『性欲過多な女』


 誰かが彼女をそう呼んだ。

そしていつからか街の誰もがそう読んだ。彼女の本当の名前なんて誰も知らなかったし、実際にはどうでも良かったのだ。

彼女は住宅街の真ん中の高い塀に囲まれた庭のある豪邸に住んでいた。悪趣味な洋館風の建物の至る所にはつたが張り巡され、塀からはくたびれた太いけやきの木が頭を覗かせていた。この豪邸には彼女と60を越えた父親だけが住んでいた。母親は数年前から全く姿を見かけなかった。誰かは死んだと言った。首を吊ってね。しかし葬式を挙げた形跡もなく、また別な誰かは離婚したと言った。

ともあれその豪邸には2人だけが住んでいた。父親の方は朝決まった時間にベンツが迎えに来て仕事に出かけた。恰幅の良い、日焼けした肌に白髪まじりの髪をオールバックにし、ブランドものスーツをスマートに着こなしていた。彼は会社の社長である事は知っていたが、誰もがどんな会社のどんな仕事の経営社かは知らなかった。普通の化粧品メーカーという噂から、それを扱うねずみ講の様な会社であるとか、ある者は、ありゃヤクザだ、と言った。結局は全くのベールに包まれ、最初は街の誰もが探偵と化したものの、時が経つにつれそんな興味は急速に失せていった

娘、すなわちその女は郊外の小中高大一貫の私立に通い、卒業すると特定の仕事に就かず、昼間から街で見かける様になった。長い腰まである黒髪にほっそりした顔、目鼻だちはくっきりとしていて、何故か年中くるぶしまであるワンピースを着、無口で誰かが声を掛けても軽く会釈するだけだった。買い物をする姿と本屋で固まった様に何時間も立ち読みをする姿しか目撃されなかった。友達はいなかったし、男友達の気配なんて全く無かった。生活は全て親の金で賄われていて、誰もが彼女の素性についてあれこれと面白おかしく推測した。

それでも彼女は街の若い男達の憧れの的になった。令嬢で色白でスラッとして、そして誰もが認める、美人、だった。

事件は彼女が25の時に起きた。血気盛んな街の不良達によって薄暗い公園でレイプされたのだ。彼等は捕まり、それから彼女を一年程全く見かけなくなった。



「そりゃヒドイな」と僕はリカに言った。

彼女は肯いた。「そうね。でもね、それからなのよ。彼女が変わったのは。その頃から彼女はいつも街中を若い、それも二十歳前後の男といつも腕を組んで歩いていたの。皆驚いたわ。あの子が、ってね。それもいつも違う男よ。皆色黒で体格の良い体育会系の男達。それも一人暮らしのね。でもね、奇妙なのは、その男達は、彼女との姿が目撃されなくなると同時にフッと街から姿を消すの。ある者は家賃を滞納したままだったり、ある者は家財道具を一切残してね。街の誰かが彼女と付き合った一人の男と接触出来たの。彼は言ったらしいわ。街で声を掛けられ、家に連れて来られると自ら裸になり、夜通し求めてくるんだと。ある時は彼を縛り、何回もイカされるの。精液が枯れるまでね。変な薬を飲ましていたりもしていたみたい。でね、彼女は毎回多額のお金を渡すんだと」

「凄い女だな」と僕は言った。

「ええ、これは噂だけど精神病院に行ったり、学校を辞めてしまった者もいたらしいの。それからそんなのが一年近く続いて、今度は彼女の姿を全く見なくなったの。ただね、今度は色んな男が彼女の家を訪れる姿を目撃した。驚いたのは、あの時、彼女をレイプした男もその中にいたのよ。しばらくして…分かるでしょ?彼は家族ごと姿を消したという事よ」

彼女はたばこをふかし、煙の行方を見ながら続けた。「しかし、ある日を境にそんな事も全くなくなった。昔の様に買い物するの姿なんかを見かける様になった。数年間が嘘だった様に昔の彼女に戻ってたわ。顔の相も以前の様になってね。それからすぐね、そんな彼女の姿も見かけなくなった。父親の姿もよ。ベンツの迎えもなくなって屋敷の庭は雑草が伸び放題でね、全く人の気配がなくなったの。誰かが心配して訪れても応答なし。それで色々調べたら、父親は確かにうさん臭い会社の社長だったけどね、その直前に別な誰かに会社を譲り渡しているの。当々、ある日警察が動いたわ。屋敷に入ってね…」と彼女はたばこを灰皿にもみ消し、首を振りながら言った。

「ねえ、もうこんな話しやめましょう。」

僕はグラスのコーラを飲み干して言った。「ここまで話してなんだよ。最後まで聞かせろよ」

彼女はうっとりする顔で僕を見上げ、唇に人差し指を当てて「あとでね。」と唇を塞いだ。

手はそっと僕の股間をつかんだ。

「そんな頭のおかしい女の事なんてどうでもいいでしょ」と彼女は僕の股間に頭を埋めた。

彼女の柔らかな舌の動きに僕はすぐに果て、同時に意識を失った。



…ん?……ん?…!!



意識を戻すと僕は縛られてベッドに仰向けになっていた。

「リカ!お、おいっ!」彼女は僕の上で髪を振り乱して腰を激しく脈打たせていた。「や、やめろ!リカ!」

彼女は悶えながら言った。

「そうそう、続きね。警察が入ってね、釘付けになったらしいわ。そこにいた誰もがしばらく口をきけなかった。父親が寝室で毒殺されてたらしいの。それも全裸で。そして彼のペニスには射精した痕跡がね…そしてその横には同じく毒を飲んで死んだ全裸の娘がね、父親に寄り添う様にね……二人の肉体は腐乱が激しくてね、物凄い悪臭が部屋中に充満していたらしいわ」

僕は彼女の顔をじっと見上げていた。

「これが結末よ。お、し、ま、い」

そして彼女は猛烈に腰を動かし、僕は再び射精した。



しばらくして僕らはベッドの中でまどろんでいた。僕の煙草をすっと取って彼女は思い切り肺に吸い込んだ。

「ねえ」と僕の耳元で柔らかに囁いた。「さっきの話だけど、二つだけ嘘があるの」

「嘘?」と僕は彼女の髪を撫でながら聞いた。

彼女は微笑んで言った。

「当ててみて」

(了)

『森の声』

 どれだけ長い間歩いたか分からない。

 深い森には風はなく、ふくろう達が遠くで鳴いている。姿の見えない動物のせいで時折樹々がカサカサとすれる。落ち葉を踏みつける音がパリパリと断続的に聞こえる。うっそうとした緑は陽光を遮断し、辺りは幾分薄暗く、気温は僅かに低く、ひんやりと全身を覆う。
腐った倒木に苔が生え、僕はそれを乗り越えながら、道のない道を歩く。少しばかり開けた場所で僕は立ち尽くす。微かに空が見える。雲はなく太陽も見えない。それでも陽光がほんのりと僕を包む。
驚く程しんとしている。空気が振動している。しかし音はない。耳を傾ける。何も聞こえない。でも僕は何かを聞き出そうとする。意識を集中させる。一切の動物達は眠ってしまったのか?風は何処へ行ってしまったんだ?僕は不安になる。一切の孤独の集体の中心にいる。気付くと僕は立ち尽くし、目を閉じて涙を流す。泣き声が聞こえる。それは僕の泣き声であり、誰かの泣き声だ。そして、誰かが誰かの為に泣いている声だ。様々な泣き声は重なり合い、音となり旋律となる。僕は多くの者を飲み込んだ深い森でそんな声に耳を澄ます。

目を開けてゆっくりと腰を降ろす。空には不思議な形をした雲が一つ現れてゆっくり流れていく。手が伸ばせば触れる事が出来そうな位に大きい雲だ。人の顔に見える。
なあ、おまえは笑っているのか?泣いているのか?それとも怒っているのか?答えるんだ!
しかしそこに表情はない。違うんだ、と僕は首を振る。それはただの雲なんだぞ!僕はそこに何を見ようとしてるんだ。
もう諦めろ!もう一度目をつぶるんだ、と深い森で誰かが僕に語りかける。もう二度と目を開けるな!その為にここに来たんじゃないかと。僕は誰かに向かって一人肯く。
 
 僕はノートをちぎってペンを持つ。深呼吸をすると透明な空気が全身に満ち、同時にあらゆる言葉が溢れる。それは僕の言葉であり、ここにいる多くの者達の言葉だ。既に眠っている者達の言葉であり、そこに僕も含まれているのだ。微風が樹々の隙間をぬって頬を撫でる。言葉が運ばれる。さあ、書くんだ!と。もうオマエにはそれしか出来ないんだと。僕はもう一度肯く。分かったよ。ちゃんと書けるか分からないけど書くよ。と僕は誰かに語りかける。そうだ、書くんだ。さあ、さっさと書くんだ。書けばもう君は僕らの友達だよ、と誰かが答える。

 
 「その時あなたはなんて書いたのかしら?」と妻はコーヒーをかき回しながら聞いた。
僕は首を振った。「いや、あの時僕は結局何一つ書けなかったんだ。」
彼女はイヤリングの片方をいじりながら美味しそうにコーヒーを飲んだ。「何も?」
「そう。何もね。一行たりともね。」
「でも書く事はあった。言葉が溢れた」
「そう」と僕は答えた。「不思議なもんさ。でも書けなかったんだ。ただ一つ言える事はね、言葉が克明過ぎる程、それを文字にする事は難しいという事だよ。つまりあまりに鮮明な写真があったとして、それを言葉で等しく表すのが難しい様にね」
「分からないわ」と妻は言った。
「うん、あの当時僕は平たく言えば、絶望やら孤独にまみれていた。周りの誰もがあざ笑う様に通り過ぎていった。同時に全てを失くした。多くの者達を恨み、それ以上に自分を憎んだ。たがら向かうべき所は一つしかなかった。僕が書こうとした事は、その森にいる者達と多分同じ様に、通り過ぎて行った者達と僅かに残った者達への言葉のはずだった。」
「でも書けなかったんでしょ」と妻は柔らかい笑顔を見せた。
「なんていうかな」としばらくしてから言葉を探しながら答えた。「それは言葉以上に重要で深刻な何かをメッセージとして残すのは、行動とその結果による実体でしかないと気付いたんだ。」
「つまりあなたの死そのものの姿で十分だと?」
「そういう事だね。僕があの時聞いたと感じる言葉というのはね、分かるかな?一種の試しなんだ。」
「試し?」
「そう。実は最近知った事だけど、彼等は殆ど言葉を残していないんだ。つまり彼等は言葉を僕に探させた。同時に彼等なりの言葉を贈ったのかもしれない。しかし、仮にあの時僕が何かを書き終えていたら僕は誰かに伝えるべき事がある分、一線を越えてはならないんだ」
「言っている事が矛盾している様に思えるわ」と妻は不思議そうな顔を浮かべた。
「確かに。その森で一線を越えた者達には最後の言葉がなかった。必要なかったんだ。書け、とある種僕に言ったのは、書ける分には決して彼等の居る(こちら側)には来てはいけないんだよ、という意味だったんじゃないかな」
「でもあなたは今こうして私とコーヒーを飲んでいる」と笑った。
「そうだね。書けなかったけど、今僕は(こちら側)にいる。君とこうして話をして、時間の経った濃くてまずいコーヒーを飲んでる。それと煙草を吸って体を汚染している」
妻はクスクスと笑い、僕は煙草を灰皿にもみ消して続けた。「あの時僕は夜を待った。それからその場で寝てしまったんだ。でも目を開けて僕はある種、死より恐ろしいものを見たんだ」
「死より恐ろしいもの?」と妻は僕の顔をじって見て言った。
「それは暗闇だった。完璧な暗闇だよ。濃密で完全なね。目を開けているか開けていないか分からない位のね、暗すぎて目が痛くなる位の闇だったんだ。それでいて風もなく星すらも見えない。動物の気配もない。つまりそこは<何もない>世界だったんだ。そこで感じた恐怖や孤独はね、恐怖や孤独を越えたものなんだ。自分の姿すらも見えない、という恐ろしささ」
妻がすーっと呼吸する音が聞こえた。「あなたが今ここにいる理由がその闇にあるという事?」
僕はゆっくり肯いた。「僕はそれまでの人生で得た物を失って何もなくなった。でもね、その闇は何もないんだ。違うな、そこには<初めから何もないんだよ>。僕は怖くなった。初めから何もない世界に自分が溶け込んでいくのがね。完璧な暗闇に同化していくのがね」
「で、森を抜けて来て、数年経って、私と結婚して、今ここにいるのね」と妻は聞いた。
「そうだね。失う事があるにしろ、何かしら得ようとすれば得れる世界の方がましだと思ったんだ。」
「そうかしら」と妻は幾分納得いかない様に首を傾げた。
「まし、というよりはね、その暗闇には得るものすらないという世界なんだ。絶望とか孤独すらも一切存在しない世界なんだ。その時僕に迫った選択は明らかだった。これは、生きよう、とか、やり直そう、とかそんな意識じゃないんだ。そんな闇の居住者になるのは死より恐ろしいんだ。という事」
「ねえ、じゃあ、新たに違う場所や方法を考え直したとかは?」
「しなかった。」と僕は答えた。「結局それが別な場所であろうとも、僕はその暗闇を通過しないと<あちら側>には行けないんだ」
「通過?」と妻は目を細めて聞いた。
「通過だよ。僕らはその暗闇をどんな事があろうと通過しないとあちら側に行けない。それが実は死よりも恐ろしいんだ。あちら側がどんな世界かは分からないけど、僕らはその暗闇を経験しなきゃいけない。僕らが潜在的に死そのものを恐れるのは、実はその手前の<何もない世界>なんだ」
妻は疲れた様に頬づえをし、残りのコーヒーを飲み干して言った。「ねえ、一つだけ聞いていい?その森で死んでいった人達もその闇を経験したのに何故あちら側に行ったのかしら?」

