『返却は、あした、になっております。①』(携帯閲覧用)

 時折僕はこんな風に考えている。
僕はこれまで退屈というものが好きだった。厳密に言えば、嫌いじゃなかった。東北の故郷の山合いの村に吹く退屈という名の風にはどこか温かみがあり、うっとりと僕を誘惑し、その中心に引きずり込まれてしまっても僕はそんな時間の中ならいつまでも漂う事が出来た。辺り一面から聞こえる見えない虫達の鳴き声に耳を澄まし、山の輪郭に沿って太陽がその赤みを帯びるまでをじっと遠くを眺め、時にはさらさら流れる川の縁に座って空に向かってダイブする魚達に喝采を贈ったものだ。短すぎる夏と、早すぎる到来と深刻で一切を眠らせてしまうとても長い冬、その間にあって必死に自己主張しながらも、まるで敵船を目前にしながら朽ち果てていく戦艦の様なあっけない春と秋。それでもそこには優雅で荘厳で、様々な色と音があり、飽きることのない情景があった。時間は恐ろしくゆっくりと流れながらも同時に僕を包んだ多くの退屈さは、若かったからだろう、人生の過程の上で必要だったのかもしれない。
就職で東京にやって来て一年。二回目の初夏を迎えるまでに僕を襲った幾千もの新たな退屈さは窮屈で棘があり、表情はなく、暴力的なまでに僕自身を溶解させてしまった。のっぺりとし、それでいて鋭角的な佇まいを見せる知らない都会の街並と、その中を盲目的にただ通り過ぎる人達、人工的で鼓膜を針の先でピリピリと刺激する様な騒音、何よりどこまでも形式的過ぎる季節の移り変わり。
それでも一年もすると仕事にも自然と慣れ、会社で同年代の友達も数人出来た。僕らの考えている事は若い男の誰もがそうである様に女の子の事や流行の洋服や音楽だったが、そこに横たわるものはお互いどこか違っていた。それはまるで北極と南極の違いの様だった。見るもの感じるものは全く同じ様であっても、それぞれ立っている場所みたいなものが根源的に違っているのだ。彼らの殆どは都会で生まれ、退屈さには無縁で、仮に些細な退屈さえも彼らなりの魔法でどんなものにも変えていけるんだ、という器用さと活力を持ち合わせていた。
そもそも休日にまで会社の人間と会うなんてまっぴらだ、という僕のささやかな信念と、必要以上の人間との関わりを持つ事が出来ない性格によって、週末になるとそんな新たな退屈さの中で僕は一人部屋で本を読み、いつからだろう、パソコンを使って小説を書き始めた。書くという行為そのものが退屈さを吹き飛ばしてしまう効力があるのかどうか僕には分からない。ただ僕は自分で紡ぎ出す世界の中では退屈さとは無縁だった。仮想の世界の中では僕も会社の友達同様に魔法を使う事が出来たのだ。

その時家の電話が鳴った。モニターの中の仮想の世界で主人公は電話で恋人に別れを告げられる所だった。
「村岡さんのお宅ですか?」と若い女性は淡々と現実的な声で言った。
「はい」
「桜丘図書館です。村岡さんのお借りになっている本一冊が返却期限を過ぎておりますので、お早めにご返却下さい」
思わず言葉を失った。借りている本って一体何なんだ? 僕は記憶の隅に視線を巡らせた。
「すみません。分かりました」
僕はため息をついた。どうしていつも忘れてしまうのだろう。銀行の支払いの期限もクリーニングの引き取りもレンタルビデオの返却も今まで忘れた事がないのだ。しばらく部屋を探してみると本棚から長い年月のせいで色褪せたフォークナー短編集が姿を現した。『エミリーにバラを』以外に特に印象はなかった。僕は着替えて桜丘図書館に向かった。

