2004-01-01から1年間の記事一覧

雨降りのあと

私は、私自身にあまりにも馴れ過ぎてしまったの。あなたの為に変わることなんか不可能なのよ。いや、誰の為にもよ。 サオリは何度も心の中でそう呟く。それは音となりこだまの様に響いた。視線をそらせばまるで絹糸の様な雨が街を覆い、カフェの窓を濡してい…

夕張メロン

毎日、決まって夜中の二時に電話が来る。かれこれ一ヶ月が過ぎた。 僕はその時間、布団の上でその日最後のお勤めを待ちながらぼんやりと天井を見つめている。音楽はだいたいクラシックジャズで、最近のお気に入りはビル・エヴァンスの『アンダー・カレント』…

地平の舟  (①)

柔らかくて羽毛のみたいな春の日差しが差し込んだ五月のある日曜の午後だった。 僕は窓を開けて、ベットの上でディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいた。主人公のスクルージが第二の幽霊のいる部屋のドアに手をかけた時だった。どこからか音が聞こ…

地平の舟  (②)

あの男が帰った後、僕は周りを見渡しながら部屋の隅々にさなえ の残していった痕跡を探していた。しかし何もなかった。探しているのは彼女の影の様なものだったのかもしれない。赤いベレー帽の奇妙な男。パチンコですった分を届ける。滝田さなえを知っている…

地平の舟  (③)

あれから二週間が過ぎてもあのベレー帽の男は現われなかった。試しに昨日パチンコを久しぶりにやり、案の定負けてしまったが、それでも金を届には来そうもなかった。とにかくあの男に会ってさなえの事を訊かなければならない。そして彼女に会って言う事が沢…

地平の舟  (④)

次の日、松田は二時ちょうどにやって来た。最初に来た時と同様に赤いベレー帽と赤いジャケットを着ていた。 「こんにちは。お邪魔します」彼は玄関で丁寧に頭を下げた。 「ねえ、松田さん、一つ訊きたいんだけど、どうしてそんな格好しているんですか?目立…

地平の舟  (⑤)

「静岡から帰った次の日です。彼女は朝体調が悪かったので会社を休みました。その日はわたくしは夜勤でしたので昼間一緒に病院に行きました。診断の結果は妊娠によるちょっとしたストレスと風邪でした。大したことはなく薬を貰って彼女は家に着くと休みまし…

地平の舟  (⑥)

そこに立ちすくんでいたのはさなえだった。 さなえの表情には何もなかった。どんな感情も見当たらなかった。僕の顔の一点を見下ろしながら僕の言葉を待っている様だった。煙草の火種が落ちて焦げ臭い匂いが鼻をついた。その時、さなえの背後に立っていたレナ…

地底人と、コーヒーの功罪について。

どんよりとしたカーボン紙みたいな闇夜が次第に熱と光を帯び、白濁色の光彩が朝の空気に膨張し始める。それはやがて鮮やかに透き通ったオレンジ色となり、町の隅々までに一切の余白すらない程までに広がっていった。 僕と彼女はベットの上で、一枚のカーキ色…

『観覧車』

夏草が陽光をたっぷりと吸い込み、風がカサカサと潮の音を運ぶ。耳を澄ます。カモメが中空で旋回する。 広大な芝生の斜面をどこかの子供達が転がっていく。空には千切れた雲の端切れが斑点の様に澄み切った空にぽっかりと浮かんでいる。 16年ぶりに再会し…

アメリカン・モーニンング(前編)

『さよならを言うのは、わずかのあいだ死ぬことだ』(『長いお別れ』/レイモンド・チャンドラー) * * * * * * * 父は故郷を失った。 ここでいう故郷とは非常に限定された便宜的な意味合いを持つのかもしれない。 父の故郷は今も存在するし、これからも存在…

アメリカン・モーニンング(後編)

土曜日は少しばかり雨が降っていた。凄く弱い雨だ。 次の日に誰がが「昨日はいい天気でしたね」と言っても信じてしまいそうな雨降りだった。七時少し前だったので僕は駅から吐き出される人の流れを観察していた。折りたたんだ傘を持ってる者、傘をさしている…