「分からないな」と僕はしばらくしてから答えた。それについて妻は何も言わず僕らは黙って席を立った。

外は夕闇で星が埃の様に散らばっていた。色んな音が聞こえ、色んな姿が見えた。人々の笑い声や怒鳴り声。明る過ぎるネオンや、車や、何かに向かって黙って歩く人の群。僕は思った。

 
 ここにももしかしたら何もないのかもしれないな。


そして不意に目を閉じてあの暗闇を思い出した。でもあの暗闇は今では遙か遠くに消えてしまったのだ。しかし、耳を澄ますと今でもはっきりと聞こえる。あの森のどこかでで誰かが囁く声と、誰かの泣き声と、誰かが誰かの為に泣く声が。(了)

『ミドリネコ』


まな板でなすびをシュコショコと切っている時に勝手口のドアを誰かが叩いた。

 「こんばんは」とドアの隙間からミドリネコがにっこりと顔を出した。
僕は、やあ、と答えた。全くミドリネコの奴は夕食時に最近毎日訪れるのだ。
「今日の夕飯は麻婆なすですか?」と目をキョロキョロさせて聞いた。
「違うよ、茄子とニンニクのパスタだよ。ねえ、今日はミドリネコ君の分はないよ」
そう言うと緑色のネバネバした体液と一緒に緑色の鱗をまき散らしながら部屋にドカドカと上がり込んだ。
「ふうん」と部屋を見回し「残念ですなあ」と水かきで顔をかきながら言った。
「私はパスタとやらが嫌いでね」

ミドリネコは1メートルもある巨体をのそのそと揺らしながら椅子にどかっと座った。
「この羊羹いただいちゃっていいですか?」
こいつは甘いものに目がないのだ。
「どうぞ」と僕はニンニクを切りながら答えた。
「お茶もいただいちゃっていいですか?」彼は自分でほうじ茶を入れてズズズと下品にすすった。ネコの癖に熱いものは全然平気なのだ。
「そうそう奥さんはまだ帰って来られてない様ですね」
「ああ、まだね」

妻は一ヶ月前に家を出たっきり帰って来てないのだ。実家の両親に一度問い合わせたが、知りません!、と言ったきり電話にでなくなったのだ。
時折ニャアニャアと鳴きながら羊羹をムシャムシャと頬ばった。
「んまい、んまい……で、そうそう、町内のミドリネコ達と一丁目のアカネコ達と隣街のアオネコ達に奥さんの写真見せて聞いたんですがねえ、この辺りでは見かけてない様ですわ。もしかしたら今ごろ若い男と遠くの街で暮らし始めてるんですかねえ、ほぉっ、ほ、ほ」
「ミドリネコ君、羊羹食べたら帰ってくれないかなあ」と僕は怒鳴った。
「いやぁ、すんません。冗談ですよ。でもね、あなたが奥さんに逃げられて毎日こうして寂しく夕ご飯を一人食べているのを見ているといてもたってもいられなくてね、ネコはこう見えても人助けが好きでね」
僕は鍋にお湯を張ってテーブルに座った。ミドリネコは羊羹の銀紙までパリパリと食べ、二つ目の羊羹に手を掛けた所だった。
「ミドリネコ君、確かに僕はあの時、なんとなく君に妻を探してくれる様頼んだかもしれないけどね。でもさ、君らなんかに見つけられるのかい?仮に君達が妻と会って、僕がネコを使って探してるなんて聞いたら、妻はなんと言うかな」
その時ミドリネコはヒゲをピンと立たせ、喉を不気味に鳴らして湯呑みをテーブルにドンと置いた。「ったく、だからあなたは奥さんに逃げられるんですよ…第一……」
また始まったのだ。コイツらは何かにつけて人間に説教するのが大好きなのだ。
「あなたのいけない所はそう言う所です」と人差し指をピンと立てて言った。「あなたは人、いやネコを信用していない。ネコの手も借りたい、っていうでしょう?誰かの好意は素直に受けるものです。この数日あなたに食事をごちそうになってるお礼じゃありませんか。それにあなたは自分で奥さんをお探しになりましたか!?」
「ミドリネコ君、僕は……」
「じゃあ、はっきり言いましょう。昨日あなたから頂いたさんまですが、私にしっぽの小さい方をよこしましたね。そういうせこい所が奥さんに逃げられる原因……」
僕はため息をついて、立ち上がって鍋に火をかけた。
「それになんですか、アカネコ達が言ってましたが、あなたは会社でもうだつが上がらないみたいですね。遅刻はするは……それと……」とビデオの方を見て言った。「知ってますよ。エッチなビデオを毎晩借りて、それもSMやら変態みたいな……もう30越したいい大人が……」
僕はミドリネコを無視してパスタをゆで始めた。
「ほらほら、そうやって人、いやネコの話を聞かない。だ、か、ら、奥さんに逃げられるんですよ!」
ミドリネコは更に続けた。「なんですか!その軟弱な体、きっとあっちの方も大した事ないんでしょうね。だから奥さんに……はっはっは……」
「ミドリネコ君、いい加減にしてくれないかな!猫の癖に!」と僕は振り向いて叫んだ。ミドリネコはじっと僕を見つめていた。だいたい体が鱗だらけの訳の分からないネコの化け物なんかになんでこんな事まで言われなくちゃいけないんだ、と僕は思った。
「わかったよ、ミドリネコ君、確かに君の言うとおりかもしれない。こんな男じゃ妻にも逃げられるさ」
ミドリネコは腕を組んでウンウンと肯きながら言った。「そうですよ。あなた自身がもっと変わればきっと奥さんは帰ってきますよ」
「まあ、もう一杯飲んで今日は帰ってくれないかな」と彼の見てない隙に〈猫いらず〉を湯呑みに入れた。
「わかりました。今日は帰ります。明日は鯖の味噌煮なんか食べたいですねえ」とお茶をすすりながら言った。
「悪いねえ。明日は鯖の味噌煮にしとくからさ」

その時だった。突然彼はニャアニャアとうなり声を出して椅子の上で暴れ始めた。全身の鱗が溶けてゼリー状になって床にポタポタと流れ出した。ギャアァーともだえ苦しみ目玉だけがボタッとテーブルに落ち、口からは30センチ程の長い舌をヒラヒラと出して同時に真っ黒い墨の様な液体を吐き出した。
「な、何を飲ませたんですかぁぁ……」
体のあちこちから黄色い液体を放出させ、しっぽがちぎれて床の上で暴れ回った。
ミドリネコの体は緑色の蒸気を噴出させながら段々と溶けだし、つるりとした緑色の球体だけになり、次第に緑色のゼリーみたいな液体だけになって大量に床に残った。彼の水掻きの手足は骨だけになり床に引っかき傷を残した。テーブルの二つの目玉だけがギョロリと僕を見ていたが、ゆっくりとそれは白目だけになり、中から透明な液体を滲み出させた。それは泣いている様に見えた。目玉はテーブルからコロコロと転がって床に落ち、床の液体に混ざって見えなくなった。

僕はしばらく考えていた。参ったなあ。ミドリネコに手をかけてしまった。この辺りの猫同盟の絆の深さと団結力は有名だ。彼らがこの事を知ったら、必ず復讐しに来るだろう。

 
 僕は掃除機を出してきて床の液体を全部吸い込み、手足の骨はごみ袋に入れ、そうじ機そのものと一緒に家の前のポリバケツに入れ、それを2ブロック先のごみ捨て場まで持っていった。ここまですれば猫の奴らには気付かれないだろう。


家に帰り、床を丹念に拭いてからパスタをざるにあけて、なすとニンニクで炒めた。心持ち柔らかいそのパスタを食べながら、僕は漠然と、しかしはっきりとした何かを感じ取った。
家の外では街中の猫達がニャアニャアと騒ぎだし、どこか哀しい鳴き声を響かせていた。

そう、君達の友達も二度と戻って来ないんだよ。(了)

『誰かにとっての傘』

  珍しく早い梅雨入りだった。
雨はこもった熱気を愛音の全身にべたりと張り付かせ、そのせいで彼女は幾分苛立っていた。実際に彼女を苛つかせたのは昨日の彼氏との些細な喧嘩だった。
彼は仕事で明日は会えないと言った。「プロジェクトの追い込みでね。」
彼女は電話越しに幾つかの暴言を吐き、彼はそれを黙って聞き、しょうがないだろ、仕事なんだから、と最後に怒鳴って電話を切った。彼女はじっと携帯を見つめ、深いため息をついた。

 
二十五歳の誕生日を迎えた彼女はどんよりとした鉛色の雲間からこぼれ落ちる雨に肩口を濡らしながら急いでいた。看護学生の彼女は近くの病院で実習を受けていのだ。病院に着いて医師の指示で幾つかの雑務をこなし、担当の患者の部屋を訪れた。六人部屋の窓際によく話をする七十歳の男性がいて、彼女は側に腰掛けて雨について話をした。

