと見つめていた。
「もう、大丈夫そうだね。帰る?それともジュースでも出そうか?」
少しばかり考えてから答えた。「なんか冷たいものが飲みたいです」
彼女にもアイスティーを出してそれを彼女はごくごくと一気に飲み干した。
テーブルに端に積んであったさなえの雑誌の表紙を眺めながら言った。「妹さんは幾つですか?」
「二四歳だよ。」と短く言った。「そうですか」とどうでもいいような声で彼女は言った。
彼女はテーブルに肩肘をつけながら、もう一つの手はこめかみを押えていた。
「大丈夫?」と訊くと「なんとなく」と言って、スウェードのジャケットを脱ぎ出した。
「さっき吐いてすっきりしちゃいました。」
「そう、そろそろ行く?」と立ち上がって言った。
彼女は僕を見上げたまま舌を出して言った。「ええ、ですけどタクシーだと凄いかかっちゃいます。お金」
驚いて訊いた。「幡ヶ谷でしょう?」
「いえ、鳩ケ谷です」
僕は座りなおして溜息をついてもう一度訊いた。「はとがや?埼玉の」
彼女は頷いた。「ちょっと待ってよ。さっき幡ヶ谷って言って、方向一緒だからタクシーで帰ろうって言ったよね?それでオーケーって言ったから」
「いいました?」首を傾げて言った。「でも、酔ってたからあんまり覚えていないんです」
「参ったねえ」と首の後ろで手を組んで言った。「参りましたねえ」と彼女も首の後ろで手を組んで言った。時計は既に12時だった。


結局、僕らはテーブルに向かい合いながら冷蔵庫の中のビールを全て飲み干してしまったので、焼酎をオレンジジュースで割ることにした。
バイト先の喫茶店によく来る嫌な客の話、学生時代の男友達が最近性転換手術をした話、ギターをやりたかったが不器用なのでベースにした事、園川とナオがスタジオでHをした時の話。
「えっ?スタジオでやったの?」
「そうなのよ」と赤い顔で言った。「あの人達ね、私達が来る二時間前からスタジオとってたのよ。名目上は新曲のデモの歌入れだけどね。私すぐ分った。ピンと来たのよ」
「どうして」
「なんとなく。女の勘。でね、あとでナオにさんに問いただしたら、そう、って認めた。」
「へえ、スタジオでね。でもカメラとかあるんじゃない?」
「いいや、そこは無いのよ。なんかね、凄く興奮するみたい。音は絶対漏れないでしょう?それにね、アレやってる最中にその声をマイクで拾うんだって。喘ぎ声が部屋中に大音量で響き渡って凄く興奮するんだって。ナオさんてエムっぽいからね」
「ふーん、凄いね」
「多分ね、あの人達、マイクとかアソコに突っこんじゃうのよ、きっと。ドラムスティックとか」
「あり得るね。園川だったら」
「でしょう。いい人だけど、そういう方面ではきっとかなり危ない人よ」とつまみのポッキーをぽりぽり齧りながら言った。「でね、ナオさんに言ったの。マイクは駄目よ。感電するからって。そいだら笑ってたけど」
「確かに」と僕もポッキーを齧りながら言った。


「ねえ、鏑木さんのCD見せて」
「いいよ」と答えた。「あっちの部屋」
僕と彼女はおぼつかない足取りで奥の部屋に行き、彼女は僕のCDラックを見て歓喜の声を上げた。これとこれ貸して、あとこれ聴きたい、と言ったので、ルー・リードの『トランスフォーマー』をかけた。「ワイルドサイドを歩け」のベースが最高なの、と独り言の様に言って、僕の存在を無視する様に聴き入っていた。僕は煙草をふかしながら彼女が貸して欲しいと言ったCDジャケットをぼんやりと眺めていた。こんなCDがある事すら忘れかけていた。テレヴィションの『マーキー・ムーン』とパティ・スミスの『ホーセス』だった。もう何年も聴いていない。
曲が終るとレナはCDを一曲目に戻し、僕の煙草をとろんとした目で眺めていた。僕が煙草を手渡すと思い切り吸い込んで壁に向かって吐いた。そして半分残った煙草を灰皿でもみ消して囁く様に言った。「ねえ、私のおウチはね、本当は幡ヶ谷なの」
「知ってる」と僕はしばらくして言った。「確信犯」
「そう、カクシンハン」とうっとりした声で言って僕の胸元に顔を埋めた。
頭の中がアルコールでぐにゃぐにゃと溶解しているみたいだった。レナと舌を絡ませると色んな酒の味がした。柔らかな生肉の様な耳たぶにキスをし、滑らかなで柔らかい首筋を噛んだ、さなえの事が一瞬頭によぎった。思わず僕が体から離れると、彼女は感じの良い微笑みを浮かべて真っ直ぐに僕の顔を見つめていた。そしてレナの言った「人生は転がる石ころみたい」という言葉を思い出した。さなえとレナは対極な人間だった。さなえは濁流の中で翻弄され続ける川底の石であり、レナは流れの中で転がることを楽しんでいる感じだった。レナは首をほんの少し傾げて、秘密を打ち明ける様な声で耳元で言った。「ねえ、寝正月よ。寝、正月」
彼女のその言葉は僕の心の最も柔らかい部分をそっと撫で、硬い膜を破り、奥深くまで潜り込んでいった。僕の性的衝動は膨張し、覚醒して、割れて弾け飛んでしまっていた。気付くと灯かりを消して裸になり、その夜、僕らは何度も交わった。



目覚めるとすやすやと眠ったレナの寝息が微かに鼻腔を震わせていた。ベッドの中で丸まって時折ごそごそとその白い足を動かした。時計を見ると既に昼過ぎで、僕らは一体何時に寝たのだろうと考えても全く思い出せなかった。日差しが真っ直ぐに部屋に差し込み、レナの首筋を細く照らしていた。起き上がるのもニ日酔いで頭が重く、脳みそが全て鉛に変わってしまった気分だった。僕は窓を少し開け煙草を吸い、音楽をかけた。昨日、レナと聴いた「トランスフォーマー」だった。しばらくすると窓の隙間から入り込んだ冷気と音楽のせいで、レナは高い唸り声を上げて起き上がった。
「おはよう」と言っても、僕の顔を目を細めて見つめていた。頭を掻きながら部屋の隅々までを仔細に眺めていた。小さく深呼吸をして僕の肩にひんやりとした手を乗せて言った。
「おはよう」抑揚のない声だった。言葉の意味を忘れ、僕の言った言葉をオウムの様にそのまま繰り返しているみたいだった。
彼女は僕の肩にもたれかかって細っそりとしたつま先でリズムをとっていた。僕の顔を覗き込んでそっと僕の煙草を奪い天井に向かって煙を吐くと、首筋の血管が青々と浮かび上がっていた。「おトイレ」と平板な声で呟いて煙草を僕の口に戻し、そのまま下着のままで立ち上がり、白くて弱々しい背中に陽光を映しながら歩いていった。
少ししてからだった。誰かが玄関のドアを開ける音がした。その瞬間、鉛の様な脳みそに突然血液が激しく流れ出し、血管が異常に膨張していく感覚に襲われた。何故か立ち上がる事が出来なかった。体が硬いベッドにそのまま同化してしまったみたいだった。今日は一月四日、さなえではないのは確かだ。一体誰だ?大家さんか?いや、あの男達か?それは僕ら二人以外の不確かで不気味な人の気配だった。足音が忍び寄って次第に大きくなった。そして僕は顔を上げた。

地平の舟  (⑤)

「静岡から帰った次の日です。彼女は朝体調が悪かったので会社を休みました。その日はわたくしは夜勤でしたので昼間一緒に病院に行きました。診断の結果は妊娠によるちょっとしたストレスと風邪でした。大したことはなく薬を貰って彼女は家に着くと休みました。夕方、わたくしが会社へ行く時に横になった彼女に声を掛けると彼女は答えました。
『大丈夫よ。だいぶ楽になったわ。あとで食事をとって、なんか夜風に当たりたいから散歩でもしてくるわ。』
『あんまり無理しないように。なるべく横になっていた方がいいよ。』
『うん』
『行ってくるね。』
『行ってらっしゃい』



日が明けて製造が朝五時に終わり休憩室で休んでました。そこへ上司が血相を変えて飛びこんで来ました。
『今すぐ、警察に行くんだ』
『警察?』
『とりあえず、今電話が入った。奥さんの事だよ。すぐ来てくれと。』
『何かあったんですか?』
『分らない。とりあえず奥さんが大変だから、君にすぐ警察に来て欲しいと』
タクシーで警察へ着くまでに色んな事が頭をよぎりました。体の事なら病院から電話があるはずだろうし、何故警察なのだろうかと。散歩していてひったくりにあったとか、最悪泥棒に入られたとか。逆に彼女が何か悪いことをしてしまったかなど。わたくしは考えるのをやめて目を閉じました。その時、瞬きする位のほんの一瞬でした。ある光景が見えたのです。前の日に行った漁港のあるあの町の砂浜です。裾は上げて波打際で遊んでいるのはわたくしではなく彼女の方でした。わたくしは離れた場所から彼女の様子を眺めていました。わたくしが手を振っても、声を掛けても一切気付かないのか、彼女は振りかえようともせず必死に波打ち際で遊んでいました。
警察に着いて担当の刑事みたいな男が言ったんです。わたくしの顔を正面に見据えてから小さく息を吸ってゆっくりと言いました。男の首筋は呼吸のせいで微かに震えていました。

『奥さんが今日の未明に亡くなられました』

まるで世界中の川が流れることをやめてしまった様な静寂でした。そしてわたくしは笑いました。なぜか笑ったんです。一体この男は何を言っているんだと。男はもう一度言いました。
『あなたの奥さんが今日の未明に亡くなられました。』
口元ががピクピクと痙攣して何を言おうにも言葉が出ませんでした。男はもう一度言いました。
『自殺です。』
力なくその場で座りこもうとしたわたくしを男は肩を抱いてすくい上げました。言葉そのものの意味は理解出来ましたが、それが事実として一体何を意味しているのかは分りませんでした。男の言葉がわたくしに向けられた言葉であることさえも理解出来ませんでした。
男は言いました。
『あなたの奥さん、つまり松田優子さんが午前一時にビルの十階から飛び降りて、病院に運ばれたんですが、内臓破裂脳挫傷で先ほど病院で亡くなりました。遺体はここに安置されています。遺書はありませんでしたが現場検証の結果自殺の可能性が強いのではと。』
男はニュースの原稿を読むみたいに抑揚のない声で淡々と言いました。怒りさえ覚えました。男に掴みかかるにも、詰め寄るにも体がバラバラになった感じで動かないのです。用意されたパイプ椅子に座り、ぼんやりと壁に掛かった時計の針を眺めていました。時計の針が少しづつ右へ傾いていくうちに段々と事実が・本当に・起こったこと・として入り込んで来て、同時に声を出して泣き始めました。泣く事以外何も出来なかったんです。
そしてもう一つの事実に気付きました。お腹の子供も同時に失ったんです。なぜ、彼女は死ななければいけなかったのか、わたくしには思い当たることは何一つありませんでした。確かに妊娠中に多少のストレスでナーバスになっていましたが、死を選ぶ程彼女を苦しめたものが何であったのか全く見当がつかなかったのです。刑事らしい男は、遺体は見ないほうが良い。損傷が激しいから、と言いました。わたくしは静かに頷きました。
そして、形式だけの取り調べが始まりました。何を訊かれて何を答えたかは思い出せません。『思いあたる節は?』『いえ、ありません』そんな感じです。十分程すると別の男が入ってきて目の前の男を呼びつけると、二人で部屋を出て行きました。しばらくして戻って来ると、さっきの男は座るなり言いました。
『とても言いにくい事です』そして何故か男は煙草を吸うかと訊いてきました。『僕は煙草は吸わない』と答えると、男は話始めました。『とりあえず、冷静に聞いて欲しいのです。しっかりと気を持って聞いて頂きたいのです』
わたくしは頷きました。
『今分ったのですが、奥さんの遺体から男性の体液が発見されたんです。つまり精子です』
精子?』
全身の神経が音を立てて千切れていく感覚が襲いました。
『奥さんは死ぬ1時間から2時間前に男性と性交渉をしていたのです。』
わたくしが何を言おうとしているのか分ったのでしょう。男は続けて話し始めました。
『あなたが想像していることではありません。つまり、つまり飛び降りた時に出来た衣服と体の損傷とは別に、人工的に出来た衣服と体の損傷があるのです。その、言いにくいんですが』
わたくしはもうやめてくれと叫びそうになりました。視界が乱れて息苦しさを感じました。何もかもが、何が起きたのか、その瞬間に分りました。しかし男は淡々と言いました。
『乱暴されたんです。乱暴されたショックから衝動的に身を投げたのかと』


目を覚ますと警察内のどこかの部屋でベッドに横たわって寝ていました。椅子と机とベッドしかないがらんとした灰色の冷たい部屋でした。ひび割れた天井を睨みながらその時何を考えていたのでしょうか。多分、二人の命を失った絶望と、彼女を死に追いやった知らない男への怒りと憎しみでした。その後の警察の話では、殺人罪ではなくて傷害罪で衣服についた男の指紋を手掛かりに捜査をしているとのことでした。しかし、彼女の死そのものは自殺として処理されました。彼女をレイプした男性は未だ捕まっていません。
彼女の友人や会社の人間からは、その自殺の原因はわたくしにあるのだと、声には出しませんでしたがはっきりとそう思っている様でした。妊娠している妻の悩みに何故気付かなかったのかと。特に彼女の両親は、はっきりそう言って、わたくしを責めました。彼女がレイプされた事実など誰にも言えるはずがありませんでした。
妻の自殺の後すぐに会社を辞めました。妻も同じ会社の人間でしたし、何食わぬ顔で仕事を続けることなど許されませんでした。当然です。

