『返却は、あした、になっております。③』(携帯閲覧用)

「村岡さん、凄い変なお願いがあるの」と彼女は恐ろしく真剣な顔で言った。


九月も終わりに近づき、吹く風の後ろの方にはもう秋の穏やかさとその匂いががほんの少し混じり始めていた。
ある日曜、図書館の喫煙場所で煙草を吸っていると彼女がやって来て僕の隣に座り、聞こえるか聞こえないかのため息を漏らした。
「私が登場するお話を書いて欲しいの」
「白河さんが?」と僕はびっくりして訊いた。
彼女はエプロンのポケットからレモン味の飴を一つ取り出して無言で手渡して言った。「なんとなく。今まで色んな本を読んで、こんなに多くの本に囲まれて働いているのにどの本にも自分みたいな人間がいないの」
僕はよく分からなかった。「自分みたいな人間?」
「それに似た登場人物はいたかもね。でもね……」長い間彼女は黙っていた。その間、通り過ぎる上司らしき職員に申し訳なさそうに視線を注いだ。
「なんか素敵じゃない? 自分が登場するお話って」と急に明るく表情を変えて言った。
「シンデレラ願望みたいなもの?」
「かもしれない。シンデレラガンボウ」と彼女も繰り返して言った。
「自分で書こうとは思わないの?」と僕は煙草をもみ消して飴を口にほ放り込んだ。「これ、ありがとう」
彼女はかぶりを振って、消えかかる煙草の煙の行方を目で追いながら答えた。「書こうとはした事はあるけど、大分昔ね。でも本をよく読む事と書くことは全く別だと思う。食べる事と作る事の違いみたいにね。私は食べる専門」
「でも、あの食堂の調理人、太ってるよ」
彼女は「あはは」と口を押さえて笑った。「そう人もいるわ。村岡さんみたいに。でも私は違う」
「でも、僕は白河さんの事をあんまり知らない」
彼女は僕の顔を優しく見ながら訊いた。「知りたい?」
僕は肯いた。「白河さんがどんなものに興味を持っているとか、好きな食べ物とかさ」
「ううん」と彼女は空中に何かを探す様に考えて答えた。「じゃあ、生き物が大好きで、犬二匹、猫四匹を飼ってる」
「そんなに? ムツゴロウみたいだな」
彼女はクスクス笑って続けた。「食べ物は、ハーゲンダッツのアイスクリーム。それとドラクエと温泉が好き、音楽はダニー・ハサウェイ。みたいな感じかな」
僕は驚いた。「なんか滅茶苦茶だな。イメージと全然違う。ドラクエやりながらハーゲンダッツのアイス食べてBGMはソウルミュージック?」
「そう。書きづらい?」と困った様に訊いた。
「分かったよ」と僕はしばらく考えてから言った。「短いのでもいい?」
「ええ、凄く嬉しい」と感じの良い爽やかな笑顔を見せた。いつも見るどこか陰鬱な表情は微塵もなかった。

その日の夜、僕はパソコンのモニターに向かっていた。言葉が溢れる度にむしろ手が何故か止まった。これは小説なんだ、と一人かぶりを振った。フィクションなんだ、そう、存在しない図書館で働く存在しない女性と存在しない若い小説家志望の男の話。その中では僕らは本当の僕らじゃないんだ、と。それでも湧き上がる暖かい想いや、濃密ながらも漠然とした昂ぶる感情の塊みたいなものが僕を酷く混乱させた。生々し過ぎる言葉ががむしろ書かれるべき言葉を吹き飛ばしていった。必死に目を閉じて心の色の様なものに一つ一つ言葉を当てはめ綴っていった。そして僕は最初にこう書いた。

『時折僕はこんな風に考えている。』

 
                 * * * * * * 


 決まって二週間後、僕は新しい小説の最初の部分を持って図書館に出かけた。いつも通りに二階カウンターで白河さんは僕の原稿を仕事の合間にじっと読みふけっていた。僕は探している本の検索をしてもらう為に彼女に尋ねた。
彼女はパソコンのモニターを睨みながら事務的に答えた。「それはA192の欄にあります。」そしてゆっくり顔を上げ、眉をしかめて訊いた。「ねえ、読んだけど、これって実話?」
僕は黙っていた。
「ここに出てくるのは私と村岡さん?」と幾分納得いかない様に頬杖をして訊いた。
「違うよ」と僕は断固として答えた。「確かにシチュエーションはそうかも知れないけど、架空のお話だよ」
「ふうん、それで田舎から出てきたばかりの主人公の彼は借りた本を返しに来て、図書館で『私』みたいな人に会う。ここまでだけどこの後どうなるの?」
「まだ分からない。考えていない」
彼女は急に表情を明るくして言った。「でも、まあ、とにかく続きが面白そう」