「よく降りますねえ、今日から梅雨入りだそうですよ」と彼女が言うと彼は黙って窓の外を見ながら肯いた。
彼は心臓に病気を持っており数度のオペも単なる延命処置でしかなかった。表情はしっかりしているが体はカンナで削ったみたいに痩せていたもう半年も入院しており、来るべき結末さえ彼自身にも十分理解していた。
彼はゆっくりと口を開いた。「私は雨が嫌いなんだ。」
彼女は首をかしげ、じっと続きを待った。

「振り返るとね、雨の次の日に私はとても不運に見舞われるんだ。小さい時、戦争に行った父の死の報告を受ける前の日もこんな雨が降っていた。十年前に女房が心臓発作で死んだ時もね、前の日は朝から雨がずっと降っていたんだ」と窓を叩く雨筋を彼はどこか恨む様な鋭い眼差しで眺めていた。
「ごめん、ごめん、変な話で…」と彼は何回か首を振って彼女に視線を移した。「そうそう、今日は君の誕生日だったね」と柔らかい笑顔を突然向けた。
彼女は微かなため息をついて窓の外に目を凝らした。
「この前言ってたボーイフレンドとはデートなのかい?」
そしてしばらくの沈黙が二人を包んだ後「喧嘩だなぁ」と彼が彼女を見据えて言った。彼女が小さく肯く間もなく彼は続けた。
「女房にプロポーズしたのは彼女が二十五歳の誕生日だった」彼は時折咳き込み、言葉を探していた。
「私は当時非常に貧乏だった。大工の駆け出しで給料も安かった。当然指輪なんて買えなかった。だからね、木を削ってヤスリを掛けてね、輪っかにしてね指輪を作ったんだ。最初はドキドキしたけど彼女は喜んで受け取ってくれた。そして私達は結婚したんだ。当然数年後にちゃんとしたダイヤの指輪をプレゼントしたさ。でもその木の指輪はね、それから何十年の間彼女は大事にしてくれたよ。はめてくれる事は途中からなくなったけどね」
そして彼はもう一度窓に目をやった。「あの日は朝からこんな雨が降っていた。起きると彼女はその木の指輪をはめていたんだ。私は驚いて聞いても、彼女は、なんとなく気分よ、と笑ってごまかしたけどね…」とまるで深い森の中で迷子になった子供の様な瞳でゆっくり呼吸をした。「その日は仕事で夜中になって帰ってすぐ寝床についてね、あくる日…起きたら妻は…」
そこで彼の言葉はピタリと止まった。猛烈な沈黙が二人を襲い、看護師達の足音が廊下から聞こえるだけだった。
「すまんね、暗い話で」
愛音は首を黙って振った。
そして彼はゆっくりと諭す様に言った。「私の経験から言えば、恋愛とか人生はね、雨振りの様なものなんだよ。些細な喧嘩も、ちょっとした行き違いも、いや、幸福とか不幸とかはね、雨降りの様に誰にも等しく降るんだ。降るときは降るし、降らない時は降らない。誰にも止められないんだよ。でもね、私達はそこから何か教訓を得なきゃいけない。つまりね…君は今日誕生日を彼氏と迎えられなくて悲しんでる。君の中に冷たい雨が降っている。ただその雨は彼にも等しく降っているという事だよ。どういう理由で会えないか分からないけど…会えない彼も同じ様に悲しいんじゃないかな…」

「…そうそう…」と彼が言い掛けたその時、医師の呼ぶ声がし、彼女は席を立った。振り返ると彼は満面の笑みで痩せた手の平をヒラヒラと降っていた。

 
 翌日、彼の姿がベッドから消え、真っ白な皺一つないシーツが新たな患者を迎えるべく無機質な表情を漂わせていた。雨が窓を激しく叩き、幾千もの筋を作っていた。
氷の中に閉じこめられた様に立ち尽くす彼女の背後から担当の医師がそっと肩を叩き、ある袋を渡した。それは例の患者からのもので、中からは折りたたみ傘が入っていた。黒い傘に枝はニスが塗られたひの木製でそこにはあの患者の名前が小さく刻まれていた。そして一緒に便箋一枚の短い手紙が入っていた。


 『私が病気になる前に大工の経験を生かして趣味で作った傘です。渡しそびれたけど、誕生日おめでとう。君の人生が愛と幸福に包まれます様に。そしてどんな悲しみからも、雨降りからも、愛する人を守れる傘の様な人間になってください』

 
 実習が終わり病院を出ると昨日から降り続いた雨は一層激しさを増し、霧の様な雨粒と新緑の香りが混ざって辺り一面に飽和していた。プレゼントの傘を開くと思ったよりそれは大きく、ずっしりとした感触の木製の枝が彼女の手に沈んだ。
携帯を取り出し、喧嘩してから話していなかった彼の柔らかな声が聞こえるまで、あの患者の言葉が愛音の中でこだまの様に何度も響いていた。


『幸福とか不幸とかはね、雨降りの様に誰にも等しく降るんだ。降るときは降るし、降らない時は降らない。誰にも止められないんだよ』(了)

雨降りのあと

私は、私自身にあまりにも馴れ過ぎてしまったの。あなたの為に変わることなんか不可能なのよ。いや、誰の為にもよ。


サオリは何度も心の中でそう呟く。それは音となりこだまの様に響いた。視線をそらせばまるで絹糸の様な雨が街を覆い、カフェの窓を濡している。
目の前に座っている男はそんなサオリの様子をしげしげと眺めていた。サオリの長くて黒々した細い髪、いつも遠くを眺めている様な瞳、淡いピンクに光った小さな唇、鼻筋の通ったすっとした鼻。サオリは時折窓の外を見つめ、テーブルの上のコーヒーの中に何かを見つけ出す様に俯きながら、お互い次の言葉を待ち望んでいた。
パントリーの方からソーサーの割れる音が聞こえ複数の店員が同時に「すみません」と声を上げた。それは出来の悪い歌手のユニゾンみたいだった。湿った空気に、若い客で溢れかえった店内の細かい声が混ざり合い、そして飽和しながら不気味に辺りに沈んでいた。
男とサオリの座った窓際のテーブルだけは見事に切り離された空間だった。憂いと静けさ、戸惑いと冷たさがアクリル製のテーブルの表面に張り付いていた。男はおもむろに胸ポケットから赤い箱のマルボーロを取り出して火をつける。この人が煙草を吸うのを初めて見る。そして見るのはきっとこれが最後なのだろうとサオリは思った。その時、有線からはビートルズの「レット・イット・ビーが流れる。なんでこんな時にこの曲なのよ。男は静かに自分の煙の行方を追っていた。それは窓に沿って這い上がり、天井へと上昇していく。

サオリは目の前の男の部屋で一緒に見たビデオを思い出す。帳の降りたロシアの赤の広場を埋め尽くす何十万人という群集。老夫婦は肩を寄せ合い、手を握り、男の方は涙を目に溜める。小さな子供や若い女の子が肩車をされて微笑みながらピースサインを送る。若い男は女の肩を抱き、女は歓声を上げる。所々にロシアとイギリスの旗が大きく揺らめく。
「あの人はロシアの現在の大統領だよ。名前は何だっけ?となりにいるのは確かゴルバチョフっていう人」と男が画面を指差して言った。ポールマカートニーはステージでピアノを弾きながら「レット・イット・ビー」を唄っていた。その時何故かサオリは小さく泣いた。ビートルズも冷戦の終焉の意味も詳しくは知らない。でも泣いた。そんなサオリを男は優しく無言のまま髪を撫でた。数年前に癌で体をズタズタにされて死んだ祖父はよく幼いサオリにシベリアの話をしてくれたし、眠る様に死んでいった祖母は戦時中の沖縄の話を枕元でよく聞かせてくれた。

なぜ、今、この曲なのよ。でも、泣けなかった。雨は地面を叩いている。雨を見ているだけで十分だった。十分過ぎるほどサオリの心を濡らした。曲が終ってBGMは知らない曲に変わった。

男が口を開く。「サオリの事がよく分らないんだ。むしろ自分の事も。そして僕らが付き合っている事の意味さえも。」そう言って煙草を灰皿に押し付ける様にして消した。サオリが顔を上げて男を見ても、そこには何かがゆっくりと消滅していく時間の痕跡を感じ取った。
男は突然「じゃあ」と言って席を立ち、伝票を持って歩いて行ってしまった。消える様な男の声が聞こえた。「元気でな」


コーヒーのクリームは分離して流氷の様にコーヒーの表面を覆う。サオリはじっと唇を噛みながら、一つの愛の終局の意味を、その中に潜んだあらゆる感情の澱を盲目的に探していた。しかし、それは真夜中の空にカラスを一羽見つける様なものだった。何も見えない。ただ決定的に一人の人間が通り過ぎて行っただけの事なのだ。


サオリは17歳になっていた。高校三年生になり、一ヶ月学校経った所で映画のフイルムがぷつりと切れてしまったかの様にして突然学校に行かなくなった。それからもう一ヶ月になっていた。時折考える。私は何故学校に行かないのか。行きたくないのではない。理由が分れば逆に学校に行っているだろう。それでも幾らかの理由を探しだす事が出来た。
高校二年の時に同じクラスだったサッカー部の田村という男に恋をして、三日三晩考えたラブレターを彼に渡して付き合う事になった。サオリにとっては二人目の男だった。田村は自慢の彼氏だった。背が高く、日焼けした顔はゴツゴツとしていたが、目鼻立ちがすっきりとしていた。髪を短く刈り上げ、何より引き締まった口元が好きだった。スポーツをする男特有の激しい練習と忍耐と溢れ出す汗によって余分な肉が削ぎ落とされた洗練された口元だった。毎日サッカー部の部室の前で一緒に弁当を食べ、練習のない時は制服のままカラオケやゲームセンターに行き、映画も観た。付き合って一ヶ月後に放課後の部室でキスをし、その日のうちに抱かれた。サオリはあらゆる事象に舞い上がっていた。同学年の女生徒の羨望の眼差し、彼のどこかおっとりとした話し方や笑顔、しなやかな指先と引き締まった肉体。そして何より飽きることのないルックス。
しかし、高三へ上がる春休み。突然の電話で呼び出され一方的に別れを告げられた。理由は簡単だった。「君といると僕は消えてしまいそうになる。何故かは分らないけど、君は君の為に恋愛しているみたいなんだ。」


高三に上がると田村とまた同じクラスになった。そしてすぐに彼はクラスメイトのある女の子と付き合いだし、彼らは毎日、部室の前で弁当を食べ、しばらくすると彼らが部室でHをしたという噂が流れた。当然、それはその彼女が自慢混じりに自分で流したものだった。休み時間、田村はその彼女を膝に乗せて座りクスクスと笑い合っていた。そんな光景を毎日見て過ごした。そしてある日の朝、サオリはベッドの中から出る事をやめた。