 
それから一ヶ月程、わたくしは部屋のカーテンを締め切り、薄暗い中で過ごしていました。
食事は買い込んだ食材で何か作って食べました。トイレと食事以外はどんな時もベッドに横たわっていました。テレビも映画も観ず、本も読みませんでした。一日中、ぼんやりとして過ごしました。天井に向かって何時間もじゃべり続けた事もあります。また、夢の中でさんざん泣いて、起きたと同時に怒りと憎しみでシーツを頭から被ったまま喉が焼け付く位までに言葉ではなくただの音の様な声で叫んだこともあります。そうした時間の中でわたくしを次第に蝕んでいったものは恐怖でした。その恐怖とは、感情や意思の中に憎しみと悲しみしか存在しないことです。それ以外に何も存在しないんです。朝起きて鳥が囁いて爽やかな気持ちになることも、初夏の新緑に穏やかな気持になることも、あらゆるものが悲しみと憎しみに押しつぶされて消えてなくなってしまったことの恐怖なんです。わたくしの中に存在しているものは恐怖、それだけなんです。
人生のあらゆる場面を思い出しました。しかし、全てが全く別の人間のエピソードに思えたんです。いや、違います。彼女の死を境にして、わたくし自身がそれまでの自分とは全く別の人間になってしまったという事なんです。

 
納骨の日に、遺骨と一緒にビデオの『ティファニーで朝食を』と、妻がお腹の子供に読み聞かせていた絵本を入れました。無意識のうちにわたくしは彼女と歌った童謡を独り言の様に歌っていました。歌詞を間違えたり忘れてしまうと何度も何度も最初から歌い直しました。
そしてそれは起こりました。線香に火をつけ、煙がまっすぐに空へ吸い上げられていきます。やがてその煙が三つに分かれました。一番太いのはそのまま空に伸びています。しかし、分れた二つの方は細い糸の様な煙でした。それは両方ともわたくしの背の高さ位まで昇りつめると急に折れ曲がってわたくしのほうへ向かって流れ出しました。それはわたくしの体を包みました。漂いながら浮かんでいました。体の周りで旋回しながら二つの煙は混ざって一つの塊となり、どこにも流れ去る事なくふっと消えていきました。その場で消えてしまったのですが、それはわたくしの中に潜り込んでいった為に消えてしまったのではないかと、確信に似た結論が頭の中に浮かんできたのです。
彼女と小さな命の喪失をきっかけにわたくしの中枢までもを侵食した恐怖はそれを期に次第に薄れていきました。悲しみは薄れることはありませんでしたが、彼女をレイプした男に対する怒りだけは、その怒りを持ち続ける事の無意味さと同時に、それによって損なわれてしまったわたくしの核なるものを取り戻すことの必要性を感じたんです。
彼女がわたくしに何度も言った言葉。『まず初めに思ったことをするのよ』そして『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』わたくしは立ち上がらなくてはならない。歩き出さなければならない。生き続けなければならない。それがその時、まず初めに思い、感じたことだったのです。

 
わたくしはタクシーの運転手になりました。お客さんはいるにしても、基本的に車内の孤独な空間はそれ程嫌ではありませんでした。
もう一つある事に気付きました。それは納骨の日に起きた奇妙な現象から、自分の中にある特殊な直感力が備わった事です。それを確信する出来事が起きたのです。
ある日の夕方、新宿の高層ビル群辺りで停車しながら細い雨がアスファルトに染み込んでいくのをなんとなく眺めていると、傘も刺さずに走り寄ってくる四十代の男性が視界に入って来ました。
その男は客で、高円寺まで、と言いました。電車はまだある時間だし、新宿から電車一本の場所ですから少々不思議な感じがしたのですが、とりあえず車を走らせました。男は綿のチノパンに薄水色のカラーシャツを着ていて着こなしは綺麗にまとまっていました。顔は少しばかり日に焼けていて掘りが深く、鼻筋は通っていて目は鋭い中に優しさが滲んでいるそんな男でした。ミラー越しに彼の姿が入っていたのでチラチラと見ていましたが、男はじっと腕を組んで外を眺めていました。時折小さな溜息が聞こえてくるだけでわたくし達は会話すらしませんでした。青梅街道をひたすら走っているうちにミラーに映る彼がとても気になりだし、わたくし自身が異常に落ち着きを無くしているのです。ハンドルを握る手は汗ばんで喉が渇きました。その時、ミラーに映る彼はその時の彼ではありませんでした。思わず息を呑み唇を噛んでいました。わたくしの見たものは、彼の心だったのです。彼の心の奥底が映像となって見えてきました。はっきりとした映像ではありません。輪郭も形状も色も奥行きもぼやけていました。映像にならない映像です。私が見たもの、いや感じたものは、彼が何かを創りだす為に暗い静かな空間の中で一人頭を抱え、その彼の頭の中には眩しくて明るい世界と音に満ちた混沌とした世界があったのです。しかし、その世界に彼は今いない。そう分ったのです。たった数秒間の事でした。現実の彼は相変わらず無言のまま外を眺めていました。ふと気付いたのです。その男に見覚えがありました。彼は畑山恭介という歌手だったのです。二十年くらい前に『川沿いの灯かり』という歌謡曲がNO.1ヒットしたのを覚えています。なぜなら、わたくしはその曲を中学生の時によく聴いていましたし、とても好きな曲だったのです。当時の面影からすれば皺が増え、頭髪は若干後退していましたが、確かに畑山恭介本人でした。
わたくしが先ほど見た映像の意味が分りました。それは彼がこの二十年程ヒット曲にも恵まれず、自身の才能に自問自答しながら曲を書いている姿です。彼の頭にあった世界は過去の彼の栄光だったのです。灯かりや音は満杯のコンサートホールでした。
わたくしは思わず声を掛けました。畑山恭介さんですよね?『川沿いの灯かり』はとても好きでした、と。
彼は驚いて座り直して表情を緩めて話てきました。よく分ったねえ。嬉しいよ。あの曲を知っている人は今あんまりいないからさあ、と。そんな話がしばらく続くと、わたくしが先ほど見た映像の彼の心の姿と同じ内容が彼の実際の言葉として溢れてきました。最近、曲が売れないこと、曲を書いても自信が沸かない事、売れようとする為に今の流行の音楽に媚びたり、挙句の果てには盗作すらした事があること。過去の栄光に自身が引きずられて抜け出す事ができない事。僕は何故こんな話をしているのだろう、でも運転手さんにはしゃべってしまいたくなる、いや、しゃべらなければいけない様な気がする。だから何故かは分らないけど、言葉が止まらないんだ、と。
彼が一通りしゃべり終ると車内は再びしんとした空気に包まれていました。車は高円寺の傍まで来ていました。彼は自分の話た事について、次はわたくしの言葉を待ち望んでいる様でした。だから、わたくしは一言、二言彼に何かを言いました。不思議なものでその言葉だけは全く覚えていないのです。しかし、彼は車を降りる際に『ありがとう。本当にありがとう。こんな素晴らしい時間を過ごしたのはここ数年なかった事だ。それは運転手さんに会えて、そして話せて、何もかもが漂白された気分だ』と言い、彼はわたくしに手を差し伸べてがっちりと握手をして別れました。
半年後、わたくしのタクシー会社にわたくし宛てで畑山恭介から一枚のCDが届きました。なぜ会社とわたくしの名前が分ったのかは分りません。そして『虹色の空』という曲はその後、ベスト5に入るヒット曲になりました。


相手の心の奥底がミラー越しに見えるというのは一種の直感力です。例えば相手の心を忠実に模写した一枚の絵があるとします。スカイブルーのテーブルに黄色い花瓶が乗っていて、そこに赤いバラが十本刺さっているとします。私の直感力で見えるもの、正確に言うと感じるものは、テーブルと花瓶とバラがある絵ではなくて、スカイブルーと黄色と赤い絵の具が使えわれた絵が見えるのです。わたくしが見えるものははっきりとした絵そのものではなくて、色です。心の色なんです。意識を集中すればそれらの絵がどの様な輪郭を持っているのかぼんやりと見えてきます。畑山恭介の時は、その色とぼんやりとした輪郭から、今度はわたくし自身の思考と想像力でより具体的に形にしていったのだと思います。しかしあの時わたくしが畑山恭介という歌手だと気付かなかったら、色や輪郭が何を意味するのかは分らなかったでしょう。
それからです。車内という狭い空間の中で相手の人間の存在をしっかりと意識してミラーを通して見ていると人間の心の色と輪郭が見える様になりました。更に想像力と思考を研ぎ澄ますと、色と輪郭は段々とその構図を明らかにしていきます。ただ、そういう映像が見えるのは全員ではありません。だいたい十人に一人位です。その人達に共通するのは、自分の心の姿を実は他人に知ってもらいたい。聞いてもらいたいという想いが強い人達でした。全員が何かをきっかけに話し出し、最後には決して覚えていないわたくしの幾つかの言葉に感謝し、喜び、車を降りていきました。
患者を死なせてしまった医者、親の借金で風俗で働く若い女性、銀座スナックのママ、スランプに落ちた野球選手、愛情問題で苦しむ人間や、仕事に苦しむ人間が沢山いました。生きる事そのものに悩んでいる人間もいました。皆、乗車して数分すると堰きを切った様に話し始め、途中で泣く人さえもいました。その間、わたくしは時折ミラーを見ながら黙って聞いているだけです。話し終らない時は目的地に着いても降りようとせず、辺りをぐるぐる周り、最後に料金とは別にチップをくれる人さえいました。わたくしを名指しで指名してくれるお客もつきました。どこにも行く宛てがないのに、呼び出されて皇居の周りをぐるぐると何周も回った事さえあります。多くの人が畑山恭介と同様、救われた、立ち直ったと手紙をよこしたり、直接、会社に挨拶に来る者もいました。中には多額のお金を受けとって欲しいと言う者もいました。この事は次第に噂になり、『あるタクシー運転手の車内カウンセリング』という名で雑誌やテレビの取材依頼も来ました。多額のお礼や取材依頼はきっぱりお断りしました。慎ましくて、あまり広い世界で生きたくないわたくしにとってはあまり望ましくない事態でした。しかし会社の方は喜びましたし、給料も驚く程良くなりました。駅前で客を待つという事は一切無くなりました。全てが無線で入ってくる指名だったのです。
あの不思議な能力は多分、霊とかオカルトとか言うものではないのは事実です。単純に直感力とか想像力の類だと思います。そして面白い事に、あの様な能力はタクシーという限定された空間の中でしか使えないのです。一歩外を出るとどんなに意識を集中しても何の映像も見えてきません。わたくしが最後にお客さんに言う幾つかの言葉に、何故あれだけ人を安心させ、落ち着かせて、勇気つけられるのか、そして必ず感謝される様な反応があるのか分りません。なぜなら、これだけ多くのお客さんに会っていながら、わたくしが発した言葉のどれ一つも覚えていないのですから。
ただ、この様な直感力が備わったのはいつからだろうと考えれば考える程、それは多分、妻の納骨の時に見たあの不思議な現象からだったのだと思います。

 
そんな風にしてあっという間に四年が過ぎました。三五歳になっていました。再婚も恋愛も諦めました。
そして三ヶ月前、わたくしは、かぶらぎさんのお知り合いの滝田さなえさんと出会ったのです。
ある日の夕方、指名を受けたお客さんを赤坂のホテルの前に降ろしてから六本木方面に向かっている途中で彼女を乗せました。彼女は『銀座まで』と言いました。
彼女は膝の上でしっかり手を組んで座ってましたが、頭はうつむき加減でどこか寂しげでした。窓の外を見る事もなく、組んだ手の指を膝の上で動かして退屈しのぎで遊んでいるだけでした。わたくし達の間には会話もありませんでした。
次第に、数年前の畑山恭介と出会った時に感じたものと同じ落ち着きのなさがわたくしを襲いました。しかしそれは決定的に違っていました。手は汗ばんで、冷や汗が全身から噴出し、呼吸が乱れ、町の景色はぐにゃぐにゃと歪みだしました。全身が心臓になったのではないかと思う位にわたくしの体は激しい鼓動と震えに見舞われ、喉の奥底からは手が何本も突き出してきて外へ這い出てくるのではないかと思う位に口を大きくばっくりと開け、喉は痺れ、息苦しさの中に声すら発することが出来ませんでした。咄嗟に車を脇へ停めると、彼女は『大丈夫ですか?』と驚いて訊いてきたのですが答える事すら出来ませんでした。冷や汗は大量に頬を伝って膝の上にポタポタと流れ落ちていました。彼女はわたくしを覗きこんでもう一度『大丈夫ですか?』と訊いてきました。その声を聞いたまさにその時です。ミラーではなく目の前のフロントガラスにそれは映し出されたのです。まるで映画のスクリーンの様でした。
暗い人気の無い公園のトイレの薄汚れた白いタイルの床に彼女が仰向けに寝ているのです。あちこちの壁に落書きがあって、消えそうな蛍光灯に蛾が何匹も止まっていました。彼女は唇を切り血を流していました。服は破かれ、ブラジャーは首の位置までたくし上げられていました。口にはタオルの様なものが詰られ、青白い頬はピクピクと震えていました。体をこわばらせて目はどこでもない所の一点を見つめ、というよりその位置で止まっているのです。黒目の部分でさえ色は鈍くなり、油紙なんかをぺたりと貼り付けた様な色をしていました。両腕は床にこびり付いたかの様にだらんとしていて、何本かの指先が時折動いているだけです。
一人の若い男が彼女の上に覆い被さり腰を動かしています。男の後姿しか見えません。それはただ真っ黒く塗りつぶした影の様でした。着ているものも髪型も分りません。男の肩越しに見える彼女の表情は生気を失っていました。一切の色が失われていました。二人の体の揺れる音が規則的に冷たいタイルの上に響いていました。しばらくしてその音が消えると、もう一人の男がやって来て再び彼女に覆い被さりました。規則的な不気味な音が再び聞こえ始めました。彼女の目は固まったままで、瞬きすらしません。涙が筋の様に流れ出していました。口に突っ込まれたタオルが自然に落ると鈍い紫色をした唇がひくひくと震えだし、上下の歯が小刻みにぶつかりカタカタを音を立て始めました。その音は次第に早くなりましたが、男達の笑い声でかき消されてしまいました。
男が腰を止めると再び最初の男が覆い被さりました。それから同じ事が何度もくりかえされる間、彼女の顔全体が腐った豆腐の様な色に変わっていきました。声も音も色もどこかへ消えてなくなっていました。最後の最後にもう一人、三人目の男が現われました。その男が現われた時、それはまさに一切の暴力が硬直した瞬間でした。彼は立ったまま彼女を見下ろしていました。彼自身が彼女を犯す事はしませんでしたが、そこには静の暴力が飽和していました。彼女の両目はピクリとも動かず、瞬きもせず、視力がゆっくりと奪い取られて最後には目くらになってしまったんじゃないかとさえ思いました。その男の嘲笑が彼女の声のない叫び声をどこかへ吹き飛ばしていました。
ハンドルに突っ伏してフロントガラスに映るその映像を見たのは実際には数秒足らずだったと思います。やがてそこはいつもの町の風景に戻っていました。車の音、人の足音が聞こえ、色鮮やかな町のネオンが目に入ってきました。呼吸の震えも冷や汗も収まり、置いてあったコーヒーを一口飲むと幾分落ち着きが戻ってきました。
ミラー越しの彼女は心配そうに覗き込んでいたので、すみません。ちょっと具合が悪かったものですから。もう大丈夫です。と笑って言って再び車を走らせました。
わたくしの見たものは彼女の心そのものであったと同時に、それが実際に起こったことであると確信しました。また、そんな風にはっきりとそれもフロントガラスに見えたのは初めてだったのです。ミラー越しの彼女は相変わらず俯き加減にじっと座っていました。
しばらくすると車内に小さくすすり泣く声が聞こえてきました。そして突然彼女は両方の手の平で顔を被い大声で泣き始めました。わたくしが、大丈夫ですか?と声を掛けても無駄でした。銀座へ着くまでの間、彼女は肩を大きく震わせていました。目的地へ着いても彼女は泣き続けたまま降りようとしませんでした。わたくしはいつもの様に何か言ったのだと思います。そうすると彼女は泣きやみ、鼻をすすったままで言いました。『ねえ、聞いてくださるかしら。とりあえずその辺りを走って下さい』わたくしは無言のまま車を再び発進させました。そして彼女は、わたくしが見た一部始終と全く同じ事を静かに話し始めたのです。
わたくしが彼女の話を聞いている間に思い出した事は妻の事でした。先ほど見たものが、それが妻のものである錯覚さえ覚えました。彼女もあの様にレイプされたのでないか。その間、妻は何を思い、何を考え、何を叫ぼうとしたのか。赤ん坊のいる体内に知らない男が入り込んだ時、そして男が射精した時に彼女は何を見たのでしょうか。乾いた灯かりに群がる何匹もの蛾だったのでしょうか。何を聞いたのでしょうか。刃物の様に響く男の笑い声だったのでしょうか。ざらざらとした硬い床の冷たい感触に何を感じたのでしょうか。痙攣する唇はどんな声を発したかったのでしょうか。お腹の子供に歌って聞かせていたあの童謡だったのでしょうか。もう涙は出ませんでした。泣くことはやめました。わたくしはハンドルをしっかり握り締め、夜の街中をあてもなく走り続けていました。」