桜丘図書館は街の外れの公園の隣にあった。公立の図書館ではこの地域では一番古くて大きいのだろう。長年の雨風のせいで建物のはくたびれ、赤茶けた外壁の至る所には補修された跡があった。建物は三階建てで、地下には利用した者など見たことのない食堂と、書庫、一階はカウンターと、月一回古い昔の映画や子供向けのアニメを上映する視聴覚室があった。二階には開架書架、三階には自習室があった。
この数ヶ月、休日になると時折図書館にやって来るのは単に本が好きだったからでない。都会の中でさえもこの空間に満ちた特有の空気感はあの故郷の図書館と同じだった。田舎であっても都会であっても、背後に山が連なろうが高層ビルが立ち並びようが、図書館独特の物寂しさの中に穏やかな何かが対流する空間は僕をとても安心させた。そこにいる誰もが黙って本を読み、ここでは決して誰かを憎まず、声を上げて罵らず、苛立ちもせず、本を相手に無声の会話をしているのだ。書店の本達はどこか、読んでもらわなきゃ困る、といういささか悲壮感みたいなものが漂っている様に思えるが、手垢にまみれた図書館の本達は、私みたいなものでよければ、どうぞ、みたいな謙虚さがあって親しみが持てる。人間の方も、それじゃあ読ませてもらいます。はい。という本に対するある種の慈愛があって、誰もが黙々とページをめくる。その一切が織り成す、外界から隔離された密閉された瓶の中の様な世界に身を置く度に、僕は何事に対しても優しくなれる気がした。


一階カウンターにはよく見かける若い女性職員が座っていた。桜丘図書館では一番若いのだろう。
僕は『フォークナー短編集』をそっと置いて頭下げて言った。「すみません、遅れまして」
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作し、僕を見上げた。唇はきっと結ばれていた。
「村岡さん、あんまり遅れないでください。」とその女性は呆れた様に言った。
「すみません」と僕はもう一度頭を下げた。彼女が返却に遅れて何かを言うのは初めてだった。そしてその口調と声のトーンが先程電話を掛けてきた女性だったとその時気づいた。
二階に上がると思ったより多くの利用者がいた。僕の周りを走り回る小さな子供達を母親らしき女性が「シーッ」と唇に人差し指を当てて叱った。高校生のカップルが寄り添いながら座り、一つの本を見ながら笑い合っていた。その傍で浮浪者らしき中年の男性が座ったまま口を天井に向け、微かにいびきをかきながら寝入っていた。それ以外声らしき声はあまりなかった。新聞をめくる音、咳払い、そして六月にしては蒸し暑いからだろう、空調の音が日曜の館内全体を静かに覆っていた。本を一杯大事そうに抱えた職員が数人通り過ぎて行った。

しばらく僕は幾つかの本を読んだ。チェーホフスタインベックの短編集だった。どれもあまり夢中にはなれなかった。目の前のリファレンスカウンターにはついさっき一階にいたあの女性が座っているのが視界に入っていたのだ。まじまじと見るのは初めてだった。彼女はとても退屈そうだった。ごくたまに二十センチ先位の空中に向かってため息をつき、利用者が来るとふと急に顔を上げ、一拍置いてから返事をしてテキパキと対応した。そしてまた一人になると物静かに俯いたまま固まり、何気なくほんの少し顔を上げ、ぼんやりと遠くの壁の一点を仔細に見つめていた。僕は気付くとページを止めたまま、潮の満ち引きの様に繰り返すそんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。彼女はこの仕事がは酷くつまらなそうであり、酷く楽しそうでもあった。特に美人ではないが、目はくりっと大きく、高い鼻が特徴的だった。顎はすっとシャープな線を描き、わりに気の強そうな感じがした。それでもどこか愛嬌があり、幾分人より遅れたスローな仕草と、ふとした拍子で出る哀しみや寂しさをほんの僅か抱えた様な表情が対照的だった。いつしかそんな彼女の姿を見るのも飽きて僕は再び活字の隙間に潜り込んだ。
スタインベックの短編の一つ『菊』で、主人公の女性がいとおしく育てた菊の鉢植えを通りがかったある旅の修理人の男に分けてやるが、離れた所の道端に新芽だけが捨てられたているのを彼女はしばらくしてから目撃する。そして彼女は隣にいる主人に隠れて黙って涙を流す。それは僕がこの一年でこの街と社会で感じてきた事だったのかもしれない。最も大事な部分、最も大切で理解して欲しい事にこそ他人は素通りしていくものだ。自分にとって有益なものだけを相手から根こそぎ奪い取り、そんな時こそ彼らは無自覚で凶暴な微笑みを浮かべるのだ。
僕は思い立って一つの本を探していた。文庫の『アンナカレーニナ』の中巻だった。僕は先程その中巻が本棚にしっかりあるのを知っていたし、それを借りる予定だったのだ。本棚からたった一時間で姿を消してしまい、一応僕はカウンターの彼女にその事を訊いてみた。
「ないんですか?」と彼女は訊いた。
「ええ、ついさっきまであったんですが」
彼女はパソコンで調べ、それが貸し出し中でない事を告げた。「誰か読んでいるんじゃないですか?」
「分かりました」と僕は力なく答えた。

背が高くほっしりとした彼女が館内でテキパキと仕事をこなす様子をそれからしばし目撃した。ちょっと意外だった。先輩らしき男性職員に、はい、分かりました。ああ、そうですか。すぐ取ってきます。と言ったり、顔を赤くしながら必死に重そうな本を何冊も抱きかかえながら開架に慣れた手つきで本を戻した。ある老人の利用者には、はい、その本はこちらでございます。ああ、ちょっと高い所にありますので、と言って台椅子を持ってきて本を取ってあげ、老人に、どうぞ、と愛くるしい笑みを投げかけていた。動作が俊敏で無駄がなく、僕は関心してそれを眺めていた。
その時彼女が背後から肩をちょこんと叩いた。彼女は僕を見上げ小さな声で言った。
「これですよね?」と彼女は僕に探していた『アンナカレーニナ』の中巻を手渡した。
「ああ、ありがとう」と僕は言った。
「ごめんなさいね、実はさっきカウンターでこれ読んでたの」と乾いた声で申し訳なさそうに言った。
僕は彼女の言っている事がよく分からなかった。
「本当はいけないんだけど……村岡さんだよね? 村岡さんが急に来て、探している、って来たから驚いて嘘ついちゃったの」
彼女は辺りに誰もいない事を確認してから続けた。「仕事中にはあんまり読んではいけないの。当たり前だけど。にしても、まさか『アンナカレーニナ』を読んでて、いくら名作とはいえ偶然にもそれを探しているなんて……」
彼女は肩まで伸びた真っ直ぐな髪をすっと両手でかきあげた。染めてから数ヶ月経っているのだろう。根元から数センチ程には既に黒髪が顔を覗かせていた。
「偶然だね」と僕はとりあえず言った。それ以外何て言ったらいいか分からなかった。
「でね、悪いと思ったけど、さっき村岡さんの今まで借りた本を調べてみたの」と聞こえるか聞こえないか位の小さな声で言った。「結構シブイ趣味しているんだね」
「調べた?」と僕はびっくりして訊いた。声が大きかったので彼女は自分の唇に人差し指をあてて、ぺろっと舌を出した。
「これもあんまりいけない事なんだけどね」と彼女は僕の全身に視線を配らせてから言った。「村岡さんってまだ若いでしょう? 多分、私よりも少し若い位ね。このご時世にドストエフスキーやらトルストイやらフォークナーやらを読んでるこんな若い男の人って凄い珍しいと思う」と本当に物珍しそうに言った。
「駄目かな?」と少しむっとして尋ねた。
彼女は黙ってかぶりを振り、シャツの襟を直しながら答えた。「私も似た様なもの。」
「ふうん」と僕が言うと図書館職員が身につけるデニムのエプロンの胸元のネームプレートが目に入った。『白河里枝』
「あ、仕事、仕事」と思い立った様に言い残し、白河里枝という名の女性はスタスタと歩いて行ってしまった。


               * * * * * * 
  
 
 『アンナカレーニナ』の中巻きを読み終えたのはそれから三週間経った頃だった。白河里枝は数日前に図書館から電話を掛けてきていつも通り催促した。
東京の二回目の七月は恐ろしく暑く、樹々の下を選んで歩いていてもじっとりと汗ばんだ。太陽は手を伸ばせば届きそうな位置にある気がした。アスファルトは視界の中で歪み、いたずらに僕を苛立たせているみたいだった。
桜丘図書館はクーラーが効いているからだろう、沢山の利用者で溢れていた。座る場所がないからか床にかがんだままじっと本を読みふける者があちこちに見られ、学校が試験休みなのか制服を着た学生達の騒がしいしゃべり声が轟いていた。

「やっと返してくれた」と白河里枝がため息まじりに話しかけてきた。エプロンの下にはピンク色のやや小さめのTシャツを着ていた。
「すみません」
「あの時ちょうどいい所だったの」と唇を噛みながら言った。「中巻の最後の方だったけど。ねえ、読みたい本を一ヶ月待つ心境って分かる?」
僕をもう一度謝った。それにしてもなんでそこまで言われなくちゃいけないんだろう、と僕は思った。他の図書館にもあるだろうし、そもそも買えばいいなじゃいか。あなたは図書館の職員で、僕は利用者なんだ。
「ねえ、私が読みたかったから、って言ってるんじゃないんだよ。村岡さんの借りた本を後ろで待っている人がこういう風に思っているかも知れない、ってこと」と腕を組んで諭す様に言った。
僕は再び謝った。「気をつけます」


夕方、一階玄関脇にある喫煙所で僕が煙草を吸っていると彼女が外から缶ジュースを持って入って来た。「暑いわねえ」
「休憩?」
彼女は立ったまま美味そうにジュースを一口飲んで言った。「うん」
Tシャツの胸元にパタパタと風を送り、しばらく通り過ぎる車や下校途中の子供達を眺めてからデニムのエプロンの紐を外し、膝の上にたたんで僕の隣に座った。
「煙草吸うのね」
「うん」
「私もつい三ヶ月前まで吸ってたの。だからいつも休憩はここだったんだけど、もう煙草辞めたし、ここ暑いし。でもなんか癖ね、ここに来ると落ち着く。」
「よく辞めれたね」
「辞めなきゃいけなくなったから」と独り言の様に言った。彼女はもう一度外を眺め、それについて深く言いたがらない様子だった。「図書館って静かでいいんだけど、こう見えても人は結構いるしわりに疲れるの。こういう狭い場所であんまり人のいない所だとふと気が落ち着くの」
「邪魔かな?」
彼女は顔の前で手のひらをヒラヒラと揺った。「全然、気にしないで、あっ、これあげる」とエプロンポケットからレモン味の飴玉を一つ僕に手渡した。「見てよ、こんなに一杯あるの。煙草辞めたら口寂しくなってね」見るとエプロン一杯にどっさりと飴玉が入っていた。
「仕事中飴舐めるは、本読むわ、どうしようもない職員だね」と僕は冗談ぽく言った。
「そうね、どうしようもないね。でも、こう見えてもちゃんとやってるんだから。返却期限を守らない利用者に言われたくない」と微笑んで言った。
「確かに」と僕も微笑んで言った。
  

                    * * * * * * 


 それからというもの僕を図書館で見つけると彼女は「こんにちは」と話しかけてくる事もあった。相変わらず返却が遅れた事に小言を漏らす事もあったが、彼女はそれを言うことが楽しみの一つになっているかの様だった。むしろ返却日前に持って行った時などは、当然よ、ふん、とみたい素っ気ない態度でとりわけ話しかけてこようとはしなかった。逆に、はい、よく出来ましたわねえ、とまるで子供がおつかいが出来たみたいに言って僕をからかったりもした。僕はそんな彼女の一貫しない態度が不思議でたまらなかったが、きっとここでは一番下っ端? の彼女のストレス発散の一翼を担っているのだろうと勝手に解釈する事にした。ある時は背後からすっと近寄り、僕の読んでいる本を、それイマイチ、とか、それ絶対借りるべき、と教えてくれ、ミステリーを読んでいるときは、なあにそれ? と訊いてきて、それ○○が犯人よ!と一言だけ言って一目散に逃げて行った。時には僕は彼女に幾つかの本を薦めて、うん、読んだけど面白かった。と感想を聞かせてくれた。
喫煙場所や本棚の影で僕らはそうして色んな話をするうちに、僕と彼女の文学的嗜好というべきものに幾つか共通点があるのが分かった。僕は若い癖にリアルタイムの小説に、そして国内の小説に恐ろしく興味がなく古い海外文学ばかりだったが、彼女は最近の国内の女性作家を好んで読んだ。彼女の挙げた作家や作品どれも知ってはいたが僕は全く読んだ事がなかった。しかし、彼女がそこまでに至る過程で読んだ古い海外作品の好みは僕のそれと一致した。そして言葉や文体、リズム、その隙間に潜む独特の世界観に共感した。ドストエフスキートルストイが僕らにとって神として君臨し、その下に戦前戦後辺りの欧米作家達が続いた。
僕らはそうして次第に親密になり、僕はそんな彼女に好感を持ち始めていた。文学的嗜好だけではない、お互い自身の中で、どんなものに喜び、苛立ち、どんな空気の振動に心が揺れ動かされる、そんな些細な点でも恐ろしく似ていたのだ。それでも僕を混乱させ、時に苛立たせ、ある時は強烈に惹きつけられたのが彼女自身の風貌だった。彼女はこざっぱりとしたモノトーンのシャツや体の線を強調した様なTシャツと、スカートでなくすっと長い足が目立つGパンをスマートに着こなしていた。そんな彼女の服装と化粧気はいつも街で見かける都会の若い女性そのものだった。身のこなし、仕草、佇まいはスタイリッシュで僕の世界の埒外にある様だった。それでも僕と話す時に見せる大きな瞳の奥底の一点に感じるある種の寂しさみたいもの、相手の言葉を飲み込んで数秒してから言葉を探しながら話す細やかな口の動き、カウンターで時折見せる物寂しい表情。そのアンバランスさが、僕が育った故郷の村の女の子達の断片と重なり合った。特に白河さんの都会的な服装の上にまとった図書館職員のエプロン姿は全く似合っている様でもあり、そうでない様にも思えた。仕事中の彼女はどこかこの都会と切り離され、僕が昔感じた様に、彼女の中ではきっと時間がとてもゆっくり流れているんだろうな、と思った。そんな彼女には誰もが共感するであろう暖かさと、ユーモアさと、人の良さが滲みでていた。特に僕は尚一層強く惹きつけられ、気づいた時には彼女に対する好感みたいなものはいつしか好意に変わっていた。


僕の会社は銀座にあり、友人とはごくたまに渋谷や新宿に遊びに行った。何もかもが揃い、合理的に手に入れられる利便性に感心し、同時に驚きさえもした。しかし僕は何故か相変わらず居心地の悪さを感じざるを得なかった。いつも早くこの雑踏から逃れたいと思った。人は肩をぶつけ合いながら歩き、攻撃的で、車が殺人的に走り回る。しかしそんな街にある種の慣れを感じてきたと実感するきっかけになったのは、僕にとって一番身近な白河さんの存在だった。街中で多くの若いカップルを見ていると、仮に僕の傍に彼女がいたらこんな街でさえも美しく見え、数限りない甘美な誘惑の中で心踊り、魅了され、キラキラした眩しい位のネオンの下でとても生き生きとし、僕は新しい世界の真の住人になれる予感がした。いや、そうしたいんだ、とはっきりと思った。