サオリの家は半年前まで小さなケーキ屋を二十年間営んでいた。バイトも雇わず、父が一人でケーキを作り、母が店番をした。しかし父が脳溢血で倒れ、大事には至らなかったものの、結局、店を閉める事になった。父は落ち込み、朝から酒を飲んでいた。母はそっとそんな父を見ながらパートに出た。
サオリは何度も考えた。父は十五歳から十年間有名ホテルで厳しい修行をし、二五歳で店を持った。若い頃の苦労話をよく聞かされた。ホテルで飴細工をやっていた頃は飴の熱さで手の平の皮がめくれ、何日間も自分の体を洗う事が出来ず、風呂場で母に体を洗ってもらった話。血気盛んな上司に殴られ、どやされた話。念願の独立を果した後は、ケーキを売るために小さく切り分けたケーキを持って母が近所の家を毎日何十件と周り試食してもらう為に訪れた事。しかし、何故だろう。誰よりも努力し、頑張ってきたにも関わらず、突如として父を襲った病気によって何もかもが打ち砕かれてしまった。サオリの中で、何か目的を持って努力しても無意味なんじゃないかと。父と母の今までの努力は何だったのか。自分は何の為に学校へ行って勉強しているのだろう。父の変わり果てた弱々しい姿と虚ろで人生に敗北したかに見える諦めの眼差し。彼女は人生の無情な摂理を悟りきった様にして何もかもがどうでもよくなった。そんなサオリに対して父と母は無力だった。学校へ行かないサオリを叱る両親にその説得力はなかった。むしろサオリのその何倍もの激しい反論と言い訳、父を責めたてる言動に両親は肩を落とし、それ以上何も言わなかった。いや、言えなかった。次第に両親はサオリに対する言葉を失った。


サオリは毎日昼過ぎに起きて、繁華街を彷徨った。勿論体も売り、貪り様に男と寝た。父と同じ歳の男もいた。誰でも良かった。ベッドの中でサオリという肉体の存在とその輪郭をはっきりと感じ、認識してくれる男なら誰でも良かった。自分の居場所をベッドの中に求めた。男が去った後のベッドで、シーツの皺と膨らみを見て、川や山や谷や海を想像した。私の世界はここなのよとその度に言いきかせた。


茶店でその男が去った後、サオリは手帳を開いた。ダイアリーの五月十日の所から小さな「×」印がある。学校へ行っていない日だ。五月二十日の所に去っていた男の名前がある。それは付き合い始めた日だった。あの日、渋谷の街角で声を掛けられ、食事をおごってもらい、その日のうちに抱かれた。私立大学に通う大学生で音楽好きだった。男の部屋のベッドの中で何度もビートルズを一緒に聴いた。「レット・イット・ビー」の邦題が「気ままに」と聞いて好きになった。そう、気ままによ、それが一番、サオリはそう実感していた。しかし男は実際的に生きている人間だった。サオリによく「学校にちゃんと行きな」と言ってきかせた。サオリを変えようと努力もした。次第にそれは説教から愚痴になっていた。
「サオリはとても好きだけど、もっといい子に変われるよ。」と、何かのきっかけで喧嘩をした時に男は言った。「サオリが僕と一緒にいたいという理由がたまに分らなくなる。今のサオリはとても好きだよ。でも、もっとちゃんと変わったサオリも見てみたい。そうすればもっと好きになると思う」
サオリはいつか田村から言われた言葉を思い出した。サオリは何も言わななかった。そして今日、その男が去っていった。ダイアリーの五月二十日の男の名前の所を横に線を二本引いて消した。


茶店を出ると雨はやんでいた。六月の湿った重苦しい空気が肌を這い、雨の後の嫌な匂いが鼻をついた。あてもなく一時間程歩き、街を抜け、大きな土手にぶつかった。土手を上がると大きな川が見えた。サッカーグランドと野球場が見えた。青々した芝生が辺りを覆い、雨でぬかるんだ柔らかな土が足を僅かに飲み込んで、目に見えない小さな虫の声が聞こえる。川の反対側にはまるで映し鏡の様にこちら側と全く同じ風景が広がっていた。どす黒い雲の群れが早いスピードで東の空へ流れて行った。
遠くで焚き火が見える。近寄ってそばの木製のベンチでぼんやりと炎のゆらめきを眺めていた。錆びたドラム缶の中から突き出た炎が微風に流されながら空を燃やし、煙は空の色と同化しながら消えていく。パチパチと飛び散る火の粉は蛍の様だった。辺りはしんと静かだった。たまにランニングをしている学生風の若い男が息を切らせながら目の前を走り去り、自転車に乗った数人の小学生達が騒ぎながらグルグルと辺りを回っていた。

サオリは鞄の中から携帯とダイアリーを取り出した。携帯の着信の最後は三日前だ。女友達の心配する留守電だった。それを消去した。最後のメールは一時間程前のもので母親から『今日は何時に帰ってくるの?』だった。当然、返事は出さなかった。

紺の背広を着た男がサオリの視界に入り、焚き火の方へ吸い寄せられていく。足取りは重く、焚き火の傍で立ち止まったまま動かなくなった。サオリはベンチに座ったまま、炎が舞い踊り、木立の様に固まった男の姿をぼんやりと視線の奥に眺めていた。男は肩を落とし、背中は憂いに包まれていた。
その光景を見てサオリは古い宗教儀式にさえ思えた。このまま炎の中に男の身が吸い寄せられて灰になってしまうのではないか。川の方へ歩き出してそのまま身を投げるのではないか。とめどめない雲の群れが西の空から際限なく現われ、東へと果てしなく流されて行く。

ダイヤリーの一月から五月までのページの束をバインドから外す。田村にラブレターを渡した日、付き合い始めた日、別れた日、そして学校へ行かなくなった日、そして今日別れた男と出会った日。もう一つ、今日のページも抜いた。その中には体を売って得たお金の金額も克明に書かれている。サオリはすっと立ち上がり、焚き火の方へふらふらと歩き出した。傍のいるサラリーマンの男は五十代で肉付きのよい顔に白髪混じりのうっそうとした髪を綺麗に分けていた。紺のスーツをきちんと着こなし、銀行員の様な分厚い皮の鞄を持っていて、片手には杖の様な茶色い傘がぶらさがっている。サオリの顔をちらっと一瞬だけ見ただけで、そのまま炎を仔細に眺めていた。
サオリは持っていたダイアリーの束を炎の中に放り投げた。同時に炎は大きくなり空に伸びて行く。それはあらゆる方向にはためきながら、白い紙のかけらをゆっくりと黒く染め、消え去ろうとしている。その時、空の隙間から大きな雨粒が顔を濡らした。髪に沈み、肩を湿らせ、頬を流れる。男は無言のまま自分の傘を開き、鞄の中からごそごそと黒い折りたたみ傘を取り出して、サオリに差し出した。サオリは顔を見上げると男の顔には何もなかった。男は小さく頷いて言った。「二つあるから。」サオリも小さく頷き受けとった。二人は炎の前で立ち尽くし、言葉もなく、雨と炎の音を聞いた。炎は次第に弱々しくなっていった。
男の携帯が鳴り何やら話している。「今、取引先でこれからまた一軒行くんだ。それ程遅くはならないよ」そう言って電話を切った。男はもうここに何十分もいる。そしてここから離れそうにもない。きっと会社をリストラされたものの、会社に行っていると嘘を付いているのかもしれない。毎日、こうしてスーツを着てどこを彷徨っているのだろうか。あれ程燃え盛っていた二人の炎は何かの終焉の様に今こうして消えゆこうとしている。男を見て父親に思いを馳せる。彼らの中の炎はこうして消えていったのかと。男はじっと炎を見つめる。そしてゆっくりと消え、ただのどす黒い灰だけとなった。
サオリは思い出す。田村の事、今日去って行った男の事。そして数えきれない程、自分の体を通り過ぎていった男達。しかし、私には私に戻ることを望んだ居場所があるのかもしれない。砂漠の中に机を並べただけの様な学校と、声のない静か過ぎる家。私は帰る事を許され、その自由すらまだ手の平の中にあるんだと。でもサオリは泣けなかった。その代わり隣の男は泣いている様だった。そう見えるだけだ。でも若いサオリには分っていた。男とサオリにとって消えた炎は全く別なものだったのだと。大きな時間に隔てられた二つの炎なのだと。炎の消滅の意味は終わりと始まりなのだと。いつしか雨はやみ、名前の知らない鳥達が羽ばたき出していた。雲の動きは鈍くなり、西の空に突き抜ける様な晴天が顔を出していた。
サオリが傘を男に差し戻すと、男はほんの少し微笑んでそれを受け取り、そして二人はそれぞれ違う方向へ歩き出した。



土手の石の階段のたもとで音が聞こえる。腰の辺りまで伸びた茂みの中から、単なる音ではなく、夏虫の鳴き声と混ざってその声は耳に入った。耳を澄ます。柔らかい靴音を鳴らしながら近づくと、清涼飲料水の名前の書いた小さな正方形のダンボールの中で、雨に湿った毛をぺたりと張りつけた小さな子犬を見つけた。
子犬はじっとサオリを見上げる。今日一日分の雨粒を全て吸い込んだ様な潤んだ瞳だった。全身が茶色で小さな耳はペタンと前に折れ、大きな瞳が少しだけ垂れていた。段ボールのヘリに前足をちょこんとかけ、鼻を鳴らし、親指程の大きさの尻尾を揺らしている。
サオリが抱きかかえると、彼女の小さく膨らんだ胸に顔を押しあてて、Tシャツの文字の「P」の辺りをしきりに噛んでいる。体は震えている。優しく吹いている穏やかな夏風に揺られているのかと思った。しかし、命の最後の抵抗の様に子犬は必死に震えていた。雨を吸い込んだ湿った子犬の毛がサオリの手に沈み込む。


サオリは泣いた。泣くのは久しぶりだった。雲が空を流れる様な静かな涙だった。そして口を開いた。誰かに話掛けるのは何日ぶりなのだろうか。

「ねえ、私は泣いているのよ。ねえ、凄く泣いているのよ。なんであなたは泣かないの?なんで?」
子犬は顔をサオリの顔に近づけて、筋の様な涙の跡をその舌で舐めた。
「あなたはなんで泣かないの?哀しくないの?」
サオリの腕の中でごそごそと動きながら、サオリの哀しみを含んだ匂いを嗅ぎつづけていた。
空を見上げると晴天が手の届きそうな所まで忍び寄っている。どこからか現われた初老の男性が焚き火を片つけてる。辺りはそれ以外誰もいない。虫の鳴き声、茂みがさらさらと揺れる音。それだけだった。

サオリはもう一度子犬に声を掛ける。
「ねえ、あなたはまだあなた自身に馴れ過ぎちゃ駄目なのよ。今のあなた自身に馴れ過ぎるのはまだ早いのよ」
子犬は身震いをしながら、首を傾けてサオリを見つめる。
「あなたのいる場所はここじゃないの」そして声を殺してサオリは更に強く泣いた。「わたしもよ」



子犬を抱いて階段を上り、振り返って眼下の広大な川原を見下ろす。そこには何十万という群集が見えた。誰もが静かに泣いていた。自分と誰かの為に。遠く失われた過去と、通り過ぎ、失っていった全てのものの為に。(了)