彼は薄くなったオレンジジュースをごくごくと飲んで、頭を抱えて動かなくなった。
僕は、彼の言うことはなんとなく信じる事が出来た。嘘をつく必要もないし、作り話にしてはあまりにも肉迫していた。何よりも目の前の男の人生に同情し、男を包んでいる憂いに満ちた嵐の様なものが彼という人間を果てしなく変質させてしまったというのは明らかだった。髪を薄くさせ、弱々しい怯えを備えた笑い声を発し、常に何かを拒絶する見えない壁を持ち、浅い眠りの様な魂の輪郭は、彼の通過したあらゆる事象の結晶だったのだ。彼の言う直感力、特質な能力についてもそれが真実であるという漠然とした確信があった。さなえがレイプされた状況は、僕が聞いたものと同じだったし、数年前に畑山恭介という歌手が見事な復活劇を果たしてブラウン管を賑わせていたのは明白な事実だった。

地平の舟  (⑥)

そこに立ちすくんでいたのはさなえだった。
さなえの表情には何もなかった。どんな感情も見当たらなかった。僕の顔の一点を見下ろしながら僕の言葉を待っている様だった。煙草の火種が落ちて焦げ臭い匂いが鼻をついた。その時、さなえの背後に立っていたレナが声を出した。「妹さん?」僕と目の前のさなえを交互に見ていた。僕の体の中でゆっくりと何かが固まっていく感じがした。それは喉から口へと這い上がって行った。口は別の生き物の様に顎の筋肉を使って収縮し、言葉となった。
「うん」
さなえはそのまま何も言わず背中を向けて玄関の方へ歩いていった。乾いた足音が不気味に響いていた。そして扉が閉まった。硬くて冷酷な金属音だった。

レナは「ごめんなさい」と俯いたまま着替え始めた。二人を支配する静寂の中では音楽すら耳に入ってこなかった。
鞄を担ぎゆっくりと玄関へ向かい、立ち止まって溜息をついたから言った。

「嘘つき」
扉はバタンと閉まりレナの足音が消えるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。奥の部屋では「パーフェクト・デイ」が流れていた。全くだ、と僕は思った。


その日、さなえは帰って来なかった。携帯は留守電だった。残すメッセージの言葉すら思い浮ばなかった。あの時のさなえの表情は、あの日、公園で見たものと同じだった。何一つ違っていなかった。僕はぼんやりとさなえの帰りを待った。音楽を聴くことも、本を読むこともしなかった。そんな気分にはなれなかった。
ダイニングに吊るされた彼女のスーツ、テーブルの雑誌、CD、CDウォークマン、プラスティックケースの中の彼女の下着や衣服、洗面所のガラスの下に貼られたプリクラ、CDデッキの上に置かれた彼女が買ってきた小さなクリスマスツリーの置物、歯ブラシ、クシ、化粧水、ハートの形をした彼女の枕。彼女の輪郭の断片を眺めながら僕は部屋の中をうろうろと歩き回り、段々と致命的に、そして決定的に何かが損なわれていく様子の前にただただなす術もなく、その状況の渦の中心に引き寄せられていった。

次の日、仕事初めの六日の朝もさなえは戻って来なかった。
昼休みにさなえの会社に電話をすると、いつもの女の上司がでて「実は滝田さん、今日会社に来ていないんですよ。連絡もなくて心配しているんです」と言った。「お兄さんなら何か心当たりありませんか?」と逆に訊いてきたので「いや、分りません。僕も心配しているんです」と答えた。「何かあったら連絡します。もし会社に連絡があったり、出社したら連絡下さいとお伝えください」と言い、「分りました」とその女は言って電話を切った。
仕事から帰るとそれは起きた。いや、起きたのではなくて起きてしまったのだ。彼女の残した輪郭の全てが消えてしまったのである。
一切の持ち物が部屋から消えていた。テーブルの上はがらんとして、スーツもなくなっていた。洗面所のプリクラは剥がされてその部分だけが白くなっていた。クリスマスツリーも洗面道具も幾つかの化粧品も、もうそこにはなかった。僕が会社に行っている間に取りに戻って、そして出て行ったのだろう。テーブルをよく見るとひっそりと合鍵だけが置かれていた。手紙も何もなかった。その光景は彼女が僕の部屋に来る前と全く同じだった。本当に滝田さなえという女性がやって来て、そしてここに住んでいた事すら何かの記憶違いではないかという錯覚に陥った。あの公園で滝田さなえという女性と出会い、そして一緒に住み、クリスマスを祝い、出て行ってしまったという一晩に見たただの夢ではなかったのではないか。あれは確か秋だった。しかしカレンダーを見るとしっかりと年を越していて、現実的に流れて行った時間の感触をはっきりと感じた。現実に彼女は現われ、そして現実に去って行ったのだ。
彼女の電話は相変わらず留守電だった。僕は君ともう一度話がしたい。僕は謝りたい、という内容のメッセージだけを残した。しかし電話が来ることはなかった。


そして一週間が経った。さなえの会社に電話するといつもと違う人間が出て「彼女は昨日付けで退社されました」と言った。どういう事ですか?と訊くと「数日前にその旨の連絡が入り、昨日こちらに来られて事務的な手続きをされました。理由は『一身上の都合』という事だけで、私自身は詳しくは分りません」と淡々と答えた。「どちらに行ったか分りませんか?」と訊いても「その事は申しておりませんでした」と答えるだけで、僕は力なく電話を切った。
手掛かりはなかった。あとは彼女の実家が博多だという事だけだ。場所も連絡先も知らない。そして僕は仕事帰りに練馬にある彼女の部屋に向かった。部屋は既に引き払われていて、大家は「昨日の昼間に彼女と引越し業者がいらっしゃって荷物を積み込んで出て行かれました。それと、行き先については誰にも言わないでくれという事です。」と言った。多分、彼女をレイプした男性に知られたくないのだろう。そして僕にも。更に数日後には携帯が解約された。そして、一切の足取りが消滅した。

僕を支配したのは暗くて濃密な喪失感だった。彼女をレイプした男達を恨み、そして自分自身を恨んだ。僕が彼女に最終的にしてしまった事は結局はあの男達と同じだったのだ。彼女に対する同情も、愛情も、とことん無意味であり、虚構ではなかったのか、あの約束は何だったのか。しかし一番深く傷つき、最も深い哀しみの深淵にいるのは誰でもない彼女なのだ。
その日から僕は彼女を求めて町中を探し回った。あの公園は相変わらず重苦しい不気味な薄明かりに照らされていた。こんな所にいるはずがないじゃないか。と思った。そして駅前の喫茶店、スルメのいるペットショップ、彼女が『クリスマス・キャロル』を買ったあの本屋。町全体が廃車置場の様だった。この辺りの雲が全て圧縮されたみたいにどんよりと空一面を覆っていた。今、彼女のいる場所にはどんな雲があり、どんな星があり、どんな雨が降っているのだろう。そしてどんな風が彼女の体をすり抜けているのだろうか。
部屋の中でもチェット・ベイカーはその物寂しさを一層深く歌い上げ、『クリスマス・キャロル』には何も答えが見つからなかった。
時折、彼女の幻影は僕のペニスを激しく勃起させ、抑制される事のない性欲が激しく頭をもたげて僕を揺れ動かした。そんな時に僕はたまらなく哀しくなった。行き場のない性欲は僕をどこまでも根源的な孤独の淵に繋ぎとめようとしていた。自己完結型であり、一切の留意のない孤独だった。彼女とは繋がっていない、繋がっているのは彼女の映像であり記憶だけなのだ。
時間は容赦なく過ぎていった。さなえの不在を除いては特徴のない毎日だった。僕は彼女を捨て去る事など出来なかった。しかし、誰が彼女を既に捨て去ってしまったのだろうか。それはオマエじゃないかと誰かが言った。誰でもないオマエ自身じゃないか。何を言っているんだ、と。全くの矛盾性は僕を酷く苦しめた。何事も向う側からやって来て、反対側へ去って行く。残るのは錆びついた魂の欠片だけなのだ。僕と、そして彼女の。
いつまでこんな生活が続くのだろう。それは現実的で宿命的な時間の潮流だった。人々のまとった衣服は一枚一枚ゆっくりと薄皮を剥がす様に取り除かれ、反対に街路樹は緑色の葉を少しづつ身にまとっていた。暖かさを帯びた優しい風が吹き始め、季節は既に春を迎えていた。それでも空白を満たすものは何一つなかった。

