静かな雨が降ろうとしている

 

 静かな雨が降ろうとしている。

 
 いつからだろう、僕はそんな予感の様なものを感じる様になった。
それはたいした雨ではない。時には傘だって必要ないかもしれない。雨粒は空中で更に分解され、砂粒の様になってしまう。または目を凝らさないと見えない雨。しばらくじっと顔を空に向けていなくては分からない程の雨。
「昨日、雨が降ったんだよ」と次の日に誰かに言っても、その誰かは決まって首を傾げるだろう。 「そうだったけ?」
税金の徴収書や新聞の勧誘やら、ローリングストーンズの新譜の様に、そんな静かな雨は決まって訪れるのだ。


 その日の朝も僕はそんな予感を感じた。
「雨が降るなんて天気予報では言ってなかったわよ」とその子はベッドの中でアーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』を読みながら言った。
「いや、きっと降るよ。必ずね」
「ふうん・・・・・・ねえ、このお話に出てくる熊って人間なの? それとも『熊』というメタファー? それとも・・・・・・」
「最後まで読めば分かるよ」と僕は彼女の言葉を遮って答え、イルカがプリントされたカーテンを閉めた。秋の朝の陽光が眩し過ぎるのだ。空は雲ひとつなく、雀達が何匹も窓を外を浮遊していた。
僕は『ホテル・ニューハンプシャー』を取り上げ、枕元にパタンと閉じて置いた。それから薄暗い日曜の朝の部屋で彼女を抱いた。


 昼過ぎにテーブルで僕と彼女はコーヒーを飲み、昨日買っておいたレタスと卵の入ったサンドウィッチを食べた。彼女は会社の役員達の悪口を言い、雑誌の売り上げが落ちたのは最近就任した編集長の責任だとため息をついた。彼女は洋楽音楽雑誌の編集者をしているのだ。
「あの男は無能よ。それと役員連中は音楽を所詮文化的スラムとしか思ってないもの」
「へえ」と僕はスポーツ新聞を読みながら言った。
「聞いている? 編集長なんかこのご時世にフレオ・イグレシアスなんか聞いてるのよ」
僕は笑った。フレオ・イグレシアス・・・・・・確かに無能な歌手だ。
「文化的スラム、ってなんだ?」と僕は気になって訊いてみた。
「役員の一人がいつかそう言ったのよ。うちの会社は昔は不動産やら金融やってて、数年前にいきなり出版部門なんか立ち上げて・・・・・・」

僕は彼女に聞こえない様に小さなため息をついた。その話はもう十三回聞いていたのだ。お堅い商社が税金対策で始めた出版部門。会社も酷いが雑誌も酷かった。ページの半分は広告で埋め尽くされ、大して音楽なんか知らないろくでもない評論家のCDレビューと、化石と化したハードロックの爺さん達のインタビューを金を積んで2頁設けるのが精一杯の雑誌。そもそも君が毎晩徹夜して作っている雑誌だって文化的スラムじゃないか、と思った。それに君は結構楽しんでいる様に見えるぜ。


「そろそろ会社に行くわ。校了だから」と彼女は立ち上がって淡々と言い、着替え、化粧をし、髪をとかした。
僕はその間、窓の外をじっと眺めていた。雲は相変わらず一つもなかった。一つも。

「じゃあね、次は来週以降になりそうね。ここに来るの」と玄関で彼女は曖昧に言った。
「分かったよ」
「ねえ、どうしたの?」
「雨が降るよ」
彼女はしばらく窓の外を目を凝らして眺めていた。「いいお天気じゃない」
「とにかく傘は持って行った方がいい。」と僕は傘を差し出して微笑んだ。
「これ・・・・・・私の傘、この前忘れていったやつね」
「うん」
「っていうか置き傘のしたつもりなの」
「じゃあ、丁度いいじゃないか、雨が降る」
「雨・・・・・・雨ねえ」

首を傾げて彼女は傘と一緒に出て行った。
それから僕はコーヒーにたっぷりブランデーを入れて飲み、『ホテル・ニューハンプシャー』を一時間ばかり読んだ。もう三回目になるだろう。悪くない小説だ。決して文化的スラムではない。決して。


 気づくと窓の外では雨が降り始めていた。霧の様な静かな雨だ。アスファルトはほんのりと黒く染まり、耳を澄ませば微かにパタパタと音が聞こえてきそうだ。雲がどんよりと空を覆い、ひんやりした秋の風が窓の外で音を立てずに舞い踊っていた。


そんな中で僕は目を閉じ、静かな雨について考え、彼女に二度と続きが読まれることのなかった小説の風景を想像し、彼女が気になっていた『熊』を連想し、そして今日の朝、最後となった彼女の白い肌のぬくもりを想い出していた。(了)