夕張メロン

 毎日、決まって夜中の二時に電話が来る。かれこれ一ヶ月が過ぎた。
僕はその時間、布団の上でその日最後のお勤めを待ちながらぼんやりと天井を見つめている。音楽はだいたいクラシックジャズで、最近のお気に入りはビル・エヴァンスの『アンダー・カレント』だ。目を瞑ってエヴァンスの指先が鍵盤の上で華麗に踊るのを想像していた。
その時、電話が鳴った。二時三分だった。
「こんばんは」と総理大臣が言った。しばらく僕の部屋の音楽に耳を傾け、電話の向うでピンと人指し指を立てているのだろう。「おっ、それはビル・エヴァンスのドリーム・ジプシーですね。エヴァンスとJ.ホールの確か65年の共演盤で息の合ったピアノとギターのスウィンギーでデリケート、夢幻的なまでに美しい名演!」と唸った。
「さすが! 歳の功。」と僕は鼻をほじりながら言った。共演は65年ではなく62年なのだ。
「いやいや・・・」と総理は多分、頭をポリポリと掻きながら言った。
「さて、総理、いささか昨日のあなたの行動は無駄が多い様ですね」と鼻毛を抜きながら言った。
「そうなんですわ。昨日は赤プリで秘書官と中華食ってたら、外務大臣から電話が入ってこれから同席してもいいかって訊くんで、構わんよって言ったんですけどね、中華食ってるって言ったら、『俺、中華食えん、脂っこいから場所変えてくれ』って言うんですわ。アイツ来週からアジア歴訪でしょう?中国とタイ行くから練習しろって言ったら、『総理、海老チリの海老どこで泳いでるか知ってるか?』って訊くから『知らん』って答えたら『ありゃ、タイのドブ川に泳いでいるんだぞ、知ってるか?』って言うんですわ。結局、オークラのフレンチにしましたわ。で、アイツ、更にフランス嫌いでしてね。食い物好きなわりに『あの国は連合国に助けてもらったわりには戦勝国って言って偉そうだ。いばっている』って言ってね。もう大変ですわ。アホで」
「ふうん」と股間をポリポりかきながら、昨日、新入社員のみゆきちゃんと食べた万世のハンバーグステーキを思い出していた。

「そろそろいきますか」と総理が言った。
「ウイ」とフランス語で答えた。「では・・・」と考えて言った。「なべつね」
「ありゃ、だんな、いきなり人の名前なしですわ。まあ、いいですわ・・・うーん、猫だまし」
「あらら、そりゃ、総理の事じゃないですか・・・」と鼻をかみながら言った。「勝負パンツ」
「なんですかそれ?」と総理が訊いた。「通信簿」
「総理、あなたのはオールゼロでっせ・・・ボジョレヌーボ」
「いや、ゼロですか、厳しいですなあ、参ったなあ。でも、あのワインは本当にカスですな。あら、また『ぼ』ですか・・うーん。貿易摩擦
「やっと総理らしいお言葉・・・椎間板ヘルニア
「おお、一昨年なりましたわ。椅子に座りっぱなしでなんでね」多分、腰をコンコンと叩いているのだろう。「あゆ」
「あゆ?それは歌手のあゆ?それとも魚の鮎?」と僕は訊いてみた。
「そりゃ、だんな、歌手のあゆに決まっているでしょう。」と総理は「Seasons」を電話の向うで鼻歌で歌い始めた。
「・・・夕張メロン・・・」
「・・・あれ? だんな!いいんですか?『ん』ですよ。ん・・・」と総理は勝ち誇った様に言った。


数日後、北海道に遊説で行った総理から届いた夕張メロンみゆきちゃんと心ゆくまで堪能した。
なにせ僕は夕張メロンがとっても大好きなのだ。総理はそれ以上にしりとりが大好きみたいだ。(了)

地平の舟  (①)

柔らかくて羽毛のみたいな春の日差しが差し込んだ五月のある日曜の午後だった。
僕は窓を開けて、ベットの上でディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいた。主人公のスクルージが第二の幽霊のいる部屋のドアに手をかけた時だった。どこからか音が聞こえた。

こん、こん、こん。

僕は冷やっとして辺りを見回した。耳を澄ました。しかし、もう音は聞こえなかった。窓の外からは数人の小学生の笑い声しか聞こえなかった。スクルージの戸を叩く音が頭の中で実際に鳴り響く程に、僕はあまりに物語に溶け込んでしまっていたのだろうか。溜息をついてもう一度、本に目を移した。部屋の奥の長椅子に座っていた巨人がスクルージに叫んで言った。「お入り!」

コン、コン、コン。

僕は再び視線を上げ、部屋を見渡した。
現実に鳴り響いている音だった。それは玄関の方から聞こえた。実際に誰かがやって来たのだ。ドアフォンが長い間壊れている事に気付いた。僕は床に脱ぎ捨てていたTシャツを急いで着て玄関へ向かった。僕の部屋を訪れる人間は誰もいない。ここに越してきてまだ一年だし、日曜日の午後に突然遊びに来る様な友達もいない。どうせセールスか何かだろう。
「どちら様ですか?」
何も返事は無かった。それでも人の気配があったので僕はドアの外に向かって叫んだ。
「ねえ、NHKだったら僕は払わないよ。仕事が忙しくてテレビも見る暇すらないんだ」
またしても返事はなかった。もう一度叫んだ。
「ねえ、新聞だったら要らないよ。僕は新聞を読まないんだ。インターネットがあるし・・・」
宅急便か、いや、もしかしたらと思った。僕は思わずドアを開けた。

ドアを開けるとそこには身長160センチくらいの中年の男が立っていた。よれよれの色の褪せたジーパンにクリーム色のシャツを着て、その上からビロードみたいな真っ赤なジャケットを着ていた。袖もジーパンの裾も短かすぎる気がした。目は細いわりに睫は異常に長かった。まばたきをするとバタバタ音を立てそうだった。鼻はつぶれていて、乾いてひび割れた唇の隙間から黄ばんだ歯が見えた。そして驚いたのは頭に真っ赤なベレー帽を被っていたことだった。服装が上から下までまるでちぐはくだった。
「どちら様ですか?」
僕がそう訊くと、男は細い目をとろんと歪めて微笑み、その後ペコリと深々と頭を下げたまま言った。
「こんにちは。」そして顔を上げ、表情を崩さずに言った。声は不気味な位高かった。「かぶらぎさんのお宅ですか?」
「はい。鏑木ですが」
彼は両手の手の平を合わせて腹の辺りでごしごしと擦りながら言った。
「実はかぶらぎさんにお渡しするものがあって伺ったんです。」
「はあ」
彼は赤いジャケットの胸ポケットから茶封筒を取り出して僕に手渡した。
「これはなんですか?」
「どうぞ、これをお受け取りください」
僕がその茶封筒の中を確かめると、そこには千円札が5枚と、五百円玉が1枚入っていた。
「ねえ、これお金じゃないですか。」僕はよく分らないまま驚いて男の顔を見下ろしていた。
「そうです。」男は高い声で言った。「それをお受け取り下さい。」
「はあ」
僕は声を失っていた。一体、日曜日の午後に赤いベレー帽と赤いジャケットを身につけた知らない中年の男が突然やって来て、いきなりお金をくれるとはどういうことなんだ。僕は不安と気味悪さが入り混じったどんよりとした気持ちのまま男の姿を上から下まで眺めていた。
「ちょっと待って下さいよ。いきなり訳のわからないお金なんか受け取れませんよ。それにあなたは誰ですか?そしてこのお金はなんですか?」
彼はベレー帽をとって、若干禿げ上がった頭に手の平をのせて、参ったな、という風にして答えた。
「そうですね。かぶらぎさん。突然、知らない男がやって来てお金を受け取れと言っても驚きますよね。わたくしは決してあやしい者ではありません。ただ名前は申し上げられません。そしてそのお金ですが、それはかぶらぎさんがちょうど一ヶ月前にパチンコでお負けになったお金です。その分をあなた様に今日こうしてお返しに伺っているのです」
僕は全くもって意味が分らなかった。そもそもパチンコはごくたまにするけど、それが今から一ヶ月前だという記憶すらない。だいたいその時期でその位負けたのは覚えているが、何故、金額を知っているんだ?それに一体この世の中でギャンブルに負けたお金を返しにやってくるパチンコ屋なんかあるはずがない。
「とすると、あなたはパチンコ屋の方ですか?」
「ははは、いえいえ、違います。」彼は細い目を更に歪めて笑って答えた。「わたくしはパチンコ屋とは一切関係ございません。とにかくこのお金をお受け取りください」
「いや、そんなこと言っても困るよ。第一、なんであなたが、僕が一ヶ月前にパチンコ屋に行ってこれだけの金額負けたのかを知っているのさ。仮に受け取ったりして、後になって多額の利子をつけて返せなんて言われても困るしね。最近流行ってるんだよ。無理矢理人の口座に金を振り込んで法外な利子をつけて返せ、っていう新手の金貸しがさあ。あなたはその類じゃないの。パチンコ屋はそういう方々と付き合いもあるだろうし、それに・・・」
「かぶらぎさん、ちょっとお待ちください」彼はジーパンからハンカチを取り出して首筋を拭きながら言った。
「かぶらぎさんの仰ることは分ります。しかし、わたくしはその筋の人間ではありません。赤いベレー帽と赤いジャケットを着たその筋の人間なんて聞いたことありませんでしょう?それにこのお金を受け取っても決して後になって返せとは申しません。それは誓って申し上げます。」
僕は思わず天を仰いだ。そして深く溜息をつくと、彼は手を前で組んでどこか哀しい笑顔を見せて言った。
「かぶらぎさん、わたくしは多くを語れません。わたくしがどこから来たか、当然、名前もです。おかしいと思うでしょう。こんな変ちくりんな男がいきなりやって来てお金を差し出しているのだから。ただですね・・・」
彼は急に真剣な眼差しを僕に向けた。彼は一歩僕に近づいて言った。
「実は、かぶらぎさんはこのお金を受け取る資格があるという事です。先に言っておきます。別に何かの懸賞やくじに当たった訳ではありません。あなたは・このお金を・受け取る程のお方だという事です」
一体、この男は何を言ってるんだ。全てが滅茶苦茶じゃないか。僕になんの資格があるというんだ。僕は同じ事を声に出して訊いた。
「その『資格』って一体なんですか?」
彼はもう一度ベレー帽をとって、今度はハンカチで汗ばんだ頭を拭いて、そして改めて被り直すと話し始めた。
「もしかぶらぎさんがその資格というものを知って、納得されてこのお金をお受け取りになっていただけるのならお話します。そうですね、それが筋というものですから」
僕は黙って頷いた。
「今から半年程前、かぶらぎさんは会社帰りに新宿のある公園である女性をお助けになりましたね?」
「ええ」
彼はじっと僕の瞳の奥底を見つめていた。一瞬の時の流れの間に僕は半年前の出来事を思い出していた。彼は茶封筒を握った僕の手を包む様に軽く握り締めて何か言葉を発するまでもなく、それはあなたが受け取るべきものなんだと、真剣な面持ちで語りかけていた。次の瞬間、彼は来た時と同じ様にペコリと頭を深々と下げ、「では、これで」と言って素早く背を向けて歩いて行ってしまった。次に何か言おうとした時には言葉が届かない位にその姿は小さくなっていた。
奇妙な男だったし、起きたことの端から端までが信じられなかった。僕がこの金を受け取る資格とは一体なんなんだ。

僕はその茶封筒をそのまま電話台の下の引き出しに入れてから、キッチンでグラスにオレンジジュースを入れて飲んだ。奇妙な苛立ちと混乱がグラスを持つ手を震わせていた。どろっとした酸味が舌の奥を刺激し、僕は蛾口を捻り、今度は水道水をグラスに入れて一気に飲み込んだ。