                      * * * * * * *


 「松田さん、僕はよく分らないけど、あなたを信じれる気がする。ねえ、今度は色々訊きたいんだ。いいですか?」
彼は顔を上げて頷いた。「それはね、あなたの奥さんと生れづして亡くなったお子さんに単に同情しているだけではないんだ。もちろん同情しているし、とても哀しい事で、僕は怒りさえ覚える。激しい怒りを。僕がさなえという女性と過ごして彼女を通して見てきたものとそれは同じだったんだ。僕は彼女を救いたいと思った。そして松田さんも同じ様にそうしようとしている。でもね、僕は彼女を深く傷つけてしまったんだ。より深くね。ねえ、僕はどうすればいいのかな?」
「彼女からは色々聞きました。あなたとの生活の事も。わたくしが彼女と出会ったのはあなたの前から姿を消したすぐ後でした。確かにあなたは酷い事をした。はっきり言ってしまえばあなたは彼女をレイプしたんですよ。精神のレイプです」
「精神のレイプ?」
「そうです。しかしわたくしはあなたをむげに批判したりする立場も、資格もありません。あなたのも言い分もあるでしょう。でも彼女は深く傷つきました。」
僕は黙って頷いた。
「かぶらぎさん、わたくしがこうしてお話しているのは、それはわたくし自身の言葉ではないのかもしれません。それは妻の言葉であり、我が子の言葉なんです。昨日も言いました。さなえさんを救い出すんです。それがわたくしと、かぶらぎさんと、死んだ妻と子供の願いであり、進むべき道なのかもしれません」
「松田さん、変な質問かもしれない。『まず初めに思った事をするのよ』『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』と言い続けた奥さんは何故、死を選んでしまったんでしょうか?」
「わたくしが妻の死からずっと考えていた事はそれなんです。知らない男にレイプされた後に妻が最初に思ったことが自殺だったのかと。向かうべき所が死であったのかと。時には彼女を恨みました。憎みました。同時に自分をも恨みました。あの時、仕事ではなかったらあの様な結果を生んでいなかったであろうと。でもそれは段々と理解出来る様になりました。あの納骨の時の奇妙な経験から生れた特殊な直感力を通して、妻自身がわたくしにそれを教えてくれたんです。わたくし個人はあまりに多くの死に直面しました。両親と妻と子供だけではありません。十八年間の間にあの港では何人もの漁師達が海に飲み込まれて死にました。その度に見る火葬場の煙突の煙はわたくしをどこか遠くへ消し去っていく様な深い虚無感を帯びていました。何故そんなに死と隣合わせの仕事をしなければならないのかと、死の恐怖と対決してまでも生きなければならないのかと。わたくしが漁師をどこか軽蔑し、人を獲物でも捕らえるかの様に簡単に飲み込んでしまう海が嫌いだったのはそのせいだと思います。でも、そうさせたのは弱さだったんです。死を極力遠ざける事。それが妻と出会うまでわたくしの望んだ生き方だったのです。
しかし運転手を始めて、出会って話しを聞いた都会の人間達もまたあの漁師達と一緒で死の恐怖と対決して生きていました。直接的な死ではありません。精神の死であり、夢の死であり、理想の死であり、希望の死であり、愛の死なのです。でも感じました。あらゆる種の死の恐怖に対決しても尚、生き続ける事が実はとても素晴らしい事ではないのかと。死を遠ざける事ではなく受け入れる、しっかりと自分の根底にセットする。そして生きるのです。『まず初めに思ったことをするのよ』それはある意味では直接的に死に結びつく危険を孕んでいるのです。だからわたくし達はあれこれ考え、そこから遠ざける道を模索するのです。『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』と言った妻の言葉は、つまり、死を受け入れ、死をセットしても尚、死と対決して生きていく。その向うにきっと何かがあるだと思います。それは生きながら死を超えるんです。死を超えた強さです。」
続けて言った。
「しかし最も悲劇なのが、否応なしに土足で入り込んでくる死です。それは非常に暴力的で残酷で冷酷です。それはいとも簡単に一瞬のうちに首筋の動脈をスパッと切ってしまうのです。妻とさなえさんを襲ったそれはセットされていない非情な死です。海で死と格闘する漁師達を襲うあらゆる種の波でもありません。それは突如、辺り一面にガソリンを撒かれ、一本のマッチによって一瞬のうちに海面を焼け尽くす炎なのです。岸へ逃れる暇もなく海中に潜る暇もなく、それは体を灰になるまで溶かしてしまうんです。妻は男にレイプされた時点でまさにその炎によって死んだのです。自殺でしたが、死を選んだのではありません。彼女は既に死に絶えていたのです。今では思うのです。多くのお客さんに言ったあらゆる言葉が思い出せないのは、それがわたくし自身の言葉ではなかったからです。それは死んだ妻自身の言葉だったのだと思います。妻がわたくし自身を通して言った叫びだったのです。
『土足で突如入り込んできた冷酷で残酷な死によって、私は一瞬のうちに殺されてしまったのよ。あなた達の中にある死とは全く別のものなのよ。あなた達は生き続ける事が出来るのよ。そうでしょう?』って。すなわち、彼女は死を超えた強さを持って生きようとしていました。しかし、そんな事さえも微塵に砕いてしまう圧倒的な暴力の下ではなす術も無かったんだと思います。」
「松田さん、確かにさなえはレイプされた直後に走ってくる車に身を投げて死のうとしたんです。幸いにそうにはなりませんでしたけど。」
「そうですね。その後に彼女がなんとか生きる道を模索できたのは、かぶらぎさんの存在が大きかったのだと思います。」
「あと、どうしても分らないのは、なぜ、あなたがパチンコの件を知っていたかという事です」
「はい。彼女と出会って彼女の心の映像を見てからというもの、彼女は度々わたくしを指名して特に行く宛てのないドライブをしました。赤坂や渋谷、横浜なんかで拾った事があります。タクシーの中で彼女は色んな話をしました。タクシーの中でしか会った事がありません。当然、あなたの名前も出ましたし、どういう人なのかも詳しく言っておりました。そんな中で本当に偶然ですが、ある日、あなたが初台の大通りでわたくしのタクシーを止めたのです。確かあなたは初台から日本橋まで乗りましたね。あなたの姿を見て不思議な感覚に襲われました。意識を集中すればする程、他の乗客同様に映像が浮かんでくるのです。わたくしの見たのは、あなたが失ったお金に対して落ち込んでいる情景でした。それは次第に輪郭を帯び『5』という二つの数字が見えたんです。その時わたくしは何気に賭け事の話をしました。かまをかけたんです。『競馬かなんかおやりになるんですか?』みたいにです。あなたは『まあ、パチンコ位だけどね』とそんな風に答えました。その時に確信したんです。この人はパチンコをして負けたのだと。ただより詳しい金額は分りませんでした。『5』が二つある。賭けたのです。5500円ではないかとね。そしてもう一つ、あなたを通して見た映像には女性を失った深い悲しみでした。そこから浮かび上がる輪郭がどこか、さなえさんと酷似するのです。その後にさなえさんとお会いした時に聞いたり、感じた映像から、さなえさんを救った男性があの時の男性と同じ人物であると分ったのです。あなたの家が分ったのは彼女に聞いたからでした。さなえさんには言いました。とりあえず、わたくしは鏑木透さんという男性と会って話をしたいと、最初彼女は躊躇していましたが、最後にはあなたの住んでいる所を教えてくれました。それでお伺いしたらやはりあなたでした。あの時の乗客と同じだったんです。」
「でもなんであんな風にやって来たんですか」
「伺っていきなりさなえさんのお知り合いですよね。わたくしは彼女を知っています。彼女に起きた事も彼女とあなたの事も知っています。だから彼女を救いましょう。もし、そんな事を言ったら何が何だか分らないだろうし、信じてもらえないでしょう。警戒するだけです。今回の事は端から端までが全て例の特殊な直感力が基本になって構成されています。それにはパチンコの件を通してあなたにまず信じて貰いたかったからです。それと、あなたがどこまでの意志力を持っているかという事です。彼女を失った悲しみはあっても、あなたの中で過去の事として風化してしまったのであれば、無理矢理にあなたを巻き込みたくなかったんです。」
「あと訊きたい事があります。あなたのその能力で多くの心の病んだ乗客を救う事が出来たのに、なぜ彼女を救う事が出来なかったんですか?」
「わたくしの発する知らない言葉にどんな力があったとしても彼女の問題を最終的な段階までに押し上げられないのは、それが妻を襲った問題と同じだったからです。結局は今こうして生きている我々でしかそれは出来ないのかと思います。あなたとさなえさんを偶然に乗せたのも、彼女を救う事によって、妻が乗り越えられなかった事を同時に解決する事が出来るのではないかと」
「つまり、さなえを救うという事は、同時に奥さんとお子さんを救う事になると?」
「簡単に言えばそういう事です。ただし、厳密に言うと、それはわたくしとかぶらぎさん、わたくし達自らをも救う事になるのです」
「さなえは、僕と松田さんがこうして接触しているのは知っているんですか?」
「いえ、今はまだ知りません。」



僕は煙草を吸い、松田は話し疲れたのか手の平で頬を撫でながら椅子に縛られた様にぐったりとしていた。僕は何を出来るのだろうか、どんな力を持っているのであろうか。何をすべきなのだろうか。さなえは今、何処にいて、何をしているのだろうか。しかしそれを聞き出す為に僕には通過しなければいけない何かがあるのだ。松田が僕に言いつづけている一貫したもの、それを僕は通過して乗り越えなければいけないのだ。何も解決されないのだ。それで初めて僕は彼女のいる場所に辿り着ける気がする。


「松田さん、分りました。抽象的な話からより具体的な話をしましょう。どうすれば彼女を救う事が出来るのですか?方策はあるんですか?」
彼は身を乗り出して言った。「はい。さなえさんの付き合っていたあの男性をタクシーに乗せて全てを喋らせるんです。」
「喋させる?」僕は驚いて訊いた。
「そうです。それをテープに撮って警察に持って行くんです。つまりあの男に全てを吐かせて、あの男の友人共々逮捕させるんです。」
「そんな事が出来るんですか?」
「さっき申した様に、心の映像を見るのも相手が心に仕舞い込んだものを吐露するのも全員ではありません。十人に一人位です。そこに賭けるんです。色々考えました。わたくし一人であの男を誘き呼びよせてタクシーに乗らせる。しかし、それはあまりに現実的に難しいんです。それであなたの力をお借りしたいのです。あなたがあの男と接触して頂いてわたくしのタクシーに偶然乗る機会を作るんです。そして車内であなたがまず、さなえさんの事を持ちかけるんです。当然、わたくしもさなえさんの知り合いとして援護します。そこで彼がいつもの乗客の様に全てを吐露できれば、その一部始終を記録した映像を警察に持ち込むという計画です」
「仮にその男が、あなたの直感力と感応しなければどうするんですか?そんな事知らないって、しらを切ったら」
「その可能性はあります。そしてあの事を知っているわたくしとあなた、さなえさんさえも放ってはおかないでしょう。彼らはその筋の人間です。あらゆる手段を使ってわたくし達を見つけ出して口を封じるでしょう。失敗したら彼女をより危険に晒すでしょう。しかし今の彼女はあの男達の見えない影に怯えています。それは一生続くでしょう。それを取り払わない限り彼女は救われないのです。今はもう彼女自身で警察に行って全てを喋る力も精神力もありません。彼らの存在と受けた傷にどこまでも付回されるのです。だから、最低でもその片方だけでも取り払わないといけません。そしてそれが出来るのはわたくしとあなたなのです。そうする事が出来れば現実的な不安からは開放されます。きっとあなたの元へ戻ってきます。残った心の傷は、わたくしではなくあなた自身が癒してあげるしかありません。だからあなたが必要なんです。わたくし達にとって、まず最初に思った事としてすべきこと、向かうべき所は、決して許されない罪に対してきちんと裁きを受けさせる事。それをするという事の危険、すなわち死の恐怖に対決しても尚進んで行かなくてはならないのだという事なのです。」
「分りました。失敗したら僕らは危険になります。それはいいとして、彼女はどうなるのですか?彼女の判断を超えた所で僕らが勝手に行動してしまう事については?」
「かぶらぎさん、確かにあの男が感応しない可能性もあります。でも、分るんです。彼は絶対言うでしょう。漠然としてですが確信はあります。どうか信じて下さい。大丈夫です。」
彼は何やら地図みたいなものを書いた紙を渡し、立ち上がって言った。
「いいですか。決行は来週の日曜日です。夕方五時に新宿で会いましょう。詳しい場所はここに書いてあります。わたくしは当然タクシーで伺います。かぶらぎさんはスーツを着て来てください。ネクタイは要りません。詳しい事は当日お話します。」
僕は頷いた。
「今日は色々お話しましてわたくしは少々疲れました。これで失礼させて頂きます。では。」
赤いベレー帽を被り、ジャケットは手に抱えたまま彼は部屋を出て行った。



 次の日曜日の夕方、松田に指定された場所で彼と会った。太陽はまだ西の空にどっかりと浮かんでいて、晴天の空の外れに月がコンパスで切り取った様に留まっていた。街は明るいうちから賑わいを帯びていて、不揃いのビル群が遠くの空に頭を覗かせていた。
路肩に駐車したタクシーの中からどこか緊張した表情の松田が降りてきて、「こんな所まで来て頂いてすみません」と礼儀正しく頭を下げて言った。僕らはガードレールに座り、松田から矢野というさなえの昔の彼氏についての詳しい情報を聞いた。

「矢野真一という男は埼玉生れの三三歳で、高校の時は暴走族なんかでかなり地元では有名になった男です。高校を卒業してから新宿でパチンコ屋の店員、ホストなんかをやった後、車のディーラーの職に就いて二八歳の時に結婚。しかし三十歳で離婚してます。仕事を辞めて新宿でフラフラしていた時に、昔交友のあった人間との付き合いが復活し、風俗嬢のスカウトを始めました。それはある組の系列が経営する幾つかの風俗店を専門に女性を送り込む仕事でした。組が直接に斡旋をして、後で問題が起きるとヤバイので形式的にはそういった彼の様なスカウトのプロが独立してやっているという形態をとっているんです。街中のスカウトだけでなく、組の関連の消費者金融に多額の負債を抱えている女性の情報を得て、彼女らに近づく。組の傘下に金融があり、風俗店があるが、その女性達にその繋がりを知られると厄介な事になるし、働くのに躊躇ってしまう。よって、負債を抱えているという情報源をあるルートから得たのだが手っ取り早い返済方法があるからと言って風俗の仕事を紹介するんです。そういう女性達はある程度の返済のめどが立つとまた借金をする癖を持っている。そして今度は、そのスカウトマンなどが相談に乗り、別な金融会社や違う給料の高い風俗店を紹介する。そこは最初の金融会社と全く関連のない様に装いますが、結局は同じ系列となっています。彼女の稼ぎも借金の利子も全て吸い上げる大元は一緒になっているというしくみです。また、家出少女なんかをスカウトして、金を稼げるからと言って風俗で働かせる事もしています。
特に縄張りが細分化され新宿界隈では、一つのグループが端から端までやらないと微妙な対立を生んでややこしい問題となるんです。つまり金融、風俗、などのまる抱えです。スカウト達は紹介料と女性らの稼ぎから一部マージンを取る。スカウト達は力を持つと、芸能プロダクションなどとのパイプを持ち、そこで使えないモデルや女優の卵などを紹介してもらいます。その子らは、養成費、レッスン費などが払えなくなったり、プロダクションとの契約違反などをした子らばかりで、プロダクションが直接風俗店などを紹介するとその筋との関係が表に出る事をイメージ的に最も嫌う世界では間に仲介者を立てます。その役割もスカウト達が行います。ただ、何か問題があるとその責任はスカウト達が被る。トカゲの尻尾切りですね。
矢野がさなえさんの家に転がり込んだのは、彼の紹介した女の子が何かやらかしたのでしょう。店のイメージを壊す様な事とか、突然いなくなったとか。その場合、女の子が見つからない時は矢野みたいのに責任が回るのです。多分、さなえさんの家に来ていた男達はスカウト達を管轄、もしくは窓口になっている上の者です。そこで金に困った矢野はさなえさんの金に手を付けた。それでも足りないのか、男達のどちらかがさなえさんを風俗に入れさせる案を持ちかけたのでしょう。もしくは彼女を好きにしてもいいと言ったのかもしれません。挙句の果てに最悪、薬浸けにされたりする事もあります。彼女が、彼らから逃げたのはそういう事を薄々感じていたのかもしれません。

