『あの子に夢中』

  

  突然の雨が一瞬にしてやんでしまった後の様な静かな夜の部屋で男と僕はコーヒーを飲んでいる。男はブラックで、僕は人肌に暖めたクリームをたっぷり入れたモカを飲む。


男は上品そうにコーヒーをすすり、部屋を見渡して言う。
「何か音楽はないのかい?」
無意識に僕は立ち上がってプレイヤーにスティーリー・ダンの『Aja』のレコードを乗せる。ソリッドなベースのリフに乾いたスネアの音が交じり合う。
男は少しだけ体を揺らす。「いいね、最高だ」
僕は黙って肯く。


「で、君はその子に夢中なのかい?」と男は想い出したかの様に突然訊く。
僕はもう一度黙ってゆっくりと肯く。
「どんな子なんだい?」と男は興味深そうに僕の顔を見て訊く。
「素敵な子さ」
男がほんの少しだけ笑う。「どんな風に素敵なんだい?」
「とにかく素敵なんだ。僕らが無条件で『Aja』が好きな様に、僕はあの子が好きなんだ。夢中なんだ」
男は激しく頭を振って、カップをカチャリとソーサーに置く。「じゃあ、こういう質問はどうだい? その子のどういうところに惹かれたんだい?」
僕はじっくり考えてみる。男は息を殺してじっと待つ。バーナード・パーディの警戒なドラムソロが僕らを叩く。
「髪が長くて綺麗で素敵だ」
「他には?」
「笑った時に見える八重歯が素敵だ」
「他には?」
「指先が素敵だ」


男はため息をついてから幾分納得いかない表情を浮かべて更に訊く。「幾つなんだい?」
「このアルバムが出た年さ・・・一九七七年生まれ・・・・・・」
男はマルボーロに火をつける。「一九七七年、いい年だ・・・・・・二九歳」
僕もマルボーロに火をつけ、静かに肯く。
「最高だ」男が口元を緩めて言う。
「ああ、最高さ」と僕も微笑む。


今度は僕が男に訊く。「あの子は『Aja』が気に入ると思うかい?」
男は酷くびっくりして僕を凝視している。「どうしてだい?」
一週間前に北青山のカフェで彼女と会っ時、彼女は買い物帰りでCDショップの袋に『Aja』が入っていたのが見えたんだ、と僕は説明した。
男は当然の様に答える。「当たり前じゃないか」
「なぜ分かる?」
「なんとなくさ」と男は煙草をもみ消しながら言う。「『Aja』を好きな女の子に悪い子はいない」
少し間を置いて男は訂正する。「『Aja』を好きになる子はみんな素敵さ」
四曲目の「Peg」のコミカルなサクスフォンが僕らを何故かとても優しい気持ちにさせる。


僕は想像してみる。こんな静かな部屋で一人白く細い指でリズムをとり、ぷっくりした可愛らしい耳たぶにその素敵な髪をかきあげながらじっと耳を澄ますあの子の姿を。


男はコーヒーを飲み干して言う。「僕にできることはないかい?」
「たぶん、ないよ」
「とにかく何か協力できることがあったら言ってくれ」
「ありがとう」
僕がそう言うと、男は片目をつむってニッコリと笑った。


そして男が突然姿を消す。気づくとレコードは止まってしまっている。針がバチバチとレコード盤の端で微かに振動している。窓の外には何もない。風もない。音もない。灯りもない。あの子もいない。


それから僕はゆっくり立ち上がり、レコードを裏返して、三杯目のコーヒーを飲んだ。(了)