                              * * * * * * *


僕は半年ほど前に、仕事が終って駅に向かう為に新宿の外れにある小さな公園の中を横切っていた。埃の様な青白い星が見事に散りばめられた十一月の夜で、月は丸まったまま眠りについていた。公園には蜜柑色の外灯が砂場の表面を照らしていて、茂みの中でゴソゴソと野良猫が騒ぎ出し、何かに追いかけられる様に飛び出していった。夜になると息を呑んだ様に静まり返った公園は誰も人を近づけない尖った殺気に満ち溢れていた。
公園の中程に来ると、奥まった所にある公衆トイレで物音が聞こえた。通り過ぎようとすると小動物の鳴き声の様な低いうめき声が聞こえて来て、その声は次第に甲高く、大きくなった。立ち止まって見ると扉の奥で人の気配がした。気にせず歩き出そうとするとそれは女性の絞りだす様な泣き声で、まるで喉が焼かれて潰されてしまった様な声だった。空気が歪に乱れていて扉の向うでは明らかに何かが起こっていた。いや、とても正常とはいえない何かが起きた後の沈んだ空気の奥底から聞こえた音だった。足を止めたものの、そこを歩き出す事は何故か出来なかった。

扉に手をかけた。向うで誰かが地面の上で動めいていた。唾を飲み、息を吸い、ゆっくりと吐いてから扉の向こうに機械的に声をかけた。「大丈夫ですか?」
反応がない。微かに聞こえた女性の泣き声は下の方から聞こえた。誰かが立っているのではなく、床に伏せ込んでいるのだろう。もう一度訊いた「大丈夫ですか?体の具合でも」
その時、奥から耳を突き抜ける雷鳴の様な悲鳴が聞こえた。生れて初めて聞く人間の声だった。
ドアを開けると、切れかけの蛍光灯が不規則に点滅している中に倒れる様に座り込んでいる若い女性がいた。僕を見上げたその女性の顔からは一切の表情が抜き取られていた。顔の焦点すらなかった。片方の目は赤く腫れ上がり瞼が落ち込んでいた。顔色は白を通り越して紫色をしていて、唇から流れ出た鮮血は最初口紅の乱れとさえ思った。紺のスーツは無造作に前で開かれていて、乳白色のシャツは第二ボタンまでがなくなっていた。皺だらけの紺のスカートの裾から伸び出た膝を折り曲げて、薄汚れたタイルの上に座り込んでいた。結わいていたであろうゴムバンドが外れて、バサッと肩まで落ちた黒髪の途中でかろうじて引っかかっているだけだった。
彼女は僕を見上げて、赤く染まった瞳で僕の額辺りの一点を注意深く見つめていた。口元が微かに動いたが言葉は聞こえてこなかった。僕は次に発する言葉を探した。しかし、そこで見た光景は今まで一度もなかったものだし、これからどんな生き方をしようと見るはずのない光景だった。便と尿が染みだした空間の中に僕とその女性はひっそりと静まり返って二人の間の僅かな空気の震動を感じとっていた。
その震動が彼女の声で再び大きくなりだした。その声に思わず一歩後ずさりをした。
「や、やめて、お願い」
僕を見上げていた彼女の口は固まったままで、頬を動かして声を発しているみたいだった。だらんと垂れた両手が首筋と胸元を覆い隠した。折り曲げられた膝が一瞬動いて、ハイヒールがタイルを引き摺る硬いた音が響いた。
「いや、あの」とにかく何か言わなければならなかった。喉元の水分が急激に蒸発していくのを感じた。
「大丈夫ですか?ここを通りかかったものですから、あなたの悲鳴が聞こえたので」
僕が見た彼女はその時初めて呼吸をした様に見えた。首元が呼吸のせいで僅かに膨らんでいた。
「嫌っ、出て行って」
彼女は擦れた声で叫んだ後、両手の手の平で額を覆い、僕から視線を外して俯いたまま鼻を鳴らして泣き始めた。
僕は、彼女の言葉そのままにトイレのドアを閉めて、すぐそばのベンチに腰掛け、無意識のうちに煙草を取り出して火をつけていた。僕はトイレで起きたこと、彼女の身に起きた事は深く考えるまでもなく把握する事は簡単だったし、彼女の表情も行動も、発した言葉も理解する事が出来た。僕は今ここで何をしているのだろうか。何をすべきなのだろうか。最近この辺りの治安の悪さは有名だったし、実際に、数日前に会社に巡回の警察官がやって来て「この辺りで婦女暴行事件やひったくりが多発しているので、日が暮れてからはあまり近づかない方がいい。特に女性の方は。」と言っていたのを思い出した。
静まり返ったベンチであらゆる事が頭の中に現われては消えていった。警察に通報するべきか、彼女に何かしてあげるべきなのか、それともこのまま黙って立ち去るべきなのか。考えてもそれなりの答えは見つからなかった。つまりレイプされた女性を見つけて、易々と警察に連絡をして「女性が暴行されたのを発見しました。すぐ来て下さい。」と言ってしまうのは、それが彼女に起こった事に対して彼女自身が選ぶ最善の方法なのだろうか。また「ここにいても危ないから、なるべく早く帰りなさい。じゃあ」と言って立ち去ったとしても、いつここに変な連中が再び現われるとも限らない。とにかく彼女をここから出さなければいけないし、彼女が帰るべき所へ行く道筋だけは最低限つけるべきだと思った。
僕は煙草を消してトイレに近づいてドアの外から声を掛けた。
「ねえ、僕はまだここにいるんだけど、とにかくそこを出て、そしてこの公園から出なくちゃいけないよ。ここは暗くて危ない所だから、また誰が来るとも限らないし。」
ドアの向うからは小さくすすり泣く声が聞こえていた。続けて言った。
「僕はたまたまここを通りかかっただけなんだ。僕はこの近くの会社の人間で、駅へ向かう途中にここを通っただけなんだ。怪しいものでも変な奴でもない。君には何もしない。警察もとりあえず呼んでいない。このまま一人でいては危険だよ。もしよければタクシーか何か呼ぶことも出来るし。しばらくそこのベンチにいるよ。とにかく放っておくことは出来ないんだ。」
そう言うと僕は改めてベンチに座り直した。しばらくして公園の入り口にある自動販売機でボトルのミネラルウォーターと缶コーヒーを買い、ミネラルウォーターをドアの隙間から床にそっと置いた。
「もしよければ飲めばいい。とにかくそこから出てきて欲しいんだ。このままここを立ち去る事にはあまり気が乗らないんだ」
ドアの向こうからガサガサと音が聞こえた。泣き声はもう聞こえてこなかった。僕はベンチに座って缶コーヒーを一気に飲み干し、そこに煙草の灰を入れた。
辺りには都会のど真ん中でありながら人影は殆ど見当たらなかった。もともとこの周辺はバブル時代に猛烈な地上げにあい、この辺りの土地は徹底的に買い占められたものの、地価の暴落とバブル崩壊の影響で殆どが更地のままだった。周辺の会社は既に灯かりの消えた時間だったし、空き地だらけの土地故に住んでいる人間もあまりいなかった。その中心にぽっかりとあるこの公園は昼間でさえも物寂しい雰囲気に包まれていた。最近では浮浪者がうろうろしたり、不法滞在の外国人が麻薬などの取引に使っているという噂さえあった。また、取り壊されることなく残った無人の古いアパートは、夜中になると繁華街をうろついている血気盛んな若い男達が町で引っ掛けた女性を連れ込んでいるという噂さえあった。その時、かなり近くで若者の騒ぎ声が聞こえた。男数人が歩きながら大声で卑猥な言葉を連呼していた。
その声を聞いてかどうか、トイレのドアが開き、彼女が俯きながらその場に立ち尽くしていた。紺のスカートは皺だらけで所々に湿った砂の塊の様なものがついていて、片方の裾は十センチ程切れていた。糸がほつれてくるぶし辺りまで垂れ下がっていた。足首には擦り傷が幾つも見えた。紺のスーツも薄汚れていて、しっかりと閉じられていたが、その下の白いブラウスのボタンがないせいで白いブラジャーが見え隠れしていた。襟には小さな血痕もあった。髪は乱れていて所々が無造作にはね上がっていた。彼女はハンカチで唇の傷に当てたまま、鼻を赤く腫らせていたがもう泣いてはいなかった。僕は彼女を見上げて言った。
「ねえ、とにかくここを出て君は帰ったほうがいい。でもその格好では電車に乗れないかな。もしよかったらタクシーを呼ぶよ」
彼女はフラフラと歩き出し僕の隣に座った。持っていたミネラルウォーターを二口程飲むと、額に手をあてたまま前かがみになって動かなくなった。微かな息使いが聞こえハイヒールのつま先で足元の砂に何かを書いていた。
「怪我はないかい?病院に行く?それとも警察に行こうか?」
ふと見上げると公園の柱時計は十時を過ぎていた。公園はより深い静寂と暗闇に包まれていた。風もなく音もなかった。遥か向うの大通りから車の音がごくたまに聞こえるだけだった。しばらくしてから彼女は無言のまま首を横に振った。
「じゃあ、帰ろう。君の家はどこ?タクシーを捕まえるよ」
彼女が小さく頷いたので、すぐ戻るからここに居て、と言ってタクシーの捕まりそうな表通りまで走って行き、たタクシーに乗り込んだまま公園に戻った。
しかし、彼女の姿は既に公園からいなくなっていた。ベンチにはミネラルウォーターのペットボトルが飲みかけのまま置かれていた。僕はとりあえずタクシーに戻って料金を払い、辺りを探した。まず、もう一度トイレの中を見たが彼女はいなかった。茂みや大きな木の影、そして公園の周りを何周してもそれらしき人間はいなかった。むしろ人影すらなかった。誰かを探すにはそれ程手間のかかる場所ではなかった。人影もまばらでT字の多い一帯だったし、空き地に立てば反対側がすぐに見渡せる。しかし、名前すら分らない故に名前を叫ぶことも出来ない。息苦しさと苛立ちの中で十分程走り続けていた。月はいつのまにか現われた雲に隠れて辺りは幾分暗さを増した様だった。
僕は近くの電柱に寄りかかり外灯からこぼれ落ちる光の筋をぼんやり見つめていた。いなくなった彼女はきっと帰ったのだろう。あの様な事が起きて、誰だか知らない僕さえも信じられないのかもしれない。僕の言葉が決して彼女には届かなかったとは思えないが、少なからず彼女に起きた事が不幸な事であっても、知らない僕が何かを出来るはずもないし、僕はただそこを通り過ぎただけなのだ。ましてや僕には決して理解出来るはずもない事が、今まさに彼女に起こってしまった事であるというだけで、それはそれでただそれまでなのである。彼女に対する同情はまるで郵便ポスト宛てに手紙を書いている様だった。僕も家に帰らなければいけない。僕は遠くの光の束へ向かって歩き始めた。公園から遠ざかると町の喧騒が忍び寄り、空がじっとりと明るくなっていた。ビルの屋上のライトアップされた看板がアスファルトを四角く縁取っていた。



二ブロック程歩いた所で突然車のクラクションが鳴り響いた。ネオンが滲んだ空を切り裂く鋭い音と、車のタイヤがアスファルトに深く刻まれる鈍い音が同時に聞こえた。かなり長い時間だった。直感では車はブレーキをかけても尚数十メートル走った様だった。何か嫌なものを感じ酷く混乱して、思わず音の方へ走り出していた。最初の十字路で右に曲がると少し離れた車道の真ん中で黒い人影がうずくまっているのが見え、その向うには白いライトバンが停車していた。車のライトがその人影をしっかりと捉えていた。僕がそこへ駆け寄ると車からは会社の作業着らしきものを着た中年の男が降りてきて、うずくまった人影に怒鳴りながら声を掛けていた。
その人影は先ほどの公園の女性で頭を抱えて車道の上に丸まっていた。車と彼女は接触しておらず、男が「気をつけろよ」と声を掛けても動こうともしなかった。赤いエナメルのハイヒールの片方が離れた場所に横たわっていた。男は、彼女に怪我がないのが分ると、何か捨セリフを吐きながら車に乗り込みそのまま走り出して行ってしまった。歩道で一部始終を見ていた数人の歩行者は何事もなかった事が少しばかり残念だったのか、舌打ちをしながらどこかへ行ってしまった。
「ねえ、大丈夫?」
僕が彼女を見下ろして声を掛けると、一瞬顔を上げて小さく頷いた。僕は彼女の腕を取り、起き上がらせて歩道へと移動させた。足はフラフラで殆ど引きずった状態だった。彼女をガードレールに腰掛けさせると僕は片方のハイヒールを拾い彼女の足元に置いた。彼女は肩を落とし腕をだらんと下げたまま、歩道についた染みの辺りを見続けている様だった。黒い皮のハンドバッグは肩からずれ落ちてなんとかしがみついていた。
「急にいなくなったから心配したんだ。」
それだけ言うと僕は何故か黙り込んだ。何も言う言葉も見つからなかった。時折通り過ぎる車のライトが彼女の服の乱れをありありと浮かびあがらせていた。僕らをカップルと勘違いしたのだろう。数人の酔っ払いのサラリーマン達が冷やかしながら通り過ぎて行った。反対側の電柱の下では若いカップルが抱き合っていた。片目のつぶれた薄汚れた浮浪者がゴミ箱をあさっていて、中から小さな紙袋を見つけるとまるで子犬を抱きかかえる様にして人気のいない空き地の方へ消えて行った。

「一人で帰れるのかい?」
彼女の髪がひらひらと靡いてその横顔を隠した。呼吸の為に小さくめくれ上がった唇が微かに動いた。
「帰れるのなら今ここでタクシーを捕まえよう。君の家はどこなんだい?この近くなの?」
彼女は俯いたまま動かなかった。少し苛立って言った。
「ねえ、ちゃんと帰れるのなら僕は行くよ。もう遅いしタクシーで帰る。それで君はここに残って別なタクシーを見つけて帰るがいい。いいかな?」
何の反応もなかった。僕は一台のタクシー捕まえた。ドアが開くと彼女はごそごそと言った。
「怖いんです」彼女はその一言だけ言うと遠くのビルの隙間に目を凝らしていた。先程と違って幾分顔は赤みが戻っていた。何度か髪を掻き上げると彼女は引っかかっていたゴムバンドを摘んで指からするりと地面に滑り落とした。
「分った。とにかく一緒に乗ろう。君の家まで送るよ。そこで君を降ろしてから僕はそのまま家に帰るよ」
彼女は頷き、僕らはタクシーに乗り込んだ。車内は異様に煙草臭く、彼女が窓を開けるとミラーに映る運転手の顔が強張っているのが分った。
「家はどこなんだい?僕は初台だけど。」
彼女はぼんやり外を見ながら答えた。
「やっぱり初台に先に行って下さい。」
運転手に初台にある僕のアパートの詳しい場所を言った。車が走り出しても運転手はミラーを通して彼女の格好を不思議そうにちらちらと見ていた。
きっと彼女は自分の住まいが知られたくないのだろう。僕が先に降りてから帰るのだろう。それでも全然構わなかった。僕はそっと目を閉じて車のエンジン音に耳を澄ましていた。救急車の音が大きくなり、そして消えていった。どこからかクラクションが聞こえた。信号で止まると人波の足音が聞こえた。目を開けるのがたまらなく嫌だった。意識を集中すればする程、僕は夜の都会の真ん中で酷く孤独であるのだと感じた。
僕のアパート付近に差し掛かると、彼女は消える様な声で言った。
「すみません。帰る所がないんです」
「ない?」僕は驚いて目を開けた。「無いってどういう事?」
車は既にアパートの前で停まっていた。運転手は黙って待っていた。
「ちょっと待ってよ。」僕は溜息をついて声を上げた。「そんな事言われても困るんだ。」
「ごめんなさい」
運転手は何か言いたそうだったので僕は咄嗟に言った。
「とりあえず降りよう。降りて話そう」

タクシーが走り去ると彼女は肩を落としたまま真っ直ぐに立ちすくんでいた。辺りはしんと静まり一切の風も吹いていなかった。
「ねえ、困るんだ。そして帰る家がないって、どういう事なんだい?」
彼女は弱々しい顔を上げて僕を捉えた。まっすぐに彼女の顔をまじまじと見るのはこれが初めてだった。多分二十代半ばなのだろう。化粧は薄かったがアイシャドーや口紅が涙のせいで酷く流れ出していた。鼻はこぶりで頬はふっくらしている。目は二重で大きいが赤く充血していた。顔からは人間らしいあらゆる表情が剥ぎ取られていた。顎のラインがほっそりとしていて普段はわりに気の強そうな感じのする子だった。彼女はまるで氷の塊の中に閉じ込められている様に黙ったままだった。僕は諦めてしばらくの間、空を見上げていた。細かい星の粒は次第に動物か何かにさえ見えてきていた。こんなに長い間、空を、星を見続けたのは久しぶりだった。しかし、それはどこまでも星であり、どこまでも夜の空でしかなかった。
「帰る家がないって、どうしてさ」
僕の口調が若干苛立ちを含んでいたのを感じたのだろう。彼女はゆっくりと息を吐いてから無表情のまま答えた。
「とにかく帰る所がないんです。帰りたくても帰れないんです」
「ねえ、それはさっき君に起きてしまった事と何か関係があるのかい?」
彼女は頷いた。僕は天を仰いでもう一度溜息をついた。「どうするつもりなんだい?」


部屋の鍵を開けながら言った。
「とにかく座ってゆっくり考えればいいよ」
湿った部屋の明かりをつけて、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに入れてダイニングのテーブルに置いた。彼女は玄関に朽ち果てた工場の煙突の様に立ったまま部屋のあちらこちらに目を配っていた。薄汚れた壁、キッチンの黒ずんだやかんや水切り、去年のままのカレンダー、玄関の脇に無造作に積み重ねられた新聞紙の束、ビールの空き缶が溢れ出したゴミ袋。僕は缶ビールを開けてテーブルに座った。
「ねえ、とりあえず入って座りなよ」
彼女は微かに頭を下げて部屋に上がりテーブルの向う側に座った。
「僕は君に色々聞かなきゃいけないし、君に言わなければいけない事が沢山ある。でも、今君はそれに対して答えたくないだろうし、それはあまりに辛い事だと思う。でも、とにかく聞いて欲しいんだ。」
彼女は一口だけオレンジジュースに口をつけただけでそのまま下を向いたまま黙って僕の話を聞いていた。
「まず、僕は鏑木透というんだ。二八歳でここに一人で住んでいる。僕はあの公園の近くの会社で働いている普通のサラリーマンだ。あの公園は駅との通り道でよく通る場所で、僕はさっき会社の帰り道で公園の中を横切ろうとしたらトイレで物音がして君を見つけた。あの辺りは結構治安が悪くて有名なんだ。僕が君が誰かに乱暴された事はすぐに分った。多分、誰でもそうかと思うけど、そういうのを見つけて放っておけないんだ。とにかく君をあの場所から移動させようと思った。そして君のその姿では電車には乗れないだろうし、君も嫌だろう。だからタクシーを呼んだ。でも君はいなかった。その気持ちは分る。」
壁時計が時を刻む音だけが聞こえていた。
「多分、君は我を忘れて単にフラフラ歩いていたのかもしれない。でも、僕は思ったんだ。君がもしかしたらよからぬ事を考えていたのではないかと。それについてはどちらかは聞かない。もしそうだとしたらそれはあまり良い考えじゃない。僕は男で、そういう一種の暴力の辛さはあまり分らないし、どういう人間が君に乱暴したかは分らないけど、それはとても酷い事だし、悲劇だし、許せる事ではない。でも僕は死を選ぶ事はしない。君の今の気持ちを理解する事は難しいかもしれないけど、理解したいと思う。それでもその辛さを乗り越えるのに死があるとは思わない。」
僕は煙草に火をつけて続けた。
「まあ、それはもういい。僕はあの時警察を呼ばなかった。今はそうするべきだったのかもしれないと思っている。しかし女性があの様な悲劇の後で、警察においてあらゆる対応をしなければいけない事を想像すると、それは君をより悲惨な現実に突き落とすという可能性があるのかもしれない。だから僕は躊躇した。それについては君が今後判断すればいい。さて、次は今後の事なんだ。」
立ち上がって換気扇をつけ、キッチンの小窓を開けた。僅かに夜風が入り込み、遠くの列車の音が聞こえてきた。
「君は帰る所がないと言った。帰りたくても帰れないと言った。それについては僕は全く分らないけど、あの出来事が原因でそうなったのなら、多分、本当に帰れないんだろう。それでも他に行く所はないのかい?」
彼女は俯いたまま静かに頷いた。
「分った。では君の好きにすればいい。仮にここに今日泊まるとしてもそれはそれで構わない。僕は男だし一人暮らしだけど、こういう事についてはわりに真面目なんだ。飲み屋で知り合った女性を部屋に連れて来たのとは全然違う。とにかくゆっくり考えて欲しい。たまたま明日は土曜日だけど、君は仕事は休み?」
彼女はまた同じ様に頷いた。
「僕も休みだ。とにかく着替えなきゃいけないし、シャワーでも浴びたほうがいい。風呂場はあまり綺麗じゃないけどその辺りは我慢してくれ。それと最低限の洗面道具はある。僕はこれから二時間、部屋を空けるよ。近くに飲み屋があるからすぐに時間は潰せる。」
僕は立ち上がって奥の部屋から布団とタオルとスウェットの上下を用意した。
「布団は来客用に買ってまだ使っていないものだ。このスウェットも買ったばかりのものだ。タオルは洗いたてだから大丈夫だと思う。今は一時だから三時に戻る。布団は悪いけどこのテーブルを寄せて敷いて寝て欲しい。それと冷蔵庫に多少の飲み物はあるし、少し口に入れられるものが幾らかはある。お腹が空いていたら食べればいい。あと、救急箱もそこにあるし傷の手当てをすればいい。遠慮しなくてもいいんだ。」
僕は着替えて部屋を出て、近くの行きつけのカウンターのみの小料理屋で瓶ビールを二本ばかし飲んだ。隣の客はおかみと最近のジャイアンツのふがいなさについてあれこれしゃべり続けていた。僕の様子がいつもと違うのか、おかみは軽い挨拶だけでとりわけ話し掛けてこようとはしなかった。

 
三時過ぎに部屋に戻ると、彼女は椅子に座ってテーブルの上に伏せたまま寝ていた。シャワーを浴びたらしく髪は濡れそぼっていて僕のグレーのスウェットを着込んでいた。足元には汚れた紺のスーツが丁寧にたたまれて置かれていた。顔を覗き込むと憂いに沈んだ寝息が小さく聞こえた。ふと彼女の脇を見ると、テーブルの上に小さなメモが置いてあった。
『今日はいろいろありがとうございます。名前は滝田 さなえといいます。』
僕はその紙を折ってポケットに突っ込み、奥の部屋に入ってヘッドフォンでビートルズの『サージェント・ペパーズ』を聴きながらそのまま眠りにつき、起きたときには既に朝を迎えていた。

 
時間は朝の九時だった。窓を開けると秋の冷たさの入り混じった微風が頬を撫で真珠の様な朝日が部屋を目一杯に照らしていた。一斉に飛び立った雀の群れは視界を斜めに横切って向かいの電線の上で整列を始めた。
ダイニングに行くと、さなえという名の女性はテーブルに座ったまま頬杖をついてテーブルの木目の上で指を無意識に動かしていた。僕が「おはよう」と言うと、ちらっとこっちを見てから「おはようございます」と言った様だった。口がそう動いただけで実際には聞こえてこなかった。
マグカップにカフェオレを二つ作りテーブルに置いて座った。彼女は幾分生気を取り戻していたものの青ざめた表情には憂いが漂っていた。溜息まじりに呼吸をしながら、向かいに座った僕の胸元あたりに視線を忍ばせていた。髪は結わかれていたので子供っぽい額が顔を覗かせ、化粧は落とされていたものの薄っすらとファンデーションをしている様だった。唇は淡い紫色をしていて固く結ばれていた。
「よく眠れた?」
彼女の頭だけがほんの少しだけ揺れて、そのせいで耳にかかった髪が垂れて鼻の辺りをかすめた。彼女はか細い指でそれをすくい、ふっくらとした耳たぶの裏へ隠した。
「さなえさんだよね。ねえ、お腹空かない?なんか作るよ」
僕は彼女の反応を見るまでもなく立ち上がってパンを二枚トースターで焼いた。冷蔵庫を開けても昨日の晩に彼女が何かを飲んだり、食べたりした形跡はなかった。僕は買ってあったパックのサラダを二つの皿に分け、バターとマヨネーズと塩をテーブルに置いた。その間も彼女は時折鼻をすすりながら指の爪辺りをしきりに触っていた。
「こんなものしかないけど、何か食べた方がいい。君は昨日から多分何も食べてないし、空腹が和らげば少しは気分も変わると思う」
彼女がゆっくりとバターを塗ったトーストを口に運んだのを見届けてから、僕も食べ始めた。静か過ぎる朝食だった。離婚間近の夫婦ならこういう食事なんだろうな、と思った。彼女はトーストを最後まで食べてしまうと、塩を振っただけのサラダを半分残してフォークをコトッと置いた。俯いたまま少し腫れた瞼から氷の欠片の様な固形の涙がぽたっと落ちてテーブルの上を濡らした。僕は玄関で新聞を取り食事をしながら読んだ。通り魔があり、どこかの大きな会社が潰れ、ジャイアンツがサヨナラ負けをして、名前の聞いた事のない女優が入籍したと報じていた。それらはただの記号の羅列にしか見えなかった。
新聞紙の向こう側で彼女は泣いていた。彼女は昨日からどれだけ泣いたのだろうか。彼女の心を微塵に砕いたものに対しての行き場のない怒りとやるせなさ、そして憐れみや同情を含んだ悲しみに僕すらも包まれていた。無慈悲な暴力と凶暴な快楽が突如襲いかかるという事の意味について、その事象的な帰結として、そしてその総体として、目の前の彼女の姿がまさにそのものであるというありありとした事実だった。彼女が今いる世界はどこなのだろうか。彼女の世界では何が起きていて、何が見えて、何を感じているのだろうか。そう考えると僕はこの狭い部屋の中で酷く遠い世界の住人の様にさえ思えた。どんな言葉も眼差しも彼女を素通りして、彼女の背後の壁の中に吸い込まれて消えてなくなっているのではないのだろうか。虚無感と無力感の渦の中で身動きも取れず途方に暮れていた。僕らのいる空間の様にすっかりカフェオレは冷めきってしまっていた。
外から子供達の駆け音が聞こえた。静けさと紙一重の物音だった。僕の食べ残しのトーストはドライトーストの様だった。キッチンの小窓から入る土曜の朝の幻影の中で新聞をめくる乾いた音だけが無機質に断続的に響き渡っていた。僕は音の無い言葉の海のただ中にいた。何か言わなければいけなかった。沈黙の嵐の下では不可能に思えた。しかし、それはより僕を窒息させ、酷く疲れさせた。
「ねえ、昨日の事だけど、君に乱暴した人間は許される訳はないし、その辺りはきちんとすべきだと考えてる。だから」
泣き腫らした彼女は大きく首を振った。
「でも許されるべきじゃない。これは犯罪なんだ。君はその男を見ているし、男は多分逃げ隠れする事は出来ない。だから教えて欲しいんだ。これは空き巣とか、スリとか、そういう類のものではないんだ。僕はたまたまあそこを通って君を見つけた。そして今、こうして目の前にいるにも関わらず『なるべくこういう事は早く忘れるべきだよ』とか『犬に噛まれたり、交通事故みたいなものさ』なんて言えるはずがないんだ。」
彼女は僕の顔を見ていた。というよりは僕の背後の何かを見ている様だった。
「君の気持ちになって考えようとすればする程、それはとても辛い事だけど、僕らは昨日出会ったばかりでお互い何も知らないんだ。僕の出来る事は一般的に言って出来る事、やるべき事なんだ。君をとことん貶めた連中を見つけ出してしかるべき罰を与える事だと思う」
彼女は小さく頷いた。
「僕の言っている事は分ると思う。その反面、昨日も言ったけど、それは再び深く君を傷つける可能性もある。僕が君の立場だったらどうするだろうか、多分、分らない。でもね、あの辺りは僕の会社の近くだし会社の女の子達も通る場所なんだ。これ以上、誰も被害にあわせたくないんだ」
彼女はもう一度頷いた。男物のスウェットはどこかぎこちなさそうだった。
「さなえさん、何か言って欲しいんだ。僕が一方的に話していてもしょうがない。君はどうするべきか、どうしたいか教えて欲しい」

静まり返った部屋で僕は彼女の言葉を待った。宵闇の中で遠くの山の頂きに姿を現す朝日を待っている気分だった。たまりかねて僕は使った皿を下げて流しで洗った。目の前の小窓からそよ風が川の様に流れ込んできた。若い母親が連れていた子供が急に泣き出したので、頭を撫でてしきりに話し掛けていた。
「あの」不意に彼女は柔らかな声で僕の背中に声を掛けた。その後、大きな溜息が聞こえた。僕は振り返りそのまま椅子に腰掛けた。
「私の勤めている会社もあの公園の近くなんです。会社を出た所で嫌な予感がしていました。誰かがつけて来る気配がしました。それでも気にせずに歩いていて、あの公園にさしかかった所で声を掛けられました。声を掛けたのは男二人で私の知り合いだったんです」
彼女はまるでテーブルに話し掛けている様だった。
「知り合い?」驚いて訊いた。「出来たらもっと詳しく教えて欲しいんだ」
「はい。今から四ヶ月前に新宿の飲み屋である男に声を掛けられたんです。歳は三三歳でがっちりしていて背が高く色黒で遊び人風の男でした。話も合うので携帯の番号を交換して電話やメールだけのやりとりがしばらく続きました。だけど付き合うのにそれ程時間は掛かりませんでした。しかし彼は貿易の仕事をしていると言いながらかなり謎めいた部分が多く、その男が半分堅気の人間ではないと分るのはそれから一ヶ月位してからでした。彼は仕事で少しトラブルに巻き込まれたと言って、突然私の練馬区の部屋に転がり込んで来ました。私が断っても土下座までして懇願するので、しょうがなくそれから二人で住む事になりました。彼はあまり仕事にも行かず毎日フラフラ遊んでいました。その頃から彼の友人と名乗る男が二人よく遊びに来る様になり、私が仕事から帰っても三人でよく昼間から酒を飲んでいました。男二人は彼よりも若干年上で、友人というよりは彼の先輩という感じで時折敬語で話をしていました。彼ら二人は明らかに新宿辺りのチンピラでした。一応、彼の事は好きでしたのでそれなりに我慢をしていたのですが、彼ら三人が私の給料までも酒代に使ってしまう程だったので、その友人らが帰った後では彼との喧嘩がいつも絶えませんでした。」
「酷いな」
「ええ、それで私は何度も『別れたい』『出て行って』とお願いしましたが、その度に彼は急に優しくなって詫びてきました。そんな事がしばらく続いたある日、私が仕事帰りにカードでお金を下ろすと何故か残高がゼロになっていました。すぐにそれは彼だろう。つまり部屋にある通帳と印鑑で下ろしたのだと直感したんです。部屋に帰ってその事を彼に問いただすとしらばっくれたまま白状しませんでした。それで私は頭に来て警察を呼びました。やって来た警察に事情を説明すると、彼は断固否定しましたがそのまま連れて行かれました。でも、なぜか警察はきちんと捜査さえしませんでした。彼が黙秘している事、証拠がない事。それとそういう事件は世の中では珍しくないし、そもそも一緒に住んでいる間柄だったからです。あとは、多分ですが、警察とその筋はある程度繋がっていて、彼の後ろにいる人間が手を回したのだと思います。彼はそのまま釈放され、私がいない間に荷物を持って出て行って、そのまま消えてしまいました。」
僕は黙ったまま聞いていた。
「正直、ほっとしました。お金は返ってこないけど、彼が出て行ったおかげで普通の生活に戻れたんですから。しかし、結局・・・」
彼女は天井をしばらくぼんやりと見つめていた。
「昨日、公園で声を掛けてきたのは彼の友人二人でした。『やあ、久しぶり、元気?少し話そうよ』と言って公園に連れ込まれたんです」
天井を見上げたまま糸の様な涙が一直線に筋を作っていた。僕は思わず煙草に火をつけその煙の行方を追っていた。
「何もかもが終った後に突然、彼が現われたんです。」
「彼が?」
「はい。彼は入り口に立ったまま私を見下ろしていました。肩をすくめて声を出さずに不気味に笑っていました。冷酷でそれでいて無表情の笑顔なんです。機械的な笑いでした。」
そこまで話終ると彼女はテーブルに突っ伏したまま肩と頭を震わせて泣き始めた。髪がだらんとテーブルに枝垂れていた。もう一度カフェオレを入れ直した。彼女の言葉を反芻しながら舌に張り付いたコーヒーの酸味に意識を集中させて奮い立つ感情を鎮めようとしていた。
「その事を警察に行って言うつもりはないのかい?」
彼女はうつ伏せのまま頭を大きく振り、くぐもった声で答えた。
「言っても何も解決はしません。私に実際手を出したのは彼の友人達だけです。彼らを捕まえても彼は多分捕まりません。彼ら三人がどんな間柄だと証明しても、たまたまそこを通りかかったとか、なんとでも言い訳はつきます。そして、何より彼が捕まらない限り、警察に行ったら今度はどんな事をされるのか。」
彼女は鼻をすすりながら顔を上げ、髪をかき上げて言った。
「あの時に警察を呼んだ事への報復だったのでしょう。でもなんとなく分るんです。もう彼は手出しをして来ないし、二度と現われる事がないだろうと。」
「ねえ、さなえさん、君はこのままでいいのかい?」
それについて彼女は答えなかった。「でも、怖いんです。凍えてしまうそうな位怖いんです。」
「君はそれでも住んでいる所があるんだよね。そこになんで昨日帰らなかったの?」
「彼は二度と現われないと思います。それよりも私を乱暴したあの男達はまだウロウロしていると思います。それに私の部屋も当然知ってますし。」
「さなえさん、とりあえず分ったよ。明日までゆっくり考えるといい。それまで居ても構わないから」
彼女は泣き疲れたのか擦れた声で言った。
「すみません。」
とても弱々しかったが、初めてみる彼女の笑顔だった。非常に限定的で、(笑顔)というものを真似しているみたいだった。