わたくしはドライバーを始めてからの五年間で色んな人を乗せました。よく言うでしょう。美味しいラーメン屋と景気の動向に関してはタクシーのドライバーに訊けと。同時に裏社会の事や政治の世界の裏側も結構詳しくなるんです。一年前位でしたか、ある男を乗せたんですが、その男は新宿辺りでは有名なその筋の人間でしたが足を洗いたいと思っていたらしく、いつもの直感力で彼と色々話した後、数ヶ月後に、足を洗いましたと、突然会いに来ました。辞める時には酷い仕打ちもあったのですが、今はこうしてカタギの仕事をしていると、とても感謝してくれました。それから結構、彼との付き合いが始まって、非番の時にはたまに飲みに行く様な仲になりました。
さなえさんから矢野真一という名前を聞いて思い出したのは、その乗客の事です。レイプの事など詳しい事は話ませんでしたが、わたくしがその男を捜していると言うと、幾つかのパイプを使って調べてくれました。それが今話た事です。彼らの世界は思ったより狭いですから。そして、その世界の仕事や仕組みなど色々教えてくれました。
さて、かぶらぎさんは、矢野に近づく際に芸能プロの男として接触してもらいます。『プラザエージェンシー』という有名なプロダクションを知っていますよね。その傘下にも幾つかの小さなプロダクションがあるのですが、そこに『KSKプロダクション』というのがあります。そこの人間になって頂きます。『KSKプロダクション』はレースクイーンや雑誌のモデルなどを抱える傍ら、ヌード雑誌やアダルトビデオなどに出ている様な女の子も抱えています。その子達の多くは訳ありです。つまり借金です。『KSKプロダクション』が関係しているのが主に矢野のいるグループなんです。仕事に穴を空けたり、契約違反をしたり、借金を抱えたどうしようもない子らを矢野の様な人間に紹介して一部の稼ぎを取ったり、借金の返済にあてさせたりするのです。スカウトの人間は幾つかの風俗店の中から女の子の不足している店、その子の容姿やタイプから適当な店を選んで送り込むのです。
基本的にはこうです。矢野は歌舞伎町の明治通りに近い辺りを拠点にしています。そこで接触してもらって『KSKプロダクション』の人間だと言う。そして、矢野真一さんですよね、といえばそれだけで話はつきます。名刺などは必要ありません。そんなややこしい事は彼らの慣習ではむしろ後々に面倒になるので嫌がります。
そして、どこどこに女の子を待機させているから今から会って欲しいという。そこでわたくしのタクシーがやって来る。『KSKプロダクション』は目黒にあります。事務所ではマズイので近くの喫茶店に待たせる様にしてあると言えばいいでしょう。そして、これから事務所に、今から向かうという電話をすると言ってわたくしに電話してください。そこで近くで待機しているわたくしが伺います。



それから僕らは、矢野のいるポイントまで歩いて向かった。矢野は歌舞伎町から一本入った明治通りに繋がる裏道に立っていた。松田は遠目から「あの男です」と指差して言った。そして「では、宜しくお願いします。」と言って自分の携帯番号を書いた紙を僕に渡し、タクシーのある場所に戻って行った。
矢野は植え込みに座って煙草を吸っていた。胸元まで開いた麻の白いシャツを着て、青のチノパンを履いていた。肩幅があり、黒々とした太い腕には高価そうなブレスレッドがぶら下がっていた。日焼けサロンで焼いているであろう顔は全体が角張っていて眼光は鋭かった。長めの髪は金髪でオールバックにしていて後ろで束ねられていた。
僕はゆっくりと彼に近づいた。彼は植え込みに座りながら、手の平を組んだまま通り過ぎる若い女性達を上目使いで物色していた。彼の携帯が突然鳴ったので、僕は少し離れた植え込みに座って空を見上げていた。町の明かりが星すらもぼやけさせていた。
彼の電話が終ると僕は彼の横に座り、声を掛けた。
「矢野真一さんですよね?」
彼は横に座った僕の顔を警戒心を帯びた神妙な顔つきで見つめ、紺のスーツ姿でノーネクタイの僕の格好を仔細に端から端までに視線を配っていた。彼は何も言わなかった。
「KSKプロダクションの高田と申します」
そう言うと彼はそっと立ち上がって僕の前に立ち、見下ろした。鋭い目つきが僅かに緩み、硬く結ばれていた薄い唇が小さく動いた。
「そうです。矢野ですが」
僕は立ち上がると彼の胸元のネックレスが不気味に光るのが見えた。彼はたくわえた顎鬚に手をやったまま、もう一度、僕の全身に注意深く目を凝らしていた。
「ウチの子を紹介したいのですが」僕はゆっくりと言った。
彼は目をぎょろっとさせてから一層思慮深い顔で僕の顔を覗き込んで、しばらくの間、唇を舌で舐めながら何かの考えにふけっている様だった。
「高田さんと言いましたね。いきなりでびっくりしましたよ。普通はまず電話など掛けてくるはずなんですが」
「そうですね。失礼しました。ちょうど別件で新宿に来ましてね。実は先程、会社から電話があって、スカウトの矢野さんと会って女の子の面接のセッティングをしてくれと。矢野さんの事は実は存じ上げてますし、この辺りでこの時間にいらっしゃるのは知っていましたから」
彼はポケットからメンソールの煙草を取り出して火をつけて目を細めながら辺りをキョロキョロと見回していた。
「分りました。で、女の子は何人で幾つですか?」
「はい、二十歳と二二歳の子、二人です。」
彼は何かをじっと考えた後、時計をちらりと見て訊いてきた。
「まあ、いいでしょう。で、その子らとこれから会えるんでしょうか?」
「ええ、目黒の会社にいますが、近くの喫茶店に来させましょう。」
矢野は煙草を捨てて足元で消しながら「いいですよ」と言った。
僕はその場で松田に繋がる電話を掛けた。
「高田です。矢野さんとこれから向かうので、彼女らを駅前の例の喫茶店で待てせておいて下さい。三十分後に行きます」
僕らは無言のまま明治通りに出て片手を上げた。そこに予定通り偶然を装ったシルバーに青いラインの入った松田のタクシーが現われた。
「タクシーで行きましょう。」
タクシーに乗り込み、松田に「目黒駅前まで」と言った。矢野は足を組んだまま煙草を取りだし窓を開けた。ミラー越しに冷静な顔をした松田の表情が見えた。明治通りを夕刻の喧騒の中をひたすら南に走っていた。僕ら三人は沈黙の深淵の中に沈んでいった。矢野は仕舞には目を閉じて何か瞑想にふけっている様だった。目を閉じたままの矢野がそのままの姿勢で口を開いた。
「おたくの浅沼さんは最近どうですか?この前、紹介して頂いた子がねえ、ちょっと色々あってさあ」
浅沼って誰だ?きっと僕の上司の立場の人間なのだろう。
「ええ、元気ですよ。」と適当に答えた。
「まあ、あなたに言ってもしょうがないですね」彼は、僕の言葉を聞くまでもなく言った。
僕は取り繕った笑いを浮かべ、松田は相変わらず前方を凝視したままハンドルをしっかりと掴んでいた。細い目は居眠りをしているとさえ見えた。再び静寂が訪れて、生暖かい風が車内で対流していた。煙草の煙は歪にゆがみながら消え失せていった。車は渋谷に差し掛かっていた。やけに喉が乾いて緊張して首筋がじっとりと濡れ始めていたのでシャツの第一ボタンを外して緩めながらはっきりした声で言った。松田は僕の様子を伺っていた。
「矢野さん、実は待たせてある子なんですが」
矢野が真面目な顔つきで振り向いた。「はい」
僕は小さく深呼吸をして言った。
「待たせてある子なんですが、滝田さなえという女性です」
その瞬間、矢野の目が異様に大きく見開いて僕の表情に釘づけになって固まっていた。
「滝田さなえをご存知でしょう?矢野さん」
矢野は唇を噛んだまま何か言おうとしたが、声が出ないらしい。僕は続けて言った。
「知っているはずです。」
「高田さん、何を言っているんですか?」彼は抑揚のない声で言った。彼の眼差しは驚きと困惑の表情を孕んでいて、僕の言っている言葉に肩をすくめた。「高田さん、その滝田さなえという女性が風俗で働くというんですか?」
彼は奇妙な笑みを浮かべていた。僕は続けてはっきりと答えた。
「いいえ、違います。ねえ、矢野さん、あなたは滝田さなえと付き合い、彼女の金を使い込み、あなたの友人を使ってレイプした。そうでしょう?」
彼はそれまでの表情とは明らかに違う殺気に満ちた微笑を浮かべていた。
「高田さん、あなた一体誰ですか?女の子の件は嘘ですか?」
その時、松田の咳払いが聞こえた。彼は松田に向かって声を上げて言った。
「運転手さん、停めてもらいますか?」
松田は聞こえない振りをしたまま運転を続けていた。矢野は更に声を大きくして叫んだ。
「おい、停めろよ。俺は降りるからな」
今度は松田は前方を見つめたまま口を開けた。
「矢野さん、滝田さなえという女性をご存知ですね」
矢野は松田の後ろ姿と僕の表情に何度も目を移し、その顔は次第に赤みを帯びていた。
「なあ、オマエら、一体なんなんだ?おい、車を停めろ。」
矢野は松田のシートを拳で後ろから思い切り叩いた。松田は車を左折させて人通りのない静かな道に入っていた。矢野はその鋭い目つきで顎を引きつかせながら何か言葉を捜している様だった。日焼けして硬直した表情が次第に薄っすらと青ざめていった。
「矢野さん、あなたは知り合い二人を使って彼女をレイプしたんだ」
彼の腕には隆々と血管が浮かび上がっていて、突然、彼は僕の胸ぐらを掴んで低い声で言った。
「あんた、何言ってるんだ?おい。車を停めろ、停めるんだ。」
彼は叫び声を上げた。その瞬間、僕の胸ぐらを掴んだまま窓ガラスに思い切り押し付けた。後頭部が当たり激しい痛みが駆け抜けた。僕は頭を押えながらもう一度言った。
「矢野さん、そうだろ。あなたは彼女の金をおろして使い込み、友人を使ってレイプしたんだ」
矢野は今度は松田を後ろから羽交い絞めにすると車が激しく左右に揺れた。対向車のクラクションが鋭く響いた。僕は矢野の後ろから松田を捉えた彼の腕を解こうと覆い被さった。すると彼の肘が大きくしなって僕の胸元を強くえぐった。もう一度飛び掛り、彼の両手を取ってそのまま僕らはシートの上に転げ落ちた。車は速度を落とし、松田は呼吸を荒くしながら運転に集中していた。矢野は起き上がると何かをわめき散らしてドアに手をかけたので、僕は咄嗟に彼の手を取り思い切り引き寄せた。
「何をするんだ、この野郎」
彼の片足が方向を変えて一瞬の速さで僕の腹部に沈み込んだ。衝撃で生唾が喉を伝って口を一杯にした。彼は再度ドアに手を掛けた瞬間、車は急停車して矢野の体は前のシートに頭を埋め込ませたまま激しく衝突した。シートの軋む音と一緒に松田は振り返り、うずくまったままの矢野を見下ろして声を張り上げて言った。その表情は燃え立つ様な怒りに溢れ、それまで僕が見た事のある松田のどの表情とも違っていた。
「君は、滝田さなえを弄び、レイプした。そうだろ?」
矢野はぶつけた頭を抱えたまま小さく震えていた。それでも片手はドアに忍び寄っていたので、僕は痛みに耐えながら彼の上からその手を奪った。彼はゆっくりと顔を上げると、目は異常に見開いていて赤く充血していた。口は半開きのまま肩で息を吸っている様だった。矢野は不気味に笑いながらゆっくりと言った。
「ははは、そうだよ。俺はあの女を利用した。金も使い込んださ。そうだよ」
そこまで言うと彼はシートにふん反り返りながら息を切らしていた。目は焦点を失っていてうつろだった。
「おい、俺は何を言ってるんだ。俺は何を言ってるんだ。おい」
彼は突然、頭を下げて嘔吐した。異様な臭いが車内を満たした。「おい、俺は・・・そうだよ。あの女は便所だったんだ。」
「そうだ、もっと言うんだ。君はあの人に酷いことをしたんだ」松田は振り返ったまま落ち着いた表情で矢野を見下ろして言った。
矢野は汗だくになった顔で交互に僕らを見つめた。口元には黄色く濁ったどろんとした液体が滴り落ちていた。
「言わないぞ、言うもんか」彼は自分の喉元を手の平で押え、弱々しく声を出さず笑ったままだった。
「言うんだ」松田が叫んだ。
「うっ、言うもんか」彼は再び嘔吐した。今度は透明のぬめっとした液体が彼のだらんと垂れた舌の上を零れ落ちて、濡れて光っていた。
「そうだよ。あの女は警察に通報しやがった。だからな、仕返しをしたんだ。ちょうどあの女に目をつけていた奴らに好きにさせたんだよ。おい、俺は何を言ってるんだ」
「誰なんだ、そいつらは」松田の声が甲高く響いた。
「知るか、知るもんか、絶対言わないからな」矢野は擦れた声で叫び、結ばれた髪の一部がほつれていた。矢野の下半身は力を失ったのかその場から動くのにも足がもつれて上半身だけがシートの上で左右に大きく揺れていた。苦痛に歪んだ顔から汗が吹き出て、怯えと怒りが奇妙に入り混じっていた。
「言わないぞ」彼は小刻みに震えた。顔を手で覆い震えていた。「言うか、言えるわけがないだろう。」突然声を張り上げて発狂した。顔の全ての血管が隆起して、彼の腕が僕のスーツを捉えても、既にその力は失って弱々しいものだった。喉を鳴らして笑いながら、顔を冷笑的にゆがめて言った。
「ははは、そうだよ。あの女を犯したのはな・・・犯したのはな・・黒石という男と平井という男だ。おおお、何を喋っているんだ」
体中の力が抜け落ちたのか、気落ちした彼はシートにもたれてぐったりしていた。白い麻のシャツは嘔吐物でその色を失っている始末だった。僕を見つめる彼の目にはあらゆる感情がその一点に集中していて、その冷酷な眼差しの中で僕は反射的に彼の向うのドアに手を掛けて開けた。
「もういい、降りるんだ。矢野さん」
それまでの彼の威勢の良い表情はもうひとかけらもなかった。青白く怯えきって、何か諦めた表情で僕らを見つめていた。唇は痙攣し、これ以上言葉を口にする事は出来ない様だった。彼はそのまま路上に転げ落ち、アスファルトの上で手を付きながら胃の中の残りを全て吐き出していた。体全体で呼吸をしていたその姿は奇怪な生物の終焉にさえ見え、このまま倒れ込んで死んでしまうのかとさえ思った。


ドアが自動に閉まり、松田が「行きましょう」と言ってゆっくりと車を発車させた。振り返ると矢野は道の真ん中で両手を地面について固まったままぴくりとも動かなかった。彼の姿が見えなくなると、僕は窓を全て開ける様に松田に頼み、煙草に火をつけて、既に薄暗くなった町並みをぼんやりと眺めていた。腹部と頭の痛みは矢野の嘔吐によって出来た激しい異臭によって消え失せていた。十分程走ると車は静かに停まった。
「かぶらぎさん、ちやんと撮れましたよ」助手席のダッシュボードの隙間に小さいカメラが見えた。「これからこれを持って警察に行きます。かぶらぎさんはここで降りてください」彼はミラー越しに言った。
「松田さん」
「いいんです。後はわたくしがやります。」彼は静かに囁く様に言った。
「ねえ、松田さん。僕は、あなたの直感力に感応しなかったのかな?」
「はい。わたくしはなるべく矢野だけに集中していましたから。さて、かぶらぎさん、これから少し面倒な事が色々あるかと思います。それはある程度覚悟しておいて下さい。このテープを見せれば、あなたも警察に呼ばれるかもしれない」
「いや、構わないです」
車から降りるとそこは住宅街のど真ん中だった。自分の立っている場所も全く分らなかった。
「松田さん、車の中が大分汚れてしまいましたね」僕はそう言ってポケットから5500円の入った例の封筒を取り出して彼に渡した。「これはそもそもあなたのお金です。少し足りないかもしれませんが」
そう言うと彼はにっこりと笑って黙って受け取って言った。
「かぶらぎさん、ありがとうございました。見事でしたよ」物柔らかで満面の笑みだった。「今日はこれで。では」
彼は頭をペコリと下げて車を走らせて行ってしまった。僕は見えなくなるまでしばらく立ったまま車の姿を目で追っていた。時計は既に夜の七時でそれでも生暖かい風が全身を包んで流れ去っていった。僕は町の喧騒が聞こえる方向へ歩き出した。空はどす黒く、数えられる位の夏色をした星がひっそりと浮かんでいた。


 
それからの二週間は特に警察からの連絡はなく静かな毎日だった。それでもどことなく落ち着かず、さなえと松田の事を時折考えていた。気になって数回、松田に電話をしたが連絡は取れなかった。
日曜日の昼間、僕は部屋の掃除をして一息ついていると、突然、ドアを誰かがノックした。松田だった。夏が十分過ぎるほど足元に忍び寄っていたので、彼は赤いベレー帽を被っていたもののジャケットの方は着ていなかった。部屋に招き入れ、オレンジジュースを炭酸で割って少しだけガムシロップを垂らしたものをテーブルに置いた。彼はパタパタと胸元に風を送りながら椅子に腰掛けて喋りだした。
彼が言うには、あの後警察に行ってビデオを見せるが、僕らが高圧的な態度で矢野に対して押し迫った事、矢野の様子が普通でなく内容全体が演劇か芝居の様に受け止められた事から、結果的に警察の関心を得ることはそれ程出来なかったらしい。しかし、矢野は以前からマークされていた人物で、ビデオがきっかけで警察に任意同行され、取り調べでは最初は黙秘していたが、結局は根負けして全てを話した。その中で滝田さなえのお金の事、黒石と平井という知り合いに彼女をレイプさせた事を自白。更に彼は未成年をスカウトして風俗店で働かせていた事も発覚してしまう。黒石と平井も連行され、警察に呼ばれたさなえも事の一部始終を証言。黒石と平井の体液と指紋が彼女の当日の衣服から発見されてそれが決めてとなった。彼ら二人は窃盗と傷害で執行猶予中で、今回の件で数年の実刑が決定するだろう。そして矢野は、スカウトした女性の家へ転がり込んで住んでいたのだが、その部屋からは捜査の結果、微量の覚せい剤が発見される。様々な刑が重なり、十年は服役するだろうという事であった。

松田が喋り終わる頃にはグラスはとっくに空になっていたが、ジュースが切れたので新しいグラスに氷とミネラルウォーターを入れた。
彼は取り出したハンカチで頭を拭きながら、表情には終始安堵感が漂っていた。
「うまくいってよかったですね」僕は微笑んで言った。
「ええ、最初はタクシーで矢野が告白しなかったらどうしようかと不安でした。まあ、とにかくこれで終りました」
彼は何度も自分を納得させる様に頷きながら、感傷的な表情を浮かべていた。
「松田さん、さなえの事ですが」
「そうですね。ちゃんとお話ししなければなりません。」彼はそう言って、落ち着いた表情で口を開いた。
「彼女はあなたの元を去ってから、しばらく都内のホテルを点々としておりました。その時、わたくしは出会ったのです。彼女は考えた結果、仕事を辞め、実家にも帰らず、現在は高崎にいる女友達の家に身を寄せております。わたくしと会う時はわざわざ都内まで出て来てくれました。彼女に今回の件、すなわち矢野を捕まえるという件に関しては最初のうちは悩んでいましたが、かぶらぎさんがお力になってくれるという事を仰ったら、わたくし達に一任してくれました。彼女は警察に呼ばれて、最初は困惑しておりましたが、結果的に彼らが捕まって大分安心されたかと思います。更に、あなたが今回の件で尽力された事はとても喜んでいましたし、かぶらぎさんが、あなたに会いたがっている。そしてあなたにしてしまった事に対して深く後悔されているという事を申しました。」
彼はポケットから小さな紙切れをテーブルの上に置いて、僕にそっと差し出した。
「彼女の今の番号です。あなたにお渡し下さいと」僕は黙って受け取りポケットにしまった。
「松田さん、最後に訊きたいんだ。あなたはもしかしたらこの数年間、あたなと奥さんをレイプした人間を捜し続けていたんじゃないですか?」
彼は僕の言葉を深く噛み砕く様に聞き入り、しばらく考えていた。その目はどこまでも澄んでいた。
「そうです。その通りです。そもそもタクシーの運転手になったのもそのせいです。東京でこれだけの間、タクシーの運転手をやっていたのですから、もしかしたら偶然乗り合わせる可能性だって無きにしもあらずです。わたくしの例の能力も実はその為だったのではと思います。つまり、その男を見つけ出して復讐する為です。だから妻があの様な力をわたくしに与えたのではないかと。でもですね、不思議なんです。あの日、矢野の件があってから一切、例の直感力がなくなってしまったんです。あの日を境に映像も何も感じ取れなくなってしまいました。何故かは分りません。でも、わたくしはこれで良かったのだと思います。もしこれから先、いつか妻をレイプした男を乗せていたら、もしかしたら降ろした後にひき殺していたかもしれません。」
彼は続けた。
「でも、今回のさなえさんの件を通して、多分ですが、死んだ妻と我が子の何かが清算されたのだと思います。」その時の彼の目はどこまでも深く、優しさを帯びていた。
「松田さん、僕もそう思うよ」
僕は煙草を吹かしたまま、蛍光灯の光を見つめていた。月光の様に白い光が淡く舞い降りていた。


「かぶらぎさん、、わたくしは今の会社を辞める事になりました。幾らなんでもカメラを忍ばせて乗客を撮るというのはマズかったらしく、結局はクビです」彼は笑って言った。「それでわたくしは東京を離れます」
「えっ? どこへ行くの?」あまりの唐突さに驚いて声を上げた。
「静岡です。あの漁港の町に戻ります。結局はあそこが一番落ち着くのかもしれません。まあ、この歳で漁師は出来ないでしょう。あの辺りでまたタクシーの運転手でもやりますよ。海を見ながらのんびり暮らします」
「寂しくなりますね」と僕は力なく言った。彼は頷いた。
僕は想像した。知らない漁港の町を。潮の香りと船の油の臭いがカオスを作り出して、まだ薄暗い朝早くに太平洋に向かって出港していく船の群れ。太陽が昇るときらきらと海を照らし、カモメが澄み渡った青空に浮遊する。午後になると幼い子供達が砂浜で貝を採り、離れた防波堤では、高校生位の少年達が海に飛び込んで遊んでいる。赤く染まった黄昏時には、海から戻った漁師達が頭に巻いたタオルで汗を拭きながら採った魚介類を手早く陸揚げする。その様子を子供を抱いた漁師の妻達が遠くから眺めている。



「かぶらぎさん、そろそろ行きます。」
彼はゆっくり立ち上がって玄関へ向かった。そして振り返って染み入る様な寂しい表情で言った。
「わたくしは、かぶらぎさんとさなえさんとはもう会えないかもしれません。でも、こんな男がいたという事だけは覚えていて下さい。」
彼は僕に手を差し伸べて握手をした。その手は三五歳にしては小さくて柔らかく、まるで子供の様だった。
「忘れないよ」
彼は一番初めに来た時と同じ様に深々とペコリと頭を下げて「さよなら」と微笑んで言った。
「さよなら」と僕は言った。



扉が鈍い音を立てて閉まった後、そのグレーでのっぺりとした分厚い鉄の板をぼんやりと眺めていた。ポケットにあった小さい紙切れには、丸みを帯びた彼女の字で知らない番号と一緒に「さなえ」と書いてあった。
僕はゆっくりと一つ一つのボタンを押した。その度に命が宿った様な機械音が聞こえた。何度目かのコールの後に彼女の擦れた声が遠くから微かに聞こえた。

「もしもし」
「もしもし」と僕は言った。
とても長い沈黙だった。これまで僕と彼女とは数え切れない沈黙を通して繋がっていた。しかしこれ程、暖かで柔らかい沈黙はなかった。そして、その沈黙はもう沈黙でなくなろうとしていた。彼女がそれをまさに今、違う形に変えようとしていた。
「ねえ、松田さんに新しい番号を教えてからのこの数日はね、私は本当に本当に、あなたの電話を待っていたの。分娩室の前の廊下をうろうろしている旦那さんみたいにね。携帯が鳴る度にはっとして呼吸が止まってしまいそうになるの。寝てる時でも、どんな時でも、携帯が震え、音を発する度に胸の奥にあるドロドロしたものが気化して皮膚を通って蒸発していく感じなの」
僕は言葉を捜していた。そして体の中枢でゆっくりと頭をもたげる何かを感じた。
「ねえ、僕は謝らなければならないんだ。君の約束を破り、君を深く傷つけてしまった」
僕の言葉はどこかへ吸い上げられて山の頂きの向うの見えないどこかにその着地点を捜している様だった。
「もういいのよ。」その言葉はまるで綺麗に刈り整えられた芝生に染み込む細い雨だった。「でもね、聞いて欲しいの。私は、あなたと出会った最初の頃に何度自殺しようとしたか。本当よ。私はあの時、あの男達が私に入ってきた瞬間に私の精神は殺されたの。死んだの。そして肉体も太いチューブで体内の血液を全部抜かれてしまった感じなの。麻痺してただの個体として存在しているだけなの。だから、肉体を殺すことは私にとってそれ程難しい事ではなかった。そうでしょう?私の半分はもう既に死んでしまっているのよ。だから残りの半分を殺すことに何の抵抗もなかったの。でもね、あなたと出会ってから、残りの半分を殺すことが、それを考えることが何故か辛くなったの。精神は死んだまま、それでも肉体、私の肌や髪の毛や唇にあなたが触れる度にね、もう肉体だけに独自の生命が宿ったみたいに、あなたに寄りかかってちゃんと生きようとしてるの。その生命力は僅かながら少しづつ私の精神の方にも移り流れていってね、ちょっとづつだけど人間らしい呼吸を始めるの。でもね、あなたのやった事を見てね、私は再び薄暗い海の地平に一人小さな舟に揺られているの。空は絶望、海は死なのよ。手を伸ばせば絶望の中に私自身が吸い込まれて溶けてしまいそうになるの。そして海面を指先を撫でれば、死が私を飲みこみそうになるの。分る?」
「わかると思う」と僕は言った。
「あなたと知り合って、私は波に乗って着実に陸へ向かって進んでいたのよ。それをあなたはもう一度沖に向かって突き放したの。砂浜が遠ざかる様子を見ながら、もう一度沖へ向かって流されて行くの。辺りは日が暮れて、星も月もない海の真ん中に一人でいるのよ。彼方の浜辺には民家の小さな明かりが点々と蛍みたいに見えるの。その明かりを手掛かりに浜辺にあなたの姿を探している。あなたの人影をね。でもね、声も出ないの、恐怖と絶望でね。そしてその家の明かりも一つ、また一つ消えていくのよ。音も明かりもない、風も吹かない、そんな暗い海の真ん中でね。」
目を閉じてじっと耳を澄ましていた。体の芯が湿った空気のかたまりに包まれていく気分だった。
「ねえ、聞いてる?私はね、私は二度殺されたのよ。アイツとあなたに。でもアイツを恨んで憎んでも、あなたのことは出来なかった。いつか遠い砂浜にあなたが再び現われるのを舟の淵に掴まりながらじっと待ってたの。それしか出来なかった。そう信じるしかなかった。そうでもしないと本当に私の肉体は海に飲み込まれ、精神は空に吸い取られていってしまいそうになるの。でもね、私はあなたに感謝すべきなのよ。あなたのやった事はとっても酷いこと。ただ、あなたは最初に私を救ってくれた。そして、私をね、これからとても永い間、支配し続けるであろう凍りつく様な恐怖からあなたは解き放ってくれた。嬉しいの。本当よ。凄く嬉しくて、あなたにとても感謝しているの」
その不確かな空気のかたまりが僕の口を開かせた。
「ねえ、確かに僕は君という人間をある種、殺してしまったかもしれない。でもね、僕にはそうするしかなかった。いや、そうする事しか出来なかったんだ。あの時の僕にとってはそうする選択肢しかなかった。そうさせたのは何か分る?それは弱さなんだ。人間の弱さなんだ。人間の中のある種の弱さは瞬間的に自分を守ると同時に、誰かをその何百倍も傷つけてしまうものなんだ。やがて、誰かにとってのその傷は最終的には何より自分自身を苦しめるんだ。僕は君を守りたいと思った。死ほどの苦しみの淵からなんとか引きずりだそうとした。しかし僕にはその術も、力もないのではないかと不安だったんだ。むしろ僕が、君が這い上がろうとしている窪地に立って、入り口を塞いでるのかとさえ思えた。そして、それがたまらなく嫌だった。でも本当は、僕は君を守ろうとした以上に自分を守ろうとしていたんだ。きっとそうなんだ」


何を言っているんだ。何が言いたいんだ。松田の死んだ妻の言葉を思い出した。『まず初めに思ったことをするのよ』『人間はどこへ向かうべきなのか、ちゃんと分っているの』
その言葉を何度も反芻した。そして息を大きく吸い込み、僕を後ろから手を伸ばして掴もうとする何かを振り払い、はっきりと言った。
「理由はうまく言えないけど、僕は君が必要なんだ。そして君も僕が必要なんだ。僕にしか君を救えないし、君もそのことは分っている。君を深く損なったものを取り戻すためには僕がいなきゃいけない。僕は君を救う自信があるし、その為に僕は弱さを捨てたんだ。弱さが僕を蝕む前に、僕は歩き出す強さを身に付けたんだ。その強さが君を守るんだ。」
しんとする午後の深い温もりの中で、なだらかな時間が過ぎていった。僕らにとっての最後の沈黙だった。とてもとても長い沈黙だった。その間、僕はあの公園と松田の顔を思い出した。知らない漁港の町をもう一度想像してみた。スルメの事も思い出した。スルメは何処に行ったのだろうか。レナの細くてごつごつとした華奢な背中も思い出した。彼女とは二度と遭わないだろう。彼女はあの後バンドを辞めてどこかに消えてしまった。雑踏の中に立っている矢野も思い出した。しかし、そこに象徴的なものは何一つなかった。僕が見つけて、感じるのは、電話の向うの現実的な感触だった。それは音となり、声となった。そして僕の耳にしっかりと届いた。



「ねえ、これからあなたに会いに行くわ。まだ、あの硬い硬いベッドで寝ているのかしら?」
「死後硬直ベッド」と僕は答えた。
「そう、死後硬直ベッド」電話の向うから、ぱちんと指を鳴らす音が聞こえた。
「待ってるよ」
「6時に行くわ」
そして、電話は唐突に切れた。

時計はまだ一時だった。それからかなり長い間、立ったまま握り締めた携帯電話を眺めていた。ごつごつした感触は皮膚の表面に沈んでいた。僕は何度も数字と記号のボタンを端から端まで一つづつ読み取っていた。それは地平に浮かぶ舟みたいだった。でも今は違う、ゆっくりと岸へ向かって漕ぎはじめたのだ。



奥の部屋に戻り、窓を全て開け放った。柔らかくて羽毛みたいな日差しが差し込んだ夏の日曜の午後だった。ベッドに寝そべり、あの男が初めて訪れて来た時以来読んでいなかった『クリスマス・キャロル』を読んだ。一時間近くかけて読み終わり、パタンと閉じて枕元に置いた。


そっと目を閉じた。奥行きのないのっぺりとした暗闇の中に何百という粒子の粒が漂っていた。やがて一つ、また一つとゆっくりと消えていった。最後には何もないただの暗闇となった。しかし、そこはそれまでの暗闇ではなかった。どこまでも広く、どこまでも深く、どこにでも行ける暗闇だった。気の遠くなる位の広大な暗闇だった。どこに居て、どこへ向かおうとしているのか、僕は、いや、僕らには分っている暗闇だった。遥か遠くから列車の音が聞こえた。暗闇を切り進む音だった。そして僕は、僅かな眠りについた。(了)

地底人と、コーヒーの功罪について。

 

どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。

 僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色の毛布に包まれながら静かな時を過ごしていた。白い三角形の陽の刻印が彼女の細い首筋を捉えて、カーテンの隙間を通って空からの使者達が舞い降りようとしていた。

「ねえ、眩しいの。カーテン閉めて。ねえ。お願い」

10センチ程の隙間を消し去ると、逃亡者の地下室の様に暗い世界が惜しげも無く広がっていった。
「なんで、コーヒーにクリームと砂糖を入れるの?」
僕たちはベットの上でお揃いのマグカップでコーヒーを飲んでいた。
「ねえ、聞いてるの?なんで、砂糖とクリームを入れるの?」彼女は僕のカップを見つめながらもう一度言った。
「私はブラックだわ。味が台無しじゃない。砂糖とクリームを入れたら」
僕は、子供の頃に公園の砂場で遊んだ時のドロンコ遊びの泥の色を想い出していた。
「昔はブラックだったけど、今はこれがいいんだ」
僕がそう言うと、彼女は納得いかない顔をしながら、自分の持っている煙草を僕の口に入れた。
「私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方の違いを抜きにすれば・・」
空中に浮かぶメンソールの煙を見ながら頷いた。
「でも、煙草の趣味も違う」
僕がそう言うと、彼女は泣きそうな笑顔を浮かべ、僕の口から煙草を奪い取った。
「ねえ、私思うの。なんかあなたと出会う為に生まれてきたんじゃないかと。あなた以外の人とは、いやあなた以上の人とは今後巡り会わない様なきがするの」
そう言いながらメンソールの煙草を灰皿で消すと、新しいコーヒーを入れに彼女はキッチンに向かった。


 
一週間後、ダイニングテーブルに『棚の中のコーヒークリームとシュガーが切れてましたよ。』とだけ書いたメモを置いて、彼女は出て行った。

僕が2度とブラックのコーヒーを飲まない様に、彼女は二度と戻っては来なかった。

 
それから、毎朝、僕は一人でコーヒーを入れ、いつもの様にクリームと砂糖を入れ、そしてドロンコ遊びの時の泥を想像しながら、一人でコーヒーを飲んだ。
彼女は相変わらずどこかの男と、朝のまどろみの中でコーヒーをブラックで飲んでいるのだろう。そして僕の時の様に、コーヒーをブラックでは飲めない男に「味が台無しじゃない」と言っているかもしれない。もしかしたらブラックしか飲めない男と巡り会って、「ねえ。私達最高のお似合いのカップルじゃない?コーヒーの飲み方も同じだし・・・」

そう言って、その男に抱かれているのかもしれない。


                         * * * * * * * *


 そんな風に一ヶ月をやり過ごしたある日。
僕は会社帰りに、昼休みにいつもよく行く青山通り沿いのコーヒーショップに行った。店は『eau de cafe」』という名の店である。「コーヒーの水」という意味である。
家族でやっている様な小さな店だが、いつも学生アルバイトが交代で何人かいるだけだ。木製のカウンターとテーブルが幾つかある。「カフェ」というよりは「喫茶店」に近い雰囲気を持ち、一昔前の青春ドラマの様に、客が来ると「カラン、コロン」というカーベルの音が聞こえてきそうな店である。といっても、店の主人がいつもコーヒーを落としている訳でなく、主人がウエイターをやったり、アルバイト達がコーヒーを落とす事もあった。ブレンドアメリカン、そして炭火焼コーヒーやキリマンジャロモカなどがあるが、僕はいつもブレンドにしている。


僕は昼休みに週に一、二回はよくそこでコーヒーを飲んだ。

 僕はその日忙しくて昼休みに行けなかったが、どうしてもそこのコーヒーが飲みたくなり、仕事帰りの夜の9時少し前に店に行った。店の前では若い20代中ごろのアルバイトの女性が店じまいをしていた。

僕が近寄ると「すみません。今日はもう終わりなんです」
彼女は「eau de cafe」と書かれた看板のコンセントを抜きながら申し訳なさそうに言った。

「よく昼間にいらっしゃる方ですよね」
彼女はジーパンと黄色いTシャツを着て、ブルーのエプロンをしていた。いつも店で見かけていたものの、思ったよりもよりも長いその髪を後ろで束ねていた。
「そうですか。でも残念だなあ。どうしてもここのコーヒーを飲みたくてね」
「すみません。ここのコーヒー好きなんですか?」
僕が頷くと、彼女は遠くを指差して言った。「この先を駅の方に300M程行った所の最近出来た店、知ってますよね?」
「あそこ美味しいんですよ。ウチよりは少し落ちるけど、でも夜中までやってるし、私いつも仕事終わるとそこでコーヒー飲むんですよ」
彼女に礼を言って、僕はその店を目指した。まあ、しょうがない。とにかくちゃんとしたコーヒーを飲みたかった。缶コーヒーを飲むという選択肢はその時はなかったのは確かだ。


「eau de cafe」から実際には350M程行った所にその店はあった。
ウエイターに「一番酸味の少ないホットコーヒーを1つ」と言い、それはブレンドになりますが、と彼が言うと、「それで」と言って、煙草に火をつけた。

30分程すると、さっきの彼女が目の前に立っていた。
「ここいいかしら」
僕が頷く暇も無く、彼女は僕の前に座った。
「それはもしかして一番酸味の少ないコーヒー?」
束ねた髪をほどきながら彼女は笑いながら言った。
「あなたウチの店に最初に来たときそう注文したのよ。メニューも見ないで、一番酸味の少ないヤツを1つってね」
「そうだった?」
「えーそうよ。よく覚えてるわ」
火星から持ち帰った石を初めて見るNASAの研究員の様に僕のコーヒーを見ながらウエイターに言った。
「同じのね」
彼女は座り直して言った。
「お邪魔だったかしら?」
「もう座っている」
僕がそう言うと「そうね」と言って、テーブルの上の指先で何かを書いていた。
「ねえ、聞いていい?会社はこの近く?」
僕は「eau de cafe」の裏手にある酒造メーカーの名前を出した。
「ふーん。」
僕は、テーブルに置いてある彼女が持ってきた本をぼんやり見ていると
「これ?これは地底人の話よ」
「チテイジン?」
本のタイトルも著者も聞いた事がなかった。
「これはねえ、地底人が人口増加で住む場所が無くなって地上に出てくるの。だけど地底人はずーっと暗い所にいるからすぐには外に出て来れないの。
でね、目を慣らす為に目薬が必要なの」
「目薬?」
「そう。目薬よ。それでね、目薬を確保する為に、目薬が無くて済む選ばれた地底人の男と女2人が地上に上がるの。そして目薬をやっと1万人分手に入れるの」
「それはどれ位の量なの?」
「分らないわ。多分、ドラム缶10本分くらいよ。でも地底人は全部で2万人居るの。だから、その目薬をめぐって地底で戦争が起こるの」
「凄い話だな」
「そうね。目薬戦争よ」
「メグスリセンソウ・・・で、最後は?」
「結局、その目薬を地下水で2倍に薄める事で決着がつくの・・・」
「ふーん。それホント?」
「嘘よ。決まってるじゃない。目薬の部分からはデタラメ。だってまだ10ページしか読んでないもの。でもこの手の本はそんなもんよ。結末はね。」
僕は大きく溜息をついた。

「ねえ、コーヒーは好き?お酒は飲まないの?」彼女は訊いた。
「酒よりもね。朝起きて薄めのを一杯飲んで、夜帰ったら濃い目を一杯飲む。そうそう、あと、昼間は君のとこでね」
彼女は頷きながら髪を耳にかけて言った。
「訊いていい?ちょっとさあ、あなたお酒の会社に勤めているんでしょう?おかしくない?お酒よりもコーヒーが好きだなんて」
「そういう人もいる。寿司の食えない漁師もいる」非常に便宜的な言い訳だった。
「まあ、いるかもね」
「君だって、こうして仕事が終わっても違う店でコーヒーを飲む」
「漁師だって魚屋で魚を買うこともあるわ」彼女も便宜的に言った。
「そうかね」
「そうよ。きっと」
彼女もコーヒーにポーションクリームを一個、シュガーを一本入れた。
「泥んこだ」僕がそう言うと
「何?ドロンコ?」
「そう。泥んこ。小さい頃、公園の砂場で遊んだ時のあの色」
「ふーん。ねえ、なんかあなた変よ。おかしいわ。だって・・・・」彼女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言った。
「コーヒーをこんなに飲むのに、毎回飲むたびに「ドロンコ」って思ってるの?」
「毎回じゃない」
「ふーん」
彼女はイヤリングを触りながらそう言うと、僕の頭3つ分上くらい上をめがけて煙を吐いた。
「知ってた?」
僕がまだ泥んこの事を思い出している頃、それを打ち消す様に言った。
「あなたが店に来た時は必ず私がコーヒー落とすのよ。知ってた?」
「いや」
「はあ」彼女は大きく溜息をついた。
それは道端に落ちた蝉の抜けがらを遠くまで運び去る位の溜息だった。
「でもね。ウチの店であなた位美味しそうにコーヒーを飲むお客さんはいないわ」
「そうか?」
「そうよ。きっと一番だわ。だから私が落とすの。普通は落としておいたコーヒーを出すの。でもあなたが来るとそれを捨てて、新しく落とすの」
「美味しいよ。ホント」
「そう?嬉しいわ」
彼女の笑顔はいつも店で見るものよりも美しかった。
「注文してから時間が掛かるのはそのせいよ。あなたが来る時はお昼でしょう?いつも店長がいないときだから。もしバレたら怒られるわ。感謝しなさい。VIPなんだからね、アナタは」
「ありがとう。ホント美味しいよ。僕の落とすコーヒーよりもね」
「どういたしまして」
しばらくして彼女は言った。
「あなたの落とすコーヒーも飲んでみたいわ」


その後、僕たちは近くのバーに行き、そして彼女は僕の部屋に来た。


「ねえ、あなたのコーヒー飲みたいわ」
朝目覚めると僕たちはベットに寄りかかって座り、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、コーヒー色に変色した壁をぼんやり見つめていた。僕は、キッチンでコーヒーメーカーに紙のフィルターをセットし、豆を計量スプーンで2杯入れ、330ccの水を入れる。その間、カップを暖める為に2つのコーヒーカップに水を入れ電子レンジで3分間チンする。しばらくすると2杯分300ccのコーヒーが出来上がるのである。


「美味しいわ」
彼女は、僕よりも多めのクリームを入れ、僕よりも少なめの砂糖を入れる。
二人のコーヒーをすする音が、真夜中の動物園の孔雀の足音の様に部屋に響いていた。
「私ね。ホントは婚約者がいたの」
「へえ」
彼女の小さな溜息が彼女のコーヒーを少しばかりぬるくさせた。
「いたのって・・・・どういう事?」
彼女はその日2本目の煙草に火をつけると、思い切り肺に吸い込んだ後言った。
「フラレタのよ。婚約して、結婚式の会場も日取も決まって・・・でも、彼に別の女がいたの」
「それで?」
「それで彼、その人と別れてちゃんと私と結婚するって言って土下座までして謝ったわ。・・・でも、その姿見てなんか全部馬鹿らしくなってね。この人と結婚してもこれからの人生、何度もその土下座を見るはめになるだろうって」
「でも、フラレタって?」
「そうよ。少し賭けたの。彼、本当に心の底から悔いて、戻ってくるんじゃないかって。もう一度やり直したいって言ってくるかと思ってね。それでね。待ってたんだけど、2ヶ月した後に友人から聞いたの。彼がその浮気相手と婚約したって。」
「酷い話だな」
「そうよ。酷い話。結局、フラレタの。そういう事よ。私、結婚の為に会社辞めてたわ。結局そうなって、でも食べていかなくてはいけないじゃない?
でも、この不景気、再就職なんて難しかったわ。だからあそこの喫茶店で働いてるの」
彼女は両膝を曲げて座り、膝の上ににコーヒーカップを置きながら、しばらくそれを眺めていた。


「おかわり貰ってもいいかしら」

僕はさっきと同じ要領でコーヒーを2杯分落とした。
キッチンから見える彼女は膝を曲げて座り、膝に顎を乗せ、手の平で足の指先を摩っていた。2杯目のコーヒーに砂糖を入れながら彼女は言った

「ねえ、コーヒーを落とす時って、出来上がる量に対して一割増し位の水を入れるじゃない?コーヒーの粉が吸うから。なんかね。私の人生の様なの。学生の時も、会社にいた時も、好きな人と一緒の時も、私が望んだり、目指す物の為にはそれなりに努力して来たわ。望んだり、目指したりする事の結果に対して、それ相応の努力は必要じゃない?努力は水で、結果がコーヒーよ。でね。努力しても、結局の所はその結果は努力よりも若干少ないものなの。コーヒーの様にね。そういうものなの」

二人のコーヒーの湯気は弱々しい糸みたいだった。

「結果にいつも満足出来なかったの。出来たコーヒーが濃すぎる様にね。苦くて飲めないの。でね。もっと努力しようとしたの。そしたら今度は水を入れ過ぎたのね。薄くて飲めないわ」
「そういうものかな?」僕は少しだけ疑問だった。
「きっとそうよ。濃すぎるだけならまだいいじゃない?もっと水を入れてみようってね」
「でも努力し過ぎて、つまり、水を入れすぎてしまって、結局出来上がったものが薄くて飲めないと、人間って弱いものよ。もう諦めてしまうのよ」
「ちょっと待って」
僕は彼女の話を遮って言った。
「豆を増やせばいいんじゃない?」
「違うの。要は、水とコーヒーの関係なの。豆を増やしたってその比率は変わらないじゃない?それと同じ。だから皆苦しむの。あなたも私も、みんなね。美味しいコーヒーを入れるのには、豆と水の絶妙なバランスが必要なの。その比率を知る事って難しいわ。更に、豆も水も悪い、コーヒーメーカーはおかしくなってる。そんな事だってあるのよ。人生と同じよ」
彼女は3本目の煙草に火をつけ、ボブディランのポスターに向かって煙を吐いた。
「別れた彼との時もそうよ。水を入れすぎても、少なすぎても、つまりそれは愛情ね、相手は去っていくものよ」

僕はしばらくの間、考えていた。
彼女の言う事には全て賛成は出来ない。しかし、そこには小さな真理がある。僕らは、夢や希望や目標の為に努力する。そしてそれが予想よりはるかに大きいものが必要だという事も知っている。しかし、頑張り過ぎても空回りする時もあるし、いい加減な小さな努力でも結果は目に見えている。
絶妙なバランス。確かにそうだ。

「私はね。私の場合だけど、コーヒーの様に一割増しの努力にしたの。それが私らしいのかもしれないわ。疲れないし。それがしっくりくるのね」
僕は、煙たくなった部屋の窓を開けた。週末の朝の静かで柔らかい風がそっと彼女の肩を叩いた。そして彼女はその肩を震わせて小さく泣いた。


それから彼女の働いている「eau de cafe」で46杯、彼女の落としたコーヒーを飲み、週末の朝、僕の部屋で僕の落としたコーヒーを32杯彼女は飲んだ。


それだけの時間が経ったある日。「あなたのコーヒーは少し薄かったわ。でも美味しかった。ありがとう。」彼女はそう最後に言って去っていった。


そして、青山通り沿いのその店からも彼女は姿を消した。


それからしばらくして、彼女が自分の部屋で自らその命を絶ったのを知った。


                           * * * * * * * *



 地底人の世界。それは地下帝国という。
地下帝国は一面闇の世界なので、彼らは地下水でなくコーヒーを飲む。彼らの法律では15歳の男女は必ず地上に出なければならない。そこで子孫繁栄の為に地上世界の結婚相手を見つけなければならない。彼女ら(彼ら)はその条件として、自分がそれまで飲んでいたコーヒーの味と同じのを好む地上人を選ぶ。地下帝国の若者のファッション雑誌では、「結婚する相手の条件」の一位は「美味しいコーヒーを入れられる人」である。そして「結婚相手にしたい人の住む地上の国ベスト3」は一位「コロンビア」二位「イタリア」三位「フランス」なのだ。

 そう、僕の出会った彼女達は地底人だったのかもしれない。

一人、僕は部屋でコーヒーを飲みながら、彼女の持っていた「地底人」の本について想像していた。時折、コーヒーで黄色く変色した煙草のフィルターに吸い込まれそうになった。
 
・・・一割増しの努力・・・・

あの時彼女の発した小さな音の端切れが、泥の様なコーヒーの表面にそっと着地して、ゆっくりと沈み、そして消えて行くのを眺めていた。




                           * * * * * * * *


 数年後、僕は結婚した。彼女は少なからず地底人ではなかった。


「コーヒーは嫌いじゃないわ。でも、私にしてみればそれは自転車の雨避けの様なものよ」ある朝、彼女は言った。
「アメヨケ?」
「そう。雨避け。自転車の雨避けは・・・・雨の降っていない日は必要ないわ。雨が降っている時でも自転車に乗ってなければ必要ないわ」
僕は首を傾げた。

「でしょう?晴れた日に自転車に乗ってる時でも必要ないわ。雨の時は歩く時も車の時もある。でも、雨の日にどうしても自転車に乗らなくてはならないときは、やっぱり必要ね。そういうもんよ。私にとっては」
「じゃあ、君がコーヒーを飲むとき、いや飲む必要があると感じる時はどんなときなんだい?」僕は訊いた。
「そんなの分らないわ。私にとっては・・・そうね形而上的なものなの」
「形而上的?」
僕はそれ以上続けるのをやめた。

それでも、僕たちはほぼ毎朝、テーブルで向かい合いながらコーヒーを飲んだ。僕がコーヒーが好きで毎朝飲んでいるので、自然と彼女も付き合う様になった。
僕が落としたり、彼女が落としたり、ただ彼女の落とすコーヒーの味は一定ではなかった。僕はあまり気にしない。そして彼女も、コーヒーを「自転車の雨避け」のごとく、ただの黒い液体として胃袋の中に流し込んでいた。 彼女は気分でブラックの時もある。砂糖だけの日もあれば、クリームだけの日もあった。でも概ね、僕と同じ泥んこのコーヒーを飲むのが習慣となった。また、彼女は紅茶の時もあれば、オレンジジューズの時もあった。僕は別に何とも思わなかった。

次第に僕たちは、月、水、金曜日は僕がコーヒーを落とし、火、木、土曜は彼女が落とした。日曜日は気分の向いた方だった。彼女のコーヒーの味はそれでも一定ではなかったが、紅茶やオレンジジュースを飲むことはなくなっていた。僕たちが毎朝コーヒーを飲むのは、新入りの坊主が毎日境内を掃除するかごとく、もしくは総理大臣の秘書が毎朝「総理、昨日はよくお休みになれましたか?」というセリフの様に、当たり前の様に日常に溶け込んでいった。



そして、僕たちが結婚してお互い毎朝それぞれ500杯位コーヒーを飲んだであろう、ある月曜日の朝。
僕はコーヒーを入れず、前の日に買っておいたホットココアを入れた。水ではなく牛乳を沸かし、念入りにココアの粉末を溶かし、出来上がる寸前に生クリームとブランデーを少しだけ入れた。そしてそれを茶漉しでこした。

テーブルに2つのホットココアを出すと、パジャマのまま椅子に座った彼女の表情が一瞬曇った。
「アンタ、何これ?」
「ココアだよ。ココア。たまにはいいだろ。君も毎朝飲んで飽きただろう」
「どうして?」
彼女はココアのカップに手をつける事もせず、それをずっと眺めていた。
「ねえ、ねえ、なんでコーヒーじゃないの?」
彼女の声が次第に大きくかん高くなった。
「ねえ、どうしてなの?」
彼女は序々に顔を赤く硬直させながら、両手の平を頭に乗せて言った。
「何で。何でなの?コーヒーじゃないの?」
そして片肘をテーブルにつきながら、手の平でお額を押さえて、そして肩を震わせながら泣き始めた。
「どうしたって言うんだよ。ココアじゃダメかい?コーヒーが飲みたかったのか?」
彼女の思いがけない反応に僕は酷く動揺した。
「別にココアが嫌いな訳じゃないわ。コーヒーが死ぬ程好きな訳じゃないわ。そう、自転車の雨避けよ。でも、何故よ。何故よ。ねえ。教えて」
彼女は両手で頭を抱えて、両目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「なんで・・・・なんで、コーヒーじゃないのよ」
そう言うと彼女は頭をテーブルにつき、両手で頭を抱える様にして、いつまでも大きく泣き続けた。


行き場を失った二つのココアの湯気はまっすぐに天井に吸い込まれていった。
僕はそれを見ながらぼんやり地底人について考えていた。(了)

『観覧車』

 夏草が陽光をたっぷりと吸い込み、風がカサカサと潮の音を運ぶ。耳を澄ます。カモメが中空で旋回する。
広大な芝生の斜面をどこかの子供達が転がっていく。空には千切れた雲の端切れが斑点の様に澄み切った空にぽっかりと浮かんでいる。


16年ぶりに再会した僕らは、海辺の公園の木製のテーブルを囲んでいた。
高校を卒業した歳に取り壊された僕らの高校の跡地に、平らでのっぺりとした海浜公園が出来ていた。

僕は卒業して東京へ行き、数年前に結婚して二人の子供がいる。ここから100KM程離れた都市へ行った男は結婚したばかりだった。この地で家業を継いだ男は「最近フラれたんだ」と笑いながら言った。北海道に住んでいる男は、一人息子が小学生に上がる年に10トントラックに轢かれて死んだんだ、と言った。「まるで蛙かなんかみたいだったんだ。ペシャンコでね」


離れた芝生の上で僕の幼い息子達は、紙飛行機を作ってあげると、交代で飛ばし合いながら、風に乗ったそれを追っかけていた。紙飛行機はひらひらと、幼い子供達の木の枝の様な4本の足はクルクルと、糸の様なか細い4本の腕は空に浮かぶ紙飛行機に向かってバタバタと目一杯に突き出していた。


僕らの目の前で巨大な観覧車がゆっくりと回る。空に浮かび、地に沈む。
僕らは会話に詰まるとそっと見上げて観覧車を見る。誰かの子供がどこかの親に手を振る。
客に恵まれないその観覧車の足元で、多分ここで生まれ育ったであろう、風で吹き飛んでしまいそうな痩せて年老いた男が料金を受け取る。下りてきた観覧車のドアを開けて、客に軽く会釈して「お疲れ様でした」と言う。これから上り始める観覧車のドアを閉め「いってらっしゃい」と言う。彼は毎日それを幾度となく繰り返す。しかし彼自身は観覧車に乗る事はない。


遊び疲れた息子達が駆け寄る。

「パパ。ぼくたちものりたいな」

僕らは無言のまま顔を見合わせて全員が立ち上がった。そして観覧車へ向かってゆっくりと歩き出した。

一人が立ち止まって言う。
「アイツは死ぬべきじゃなかったんだ」


潮風が頬を打ち、草を踏みつける柔らかな音が聞こえた。


観覧車がゆっくりと上昇すると、アイツを飲み込んだグレー色の海がひっそりと横たわっている。地平線は立ち込めた雲の塊のせいで滲んで薄ぼけている。遠くで巨大な鉄の塊が浮かんでいる。


僕らの16年の間、この観覧車はどれだけ回りつづけたのであろう。
どれだけの波が打ち寄せられ、どれだけの風が吹き、どれだけの鳥が羽ばたいたのだろう。

もう一度考える。
僕は、そして彼らは、それぞれこの16年間にどれだけ泣き、笑ったのだろうか。
どれだけのものを傷つけ、失い、損なったのだろうか。
どれだけの愛を受け、どれだけの愛に生きたのだろうかと。


僕らは空に浮かび、地に沈む。


地上に着くと僕は係員に一万円を差し出した。
「これで乗れる分だけ、乗らせて欲しいんだ」


観覧車は何度も回る。同じ場所を飛び立ち、同じ場所に降り立つ。


息子の一人が窓から放った紙飛行機は風に乗って真っ直ぐに海に向かって飛んで行った。


「わあ! すごいや」