 次の二週間後の夕方、僕ら以外誰もいないあの食堂で二人ともどこか黴臭いオレンジジュースを飲んだ。例の調理人が調理場の床をデッキブラシで擦る音が響いていた。
「どうかな?」と新しい原稿を見て訊いてみた。
「なんかあまりに実話過ぎて怖い部分もあるけど」そこまで言って彼女の言葉はピタリと止まった。「主人公はこの女の子に恋しているのね」と曖昧な表情を見せて言った。
「まあね」と僕は肯いた。
彼女はオレンジジュースをすすりながら長い時間静かに僕を凝視していた。「それで主人公は彼女の為に小説を書く」
「そう」
「ねえ」と彼女は突然話題を変えた。「村岡さんの小説には寒い所の話が一杯出てくるよね?」
「僕が山形生まれだからね」
「私は東京生まれだから分からないけど、冬とかもの凄く寒いんでしょう? 雪が何メートルも降って」
「そこで生まれ育って慣れてるからそんなに寒いとは思わないよ。去年の東京のあの底冷えした寒さよろりも増しだよ」
彼女は目を丸くして言った。「本当?」
「うん、こっちの寒さは、なんというかな、肌に突き刺さる感じなんだ。じんわりでなくズキッと体内に入り込んでいく様なね。向こうは確かに気温としては寒いけど、雪があってどこか滑らかな寒さなんだ。」
「ふうん」と彼女はグラスの氷をコリコリと噛みながら訊いた。「北海道って行ったことある?」
「ないよ」と僕は幾分驚いて答えた。「どうして?」
「なんとなく。もっと寒いのかなあ?」と憂いに満ちた顔で訊いた。
「どうだろうね。親戚が北海道のかなり奥の所に住んでいて言ってたけど、確かに寒いけど自然があって結構いいらしいよ。キツネやら鹿が普通に道路を横切るらしいし。もし行ったとしたら白河さんには合うんじゃない? 動物好きだしね。ムツゴロウ王国みたいで」
彼女は薄くなったオレンジジュースを最後まで飲み干して笑った。「そうねえ、ムツゴロウ王国。そういう所ってきっとどこでもバターのCMなんかが撮れちゃうのよね。多分だけど……まあ、北海道も悪くなさそうね。」
彼女は再び原稿に視線を落として訊いた。「これ、次で結末でしょう?」
「うん」
「大体考えてあるの?」
「いや全く。全然思い浮かばない。実のところ。白河さんだったらどうする?」
彼女は腕を組んで、ううん、と唸り、随分長い間考え込んでいた。
「私だったら、そうね、彼は彼女に物語を書く訳よね? で、その返事として彼女の方も頑張って彼に物語を書くの。その彼女の書く物語の結末に答えがあるの」
僕はしばらくそれについて考えていた。「でもそれ大変だなあ。物語の中に二つの物語入れるなんて。で、ハッピーエンドなの?」
「そうね。書く方は大変だもんね。だから言ったじゃない、私は食べる専門だって。ハッピーエンドかそうじゃないかなんて分かんない。今思いつきで言ったもの」
「でも、それ面白いかも」と僕は言った。
「そう?」と嬉しそうに彼女は笑った。「物語の中では<食べる専門>の彼女が彼に対して小説を書くの」
「オマージュみたいな?」
「うん。」と彼女は肯き、「ねえ」と思い立った様に言った。「ここに出てくる彼女が小説を書くんだったらペンネームみたいのがの必要かな?」
「どうかな。図書館で働く彼女が書く小説にペンネームなんか必要?」
「確かにね。でももしよければそうしてくれると嬉しいな。名前は考えて」
僕は全然思い浮かばなかった。「何かヒントみたいのないかな? 白河さんに関連したキーワードで考えるよ」
「そうねえ」と彼女はぼんやりと僕を眺めて答えた。「私、花水木っていう花が好きなの。」
ハナミズキ?」
「知ってた? あの喫煙所から見えるけど図書館の玄関の脇にあるよ。」
「知らなかったし、どんな花か知らないな」
「東京にはあちこちにあるよ。あんまり山形ではないかもね。匂いも好きだし、白やピンクや赤や色とりどりの花を春ごろに咲かせるの。秋には実をつけてね。ここでこうして働きながらそんな移り変わりを見るのがとっても好きなの」
「じゃあ、水木って言う名前は?」
彼女は親指を立ててにっこりと微笑んだ。「いいね。それ」

彼女は壁時計をちらりと見て席を立った。「休憩時間終わっちゃった。仕事に戻らなきゃ……これ完成したら、どうするの?」
僕は彼女を見上げていた。彼女の表情にはこれまで僕が見た中で最も深刻な静けさみたいなものがべたりと張り付いていた。
「白河さんにあげるよ」
彼女は必死に表情を崩して薄っすらと小さな笑みを浮かべた。
「ありがとう」


結局、僕は二週間近くその小説の結末に一文字も費やす事が出来なかった。仕事がこれまでが嘘だったみたいに波になって襲い、精神的にも肉体的にも言葉を紡ぎだす作業にはいささか疲れすぎていた。しかしその波が収まったのは僕が図書館に行くべき前日だった。
仕事から帰るとその声は家の留守電から聞こえた。白河さんだった。

「村岡さんのお宅でしょうか? 桜丘図書館です。お借りになった本の返却は、あした、となっております。必ずご返却ください」

僕は何度もテープを再生して彼女の声を繰り返して聞いた。あした、ってなんだ? なんで前日に電話にしてくるんだ? 僕の借りたプローディガンの『西瓜糖の日々』なんて誰も待っているはずがないじゃないか。
僕はその夜必死に小説の結末を考えていた。そしてはっきりと何かを感じた。いや、知覚したのだ。今まで僕の中にチラチラと姿を現していた影の様なものの輪郭を捉えたのだ。もしかしたら僕は例の退屈さの中にもういないんじゃじないか。退屈さが自然と作り出す書くという行為。誰にも読まれる当てのない物語。その中に僕はこれまで漂っていたのだ。でも今は違う。読んでくれる相手がいる物語なんだ。その先には現実的で、一年間この慣れない都会で感じてきたあらゆる種の退屈さなんか微塵に吹き飛ばす事の出来る何かがあるんじゃないか。僕は書いた。湧き上がる言葉を生々しいままに書き続けた。

小説が最後が完成したのはそれから四日後だった。仕事を早く切り上げ僕は桜丘図書館に走った。辺りは半分程日が暮れて、普段の日の夕方の図書館を週末よりも暗く沈んだ空気がひっそりとの包み込